アピアンを探せ(8)──ゼリーのカップで乾杯

 どれほど時間が経ったか──。大人たちもたっぷりと無聊ぶりょうを味わったというところで、白水しろうずがノコギリを手に竹を押し分けながらやってきてくれた。

 抜け出てみると、そこはやはり運動公園の東口付近で、ぐるりと回って道場へ帰り着いた。山間を覆っていた白い雲は溶けたように薄くなり空は明るさを取り戻していたものの、傾きかけた日が差し込むような時刻になっていた。

 ベラスケスは叶からアピアンを見せられると、例の置き手紙の電話番号に発信してみた。泥棒たちはもちろん黙殺だった。

「なんなんだ、あの夫婦は」ベラスケスは憤慨した。「妻と孫を突き落としたことについて一言あってもいいんじゃないか?」

「その石はオプアートさんのものじゃないわよ」とサンディーが言った。「手紙に書いてある特徴とは違うもの」

「そうですね」叶もてのひらに置いてじっくり眺めていた。「丸というより、扇形みたいな……」

「あなたもそれを指輪にしたら?」サンディーがウィンクしながら勧める。「キッパータックさんとおそろいで──ああ、キッパータックさんに作ってもらえばいいわよ」

「いやぁー」キッパータックは照れて頭をかいた。

 しかし叶は、「でもこれは、神酒みきさんに渡そうかなって思っています」と眼差しを伏せて答えた。

「ミキさんって、この場所を教えてくれた人?」

「ええ。きっと本当は神酒さんが探したかったんだろうなって思うので」

 明るい質の叶が思案顔で沈み込んでしまったことに、ベラスケス夫妻は顔を見合わせ、こちらも言葉をなくしてしまう。


 夜になって、白水が道場のフロアにテーブルを出し、夕飯の鍋を運んできた。みんなで食べて、その後は銘々に寛ぐ。キッパータックは携帯端末でメールの確認をしていた。叶はお風呂に入ってきます、と言って離れにある大浴場へ向かった。サンディーはハミングをしながら汚れた靴下などをまとめている。ペピタはすっかりくたびれたらしく、床で寝ていた。

 ベラスケスは一人考え込んだ。

(アピアンを見つめていたときの叶さんの悲しげな表情……)

 ベラスケスの胸はきゅっと締めつけられる。そして落ち着かなげにキョロキョロして、キッパータックを盗み見る。ベラスケスは動いた。サンディーにそっと近づいて肘をつつくと、キッパータックに気づかれないように無音で移動して土間へ来るように指図する。

「ダニエル、どうしたの?」サンディーは様子を察して小声で尋ねる。

「荷物をまとめて私たち、帰ろう」

「ええっ、なぜ?」

 ベラスケスは「しっ」と唇に人差し指を当てて、さらに音量を絞って言った。「叶さん、三木みきさんという人のことを想っているのだよ。キッパータックさんにも惹かれるけれども、三木さんのことも忘れられない。そういう顔をしていたよ。複雑な恋にもだえ苦しむ顔を。私にはわかる……。でも私たち、キッパータックさんを応援したいだろ? 幸せになってほしい。もしここに〈ベラスケス・ボックス〉(注:マジックの箱のこと)があれば二人を閉じ込めてやるんだけどさ、ないから、道場に二人きりにしてやろう。ペピタが寝ているうちに抱っこして連れて帰ろう。タクシーを呼べばいい」

 サンディーもキッパータックへこっそり視線を送る。「そりゃ、二人きりにするのは賛成だけど、急にいなくなったら心配しないかしら?」

「大丈夫。こちらの意図は伝わるだろう。後でメールを送ればいいさ」

 ベラスケス夫妻の行動は早かった。ペピタは健やかな眠りに抱かれたまま運びだされ、土間に背を向けていたキッパータックは彼らが去ったことにまるで気づかなかった。


 三十分後、白水が四角い盆の上に人数分のフルーツゼリーを乗せてやってきた。土間の上がりかまちにぼんやり腰かけているキッパータックと、彼と向かい合う形で、風呂あがりのTシャツとジャージパンツ姿でタオルを手にして立っている叶。白水は怪訝な顔をした。

「あれ? ご一家はまだお風呂ですか?」

「帰りました」とキッパータックは答えた。

「はあ!?」

 白水はわざわざ横に動いて、道場の広いフロアの誰もいない空間へ視線を投げてから言った。「なんでみんな帰るのよ! じゃ、じゃあ、宿泊代は?」

「お代は五人分お支払いします。ベラスケスさんからすでにもらっていますので」

 白水は上がり框に盆を置くと、腰を曲げたままううーん、と唸る。「朝食も五人分お召しあがりくださいね! もぅ、勝手に帰らないでくださいよー。このデザートのゼリー、どうするんだよ」

「あら、じゃあ、いただきまーすねー。白水さんも食べたら?」叶はキッパータックと自分の分を両手に取る。

 白水はやけを起こしたようにベラスケス一家の分のゼリーの蓋を剥いで、自分の口に流し込む。合計三個平らげ、唇の脇に垂れたシロップを手の甲で拭うと、言った。

「よしっ、今夜は飲もう!」

「もうお仕事は終わりですか?」と訊く叶の声を通り過ぎて、白水は一旦どこかへけると、酒瓶をぶら下げて再登場した。

「おれ、あなたたちの布団を敷いたら仕事は終わりなんで、ここで飲ませてもらっていいですか? 一緒に飲みましょう」

「なにその度数が強そうなお酒」と叶。

「サソリ酒です」

「サソリ!」

「嘘です。烏丸からすま君の手作り、二年もののザクロ酒です」

「あ、そう。どのみち飲まないけど」

 白水はキッパータックの隣に座ると、ゼリーのプラスティックカップに酒を注いで、ぐいっと呷る。「っはー。遠慮しないで飲めばいいのに」

「あ、よかった、晴れてる。星がきれーい」扉を開けて首だけ覗かせながら叶が言った。

「星なんて。こっちは毎晩飽きるほど見てますよ!」と忌々しげに言い放つ白水。

 ついに叶は表へ出て行ってしまい、土間にはキッパータックと白水の二人きりになった。

 白水は一人酒となってしまい、ふてくされた顔で宙を睨んでいた。「……キッパータックさん。わかっていますよ。ベラスケスさんご夫妻は急用ができて帰ってしまった。叶さんと二人きりになってしまい、あなたは今とても気まずい──でしょ?」

「あ、いや……」

「あなたたちは恋人同士ではない」白水はキッパータックをキッと凝視ぎょうしした。「お二人のよそよそしい感じを見ればわかりますよ。きっと元彼がどうとか、三角関係やらなんやら、複雑な事情があるんでしょ? 大丈夫。おれがずっと居てあげますよ、朝まで。だから飲みましょう」

「よそよそしいかな? 友達で仲良くしてるつもりだけど」

「あっはっはっ!」白水はキッパータックの肩を叩いて笑いだした。「落花情あれども流水意なし、ってね。向こうはそう思っちゃいない、と」

「えっ?」

 扉が開いて、叶が顔を出した。「ねえ、なにか虫が光ってるんだけど、蛍かしら?」

「鳴かぬ蛍が身を焦がすってね」と白水は酒をみながらつぶやいた。「秋に光る蛍もいるんですよ。そして毎年飽きるほど見てるって話ですよ」

「風情がないわねぇ」叶は顔をしかめると、扉を閉めた。

「蛍か。僕、見てくる」キッパータックは立ちあがり、扉へ向かった。

「がんばれー」と白水は気のない声援を送った。




 第15話「アピアンを探せ」 終わり

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