ティー・レモン氏の空中庭園(3)──グリッシーニもピッツァも
三人はあっという間に御影石のテーブルに戻り、胸にナプキンをかけた。チケットさえ手に入れればあとは大船に乗った気分でひたすら理想的な感動へ誘われるこの上なくよくできたコンサートといった感じか。居並ぶ料理は地上のすべての色を詰め込んだようなカラフルさ。八割が洋食だったが、どこの民族料理かわからない個性的なメニューもメンバーに加わっていて、寛ぎに驚きのスパイスを加えていた。そして樹伸とプリンのために和風の料理ももちろん用意されていた。
キッパータックはサケのマリネを舌で溶かし、バゲッドのグラタンで口内を温めた。これだけの未知のごちそうに囲まれても、やはり彼は普段のお腹の友である魚とバゲッドに惹かれてしまう男だった。心の故郷ならば樹伸も同じで、彼はひじきのゼリー和えなるものを特に気に入ってスプーンが何往復もした。
「あ、そうだ」モデルのプリンと同じく少食らしい次男のキィーが、すでに満足したようにナプキンで口を拭いながら言った。「私の家に出入りしている業者が持ってきたグリッシーニがあったんだった」
自分の荷物から箱を取りだすと、キィーはテーブルのキッパータックにほど近いところに置いた。
「よかったら食べてください。私は最近ライスにはまっているので家ではパンをまったく食べないんですよ」
「おや、グリッシーニとは」自ら料理の皿を運ぶことで客人の反応を見、会話も交わしていたレモン家自慢の料理長・
そそくさと厨房に戻ると、生ハムを盛った皿を手に戻ってきて、その皿がまたキッパータックのそばに置かれた。
「私はもう、お腹いっぱいよ」プリンがふー、と吐息をついた。「キッパーさん食べなよ。パン好きでしょ?」
「巻いて?」キッパータックは半信半疑、生ハムに手を伸ばした。
グリッシーニをつまむと、キッパータックはその細長い先端にぐるぐるとハムを巻きつけた。
「ええ?」プリンが眉を波打たせた。「そんな巻き方するの? それじゃ太鼓のバチか、ケガして包帯巻いた指みたいじゃないのよ」
「きっと、まんべんなく巻くのが正解なんだよ」樹伸がこそっと教えた。
「まんべん!?」とキッパータックはすっとんきょうな声を発した。
どうやらキッパータックは「まんべんなく」という言葉を生まれてはじめて聞いたらしかった。樹伸は「はぁー」とため息をついた。
十一時時点ですでに食事の大半を終えていたのか、早くから席を離脱していたスィー・レモンと二人の子どもたちが奇声をあげながら戻ってきた。
「見て見てー」一番甲高い声を奏でているのは大人のスィーだった。「お待たせしましたー。焼きたてほっかほかのピッツァだよ!」
ぐつぐつと煮えたぎる地中海色をしたキャンバスが両手に抱えられている。プリンが「ここでピッツァとか出てくるわけ?」と言った。
全員「待っていませんでした」という顔を浮かべていた。気づいたスィーは「もーう、みんな困ったちゃんだな」と首をくりくり回した。「柊シェフの料理の中でいっちばんおいしいのはピッツァなんだよ。それを食べないで食事を終わらせる気?」
「そうでしたか?」執事のフリーマンと並んで場に留まっていた柊本人が疑問を呈した。「ピッツァが私の一番?」
「そうだよ」とスクヤが小さな手でテーブルをぱしぱし叩いた。「僕もピッツァが一番おいしいって思う。僕の学校の友だちもそう言ってるんだ。友だちの言うことって信用できるよ」
「だよねー」スィーは重量あるピッツァをどしんとテーブルに放ると、一ピース取りあげて高々と掲げた。「びよよよーん。ほらほぅら! チーズがこんなに、びよよよーんって」
「僕もやる!」
スクヤも父親に
「うわあ!」
「こ、これ、スィー、スクヤ!」レモンが注意した。
「おいしいよ、ちょっと齧ってみたら?」スィーがキッパータックの背中に回り込んできた。「キッパーさんに食べてほしいから飛んできたんだよ」と言って、皿の縁を枕にだらしなく寝そべるピッツァをすくい取る。そして拾ったピッツァは自分の口に引き寄せながらもう片方の手にあったピッツァをキッパータックの顔に近づけるという技を披露した。これはレモン家の座右の銘「自分と他人の喜びは同時に訪れると思いなさい」に因んでいる愛に溢れる行為だったが、キッパータックが「あちっ!」と叫んだので、他人の方は叶わなくなってしまった。なのでレモンが激怒する。
「お客様に火傷をさせる気か! キッパーさんは鼻でピッツァを食べたりはせんぞ!」
「ああ、ごめん。ごめんなさい」スィーは慌てて近くにあったナプキンでキッパータックの顔を拭いた。
「だ、大丈夫です」
「こっちのピッツァを食べて」マイニが別のピースをキッパータックの下に運んできた。
「こら、マイニまで、やめなさい」
「こっちは大丈夫だもん」マイニは泣きそうになっていた。「こっちは熱くないもん。だから火傷しないよ」
「わかったよ、食べるよ」キッパータックはせっかくなのでいただくことにした。「ううん? 随分冷めてるな」
「それ十一時にシェフが焼いてくれたやつなの」とマイニ。
「そんなにピッツァが好きなのか」樹伸は感心した。「でも残ってるってことは食べきれてないんじゃないか?」
「違うよ」スクヤが答えた。「パパが毎回『びよよよーん』ってやるからチーズが持ってかれてなくなっちゃうピースがあるんだ。それって〝はずれくじ〟だから食べたくても食べる気がなくなっちゃうんだよ。そうじゃなかったら残さないさ」
「はずれくじも結構おいしいですよ」とキッパータックは言った。「トマトソースとオリーブだけっていうのもいいです」
「それなら私でも食べられそう」すでにナプキンをテーブルに置いていながら言うプリンだった。
食事が終わると、キッパータックたちは塔内を見て回ることにした。
来客用フロアは十七階から二十階。十三階から十六階はオフィスとプライベート空間。十二階は広々としたバーと図書・骨董品スペース。十階と十一階は使用人部屋で、六階から九階は客用の宿泊部屋。残りの一階から五階までが貸し出しオフィスと出入り業者・使用人のためのユーティリティー・スペースとなっていた。キィーは十四階で「メールをチェックしてきます」と去っていった。スィーと子どもたちは途中までは同行、そしていつの間にか姿をくらましてしまった。しばらくの間はしゃぐ声だけがBGMのように響いていたのが十二階だったから、おそらくまだ十二階のどこかにいるのだろう。キッパータックたちはレモンについて一階まで全部目を通してしまうと、またエレベーターで二十階へ戻ることにした。
二十階では革のソファーに座って、ゆったり歓談した。レモンