東味亜大庭研究ツアー(7)──ジャルディーノ・セグレト(秘密の庭)
ゲストハウスの前で四台の園内バスが発車の準備をしていた。メンバーたちはそれぞれ目当てのスポットを運転手に告げ、運転手は「オーケー」と合図を出したり、それは隣のバスに乗った方がいい、とアドバイスしたりした。キッパータックたち四人も西エリアを回るバスを当たり、乗り込んだ。
庭園全体がのどかで甘やかなミルクプディングのようだった。ミルクプディングを目の前にして味わっている休日の空気だったし、その空気がミルクのように隅々まで染み渡っているに違いなかった。貸し切りということで人影はほとんどなかったが、ときたま庭師や施設管理人が姿を現し、バスを認めると動きを止め、手をあげ品のいい笑みをくれた後、ペコリと頭を下げた。最初のロータリーへはあっという間に到着し、そこは西エリアの入口だったので、キッパータックたち四人は心地よかったバスの揺れを惜しみながら降車した。再び無人の街に溶け込んでいくバスを見送る。
内側がペブル(丸い小石)で飾られたトンネルを通って西エリアへ入場した。現れたのは、長く続く崖に沿って作られたグロット(人工洞窟)と北エリアからの高い塀に挟まれた中庭だった。過去にはここに庭園
蔓性植物の絵の上に、実際に本物の蔓性植物も伝っているユニークな壁や、幻想動物の彫像、トンネルの中に
一番奥のグロットのそばには古びた小屋が一軒あった。
「ここに無名の絵描きが隠者として住んでいたらしいんだ」と神酒。「その人の絵は南エリアの展示室に飾られているらしい」
「たしかに、中にも絵が掛けてありますね」首を伸ばして小屋の窓を覗き込みながら
「意外にきれいだね。今も別の人が管理しているのかな?」神酒も窓に近寄る。「隠者さんはいなくなっちゃったって話だ」
「いなくなった……」叶が言葉の意味を
「あはは」と神酒は笑った。「ドルゴンズ庭園の給金なんて、僕たち一般人には想像つかないね」
やがて崖から離れ、石を敷き詰めた園路も途切れ、広々とした草原に出た。中央付近に〈ボークヴァの塔〉というミラドール風の建造物が聳えていて、奥の林の向こうに空から落ちる砂と、神酒のお目当てである〈ジョンブリアンの丘〉があるとのことだった。
今まで視界がクローズされていたので、ここで一気に開けたことで四人は大きく息をついた。後ろから賑やかな声も発生していて、方々からほかのメンバーたちも集まってきていることを知る。
「みんなきっと、塔がお目当てだな」と神酒が振り返って続々増えるギャラリーを確認しながら言った。
ボークヴァの塔は、螺旋階段と展望台のみで構成されたもので、庭園を含め
「ここにルカラシーさんの友達がいるらしいよ──幽霊の」とキッパータックがたった今仕入れたばかりの情報を口にした。
「ああ、聞いたことがありますね」と叶も言う。「その幽霊、あの美男子大庭主さんの恋人なんでしょう?」
最初にこの塔のそばで女性の霊・ラウラの存在を認めたのは、ルカラシーの幼なじみ、カーシーだった。名家ならではの非凡で窮屈な生活を送っていたルカラシー少年に、同じくハイクラスな家庭の人間でありながらやんちゃで手ばしこいカーシー少年。
笑った口にはいつもキャンディーが覗く、というような少年少女に付きものの無邪気さと幸運が、二人の少年に不思議な縁を結んだのだろうか。いつしか塔に棲む孤独な霊女・ラウラと会話ができるようになり、勉強や女の子のことなどなんでも話しているのだと豪語し、周りを驚かせた。しかし当時は子どもらしい微笑ましい
その後、ヨーロッパへ移り住んだカーシーに代わってルカラシーがラウラとの交流を独占するようになる。事が大きく世間に知られるようになったのは、ルカラシーが二十歳になった年、彼と交際が噂されていた香港の有名デザイナーの娘が、「ルカラシーはラウラという幽霊と
マスコミの取材にもルカラシーは、「ラウラは少年時代には姉のような存在だったが、彼女は死者で年を取ることがない。姿が視えずとも我が家の庭をずっと見守ってくれている大切な友人であり、今では本当に、恋人みたいに身近に感じている」と堂々答えていた。
交際範囲が広く浮き名も絶えず流すルカラシーだったが、いまだ独身であり、ステディな相手もいないとされ、噂を知る誰もが「彼は本当にラウラが意中なのかもしれない」と信じるようになった。家族や側近でさえもその話には触れないようにしているらしい。
「幽霊がいるとなるとあんまり近づきたくないな」とキッパータックは塔を見上げてこぼした。「塔というより見晴らし台だね。幽霊も景色を見るのかな?」
「大庭主が恋人なら客に嫉妬はしないですよね?」叶はそれだけは確認しておかなければならなかった。携帯端末でインターネット記事を繰り、一通り確認すると画面を閉じた。「ああいうなにもかも手に入れているような人は普通の相手じゃ物足りないってことでしょうか。女性なんてそれこそ選び放題でしょうに……。生身の人間で痛い目に遭ったとか?」
「ほかの人たちはのぼっていってるよ」と神酒が言った。「いいの? 姿なき相手に気を遣う必要はないだろうに」
