東味亜大庭研究ツアー(6)──ドルゴンズ庭園へ
「レポートは帰ってから書くと言っていたのに」ピッポは廊下を歩きながらつぶやいた。「キッパータック君。君、
「え? どうするって……」
「もし
「そ、そうなのかな」
「一生独り身が楽でいいとか、女友達もうっとうしいとかでなければ、こういうチャンスは逃さず掴んでおく方がいいよ。すぐにどうこうならなくてもさ、デートを重ねてじっくり育んでいくとか」
「そうだね」
「いや」ピッポは突然立ち止まり、キッパータックと向かい合った。包帯の奥の見えない瞳が光っているように感じられた。「叶さんはそんな余裕なんて持ってくれないかもしれない。いつだってそうだ──僕たちが、あのバスはきっと待っていてくれるだろう……とのんびり構えて辿り着いてみたら、ほかの人たちを乗せてとっくに出発してるんだ。いつも自分一人が損しているように思わせるのが人生だよ。僕の前で商品は必ず品切れになり、僕の目の前で扉は閉まるような設計になってるんだ……その扉には『未来』と書いてあるよ」
「ええーっと……」
「いいかい? キッパータック君」ピッポは人差し指を立て、教師が学力に難のある生徒にやるように厳しく振るった。「明日もし叶さんが、バナナがおいしかった──とか、お礼をわざわざ言ってくるようなら、もう君を好きだってことは間違いないよ。そのとき絶対にすげない返事をしちゃだめだよ? 君は、万年雪の中から現れた可憐な花に微笑みかけるように、『君が元気になってよかった』って言うんだ。人類すべてに対する愛をたった一人へ注ぐような気持ちを込めてね」
「お礼くらいどういう相手にも言いそうな気がするけど。叶さんは礼儀正しい人だし」
「そういうときは表情で判断するのさ。きっとバナナではなく、地上百メートルのところにあるアナツバメの巣をプレゼントされたってぐらいの感謝が表れているはずだよ。僕も一緒に訪ねたのに、まるでキッパータック君だけが来てくれたんだというふうに思い込んでいると、潤んだ瞳が言うはずさ。それでも彼女の気持ちがわからないというなら、君はもう
翌日、参加者は朝食前の点呼のためにロビーに集まっていた。観光局職員に予定の確認をする者、朝は食べない、自分で部屋で取っていいか、動物性食品は出るのか……など質問や希望を出している者たちのさざめきがあった。
叶はすっかり快復したらしく、キッパータックたちより先に来ていて、ラウンジで別の参加者と情報交換をしていた。キッパータック、ピッポ、神酒も順番にやってきて、「おはよう」と挨拶を交わした。
「そういえば、昨日のここのレストランの食事、どうでした? おいしかったですか?」と叶が訊いてきた。
「レストラン……」キッパータックはピッポとの昨夜の会話が頭に残っていて、間抜けにも「バナナじゃなくて?」と返した。これではお礼を要求しているようなものである。
「は? バナナ? ……ああ、昨日くれたバナナですね? あれ、すごく甘かったです。キッパータックさんたちも食べました?」
「君が元気になってよかったよ」キッパータックは台本をなぞりはじめた。
「え?」叶はとまどったものの、すぐに恥ずかしそうに笑った。「どうも……ご心配をおかけしました」
「レストランの料理、めちゃくちゃうまかったよ」神酒が割り込んできた。「マンボウがあんなにおいしい魚だったとは思わなかった。今が旬だったんだね。ワインも最高だったし、品のいい感じでね、すべてにシェフの並々ならぬセンスを感じた。君、食べられなくて残念だったな。もう大丈夫なの?」
「神酒さん」ピッポが背後から神酒の腕を取り、引っ張って離れさせた。「非常にナチュラルに二人のじゃまをしていますよ?」
「ええ? あの二人……そういう感じなの?」神酒もつられて声をひそめる。「叶さんは敬語でしゃべってるのに?」
「まだこれからという可能性を秘めた姿なんですよ。結末のわからない物語ほどおもしろいものはないです」とピッポは教えた。
十時にはスティアン・ホテルを出て、バスで
ドルゴンズ家はアジア有数の名家である。庭園は〈イタリア式〉を取り入れていると言われていて、広さ約百ヘクタールの敷地は山と住宅地に挟まれたところにどんと平面的に横たわっているように思われていたが、意匠を凝らした建造物や人工の丘で段差を作り、見事なベルヴェデーレ(美しき眺め)を実現していた。
入口に園内を回るためのバスステーションがあり、観光局の庶民的なバスに取って代わる。プライベートハウスとゲストハウスが聳える庭園の上座へその専用バスに揺られ向かった。実際に国賓たちが遇される場所に、今回貸し切り状態で招かれているという贅沢ぶりだった。