「ええっと、あとはなにがあるんでしたっけ?」叶は塔だけは遠慮したい、という感じであった。
塔の足下には石が敷き詰められた広場があり、飾りだけの階段とベンチが並んでいた。ぼんやり立ち尽くす四人。
風にそよぐ草をただ眺めて静まり返っていたピッポの背を、神酒がつんつんとつついた。小声でささやく。
「ねえねえ、ピッポ君。このままあの二人を置いて僕たちだけで〈ジョンブリアンの丘〉へ行ってみないかい? 二人っきりにしてやった方がいいんだろ?」
「え?」ピッポは視線を引き戻し、キッパータックと叶を確認した。二人は相変わらず塔を
「丘というからにはそこも眺望が期待できそうですね」ピッポは色よく返した。「幽霊がもれなくいるわけじゃないんでしょ?」
「眺めなんてどうでもいいんだ」神酒は肩をすくめる。「砂地があるから、そこに期待しているだけ。アピアンがないだろうかと思ってね。幽霊がいるなら声をかけて一緒に探してもらいたいくらいだよ」
「キッパータック君たちは塔に夢中みたいだし、こっそり抜けちゃいましょうか」
二人は、視界を遮るもののない草原で連れを巻くことなどできるのだろうか? と思ったが、次の瞬間にはタンブルウィードとなって転がりだしていた。
キッパータックと叶はすぐに二人がいなくなっていることに気づいた。見回してやっと見つけた姿は遥か遠く、であった。
「あの人たち、走ってるけどトイレかしら?」と叶が言った。
「林に向かってるね」とキッパータック。「神酒さん、アピアンっていう石を探したくてしょうがないみたいだったから、待ちきれなくなったんじゃないかな」
「ガイドをしてくれる約束だったのに」叶は呆れると、携帯端末の時刻を確認した。「でももう三時を回ってるんですね」
「僕たちはどうする? 置いていかれちゃったけど」
塔の上から「おーい」と呼ぶ声がした。ニカード大庭園でも一緒になったベッキー・パンが展望台から身を乗りだし手を振っていた。
「最高よー、あなたたちも来たらー? 塔は眺めるもんじゃなくてのぼるものよー」ついでに地上へカメラを向け、シャッターを切る。
「気持ちよさそうだね、行ってみる?」
キッパータックの問いかけに叶は「んー、ごめんなさい」と断った。「私はここにいますから、キッパータックさんはのぼってきてください」
「そう? でも僕も高いところは得意な方じゃないしな」
二人はここまでずっと歩き通してきたので、ベンチに座って休憩を取ることにした。背後から話し声が迫ってきて、庭園案内人とツアーメンバーの男女二人組が草から石の舗装へと足を移す。
案内人の解説が通り過ぎていく。「……ここ西エリアは、ルカラシー・ドルゴンズ氏にとって『秘密の花園』──つまりはジャルディーノ・セグレトのような心の拠り所だったわけですよ。幼少のころから大勢の大人たちに囲まれ、社交術を叩き込まれて緊張を強いられていた氏が唯一、ほっと息をつける場所だった。幼なじみとボークヴァの塔にのぼって、木の葉や鳥の羽毛を投げて風に乗る様を見て楽しんだり、子どもらしい秘密の話に花を咲かせたりして」
「ところで、塔に幽霊がいるという話、本当ですか?」と女が尋ねる。
「ラウラのことですね? 私はさすがにラウラと話したことはないのですが──」
にこやかな口調だった案内人がふと言葉を切り、地面へと視線を投げた。広場の隅に黒いビニール袋に入った〈なにか〉が放りだされていたのだ。ビニール袋の塊は三つあった。
「ありゃなんだ? ゴミが捨てられているんじゃないだろうな」
「我々ツアー客にそこまでマナー知らずはいないでしょう。といって清掃活動もしないだろうし」連れの年配の男が笑う。「今も頭の中はレポートのことでいっぱいですから」
「では、庭の作業員が? お客様をお迎えするのに、それはあり得ない」首を振る案内人。
「清掃した後に忘れたんじゃありません?」女が案内人の腹立ちをなだめようとする。「〝うっかり〟は誰にでもありますよ。これほど広大であれば、あれくらい気になりませんけどね」
「広かろうと隅々まで折り目正しく〈ドルゴンズ庭園〉であるべきです。今回はいわば庭園を観るプロたちにご紹介してるわけですから」
案内人は納得いかない、という顔で、それでも自分が片づけるのは役目からして違うと考えたのか、しきりに首を振りながらも二人を連れて塔へ向かっていった。
キッパータックと叶もベンチに座ったまま、遠くでがさがさと風に音を立てているビニール袋の口を見ていた。塔にのぼっていたベッキー・パンたちメンバー数名がおりてきて、どこかへ去っていく。
「こういう広いお庭が自分の家にあるって、どういう気持ちなんでしょう」と叶がぽつりと言った。
「ドルゴンズさんのこと?」とキッパータックは返事して、考えた。「生まれたときからあるとしたら、当たり前な感じになるかな。不思議な気はしないかもしれない」
「私だったらこの中で迷子になって泣くかも」
「ははは」とキッパータックは笑った。「まあ、遠くへ行くのはやめておくかもね」
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