屋敷の中は中でさすがの壮麗さだった。ドルゴンズ庭園を訪れたことがある人間は何人もいるだろうが、ゲストハウスはほとんどの者が初だろう。一般公開されているのはこのうちのごく一部のはずだ。他人が発する緊張までが自分のもののように跳ね返ってくる。
叶は改めて、タム・ゼブラスソーンの豪胆さ、特異性を思った。忍び込んだのはプライベートハウスの方かもしれないが、ここより劣る、ということはないだろう。であれば、居並ぶ調度品の数々、目をつぶって盗んでも損することはなさそうなのに、ドレスに泥を引っかけるだけで済ませるなんて。ある意味泥棒として落第点の行動を取っているわけだ。もちろん、泥棒にまとももおかしいもないのかもしれないが、そんな用事のためにちょっと出入りしようと発想できる場所とは思えなかった。
大広間に通され、飴色の明かりを反射させるテーブルを前に並んで座り、大庭主ルカラシー・ドルゴンズの登場を待った。かなり長い時間待たされた、というような空白の後、かしずく使用人たちの前をたおやかな足取りで横切って、ルカラシーが一行の前に立った。
光沢と深みのあるネイビーのスリーピーススーツに身を包んだルカラシー。過日に、公式のときに備え定規で測って練習しておいたというような折り目正しいお辞儀を見せると、口を開いた。
「本日はドルゴンズ庭園にようこそ。日頃大庭に携わり、自然を愛する皆様の
呼吸を止めていた者でもいたのか、席から一気にため息の音がもれた。イワノがルカラシーと二、三言葉を交わして、冗談まで言ったが、ほとんど誰もがルカラシーに釘づけであった。
庭観賞を前に、再びルカラシーが語を添えた。「ご存じかと思いますが、今の季節はバラ園が見頃となっております。皆様がこちらでお過ごしになられる数時間では足りないというほどの敷地面積とスポットの数々がございます。ぜひ、当園の案内人をご遠慮なく使っていただき、案内専用アプリもご利用くだされば、皆様のお役に立てるかと存じます」
イワノが説明を継ぎ足す。「本日は貸し切りとはいえ、案内人が一人ずつつくわけでもありません。グループで回っていただけると助かります。それから、早いもの勝ちになって申し訳ないんですけど、専用アプリをインストールしたタブレットもお貸しだしできます。こちらも数にかぎりがありますので、行き渡らなかった場合はご自身でインストールしてください。有料になりますが」
苦々しい笑いが起こり、さっそく案内人を用命する者、タブレットを借りに動く者、仲間と話し合って自分たちで庭を回ろうとする者など分かれていった。胸躍る楽園の土を踏むことが待ち遠しかったか、あるいは緊張の場から退出できることにほっとしているかで、皆足速に散っていく。
神酒が携帯端末を操作しながら言った。「ピッポ君たちはどうする? 僕は申し込んですぐアプリを入れたよ。一緒に行くなら君たちはアプリなしで回れるな。僕の滑らかな口演でご案内あそばしましょう」
「では、昨日と同じく
「ええっと、私は……」叶は考え込んだ。まさか、タムが汚したドレスを観たいとも言えない。きっとどこかに飾ってあるのだろうが、一般人には公開されていないだろう。
「これだけ敷地が広いと施設を飛び飛びに観ていくのはきっと無理ですよね」
「そうなんだよ」と神酒も言う。「バスを使ったとしてもとてもとても一日で観終われるもんじゃない。僕はアピアン狙いで、ジョンブリアンの丘へ行ってみたいんだ。でもそこは西エリアになる。少し地味めでマニアックなエリアで、バラ園みたいな人気の施設とは方向も逆だよね。まあ、丘は僕一人で行ってきてもいいんだけど」
「本当にそのアピアンとかいう石が見つかると思ってるんですか?」叶が呆れ声を奏でた。「もしあったとしても、勝手に持って帰れないと思いますよ?」
「空から降ってきたものであれば大丈夫だろう」神酒は堂々と言い切った。「太陽も月も星も飛ぶ鳥も、ドルゴンズ庭園の物にあらず、だ」
「キッパータック君はなにか観たいものはある?」ピッポがキッパータックにも水を向けた。
「僕は空から落ちてくる砂が観たいかな」とキッパータック。「ここにもあるって聞いたから」
「砂、砂、アピアン、アピアン!」神酒は今にも踊りだしそうに声を弾ませた。「その砂もジョンブリアンの丘の近くだ。そこもアピアン候補として捨てがたい」
「では、西の方へ行ってみましょうか?」と叶が言い、四人は出発することにした。
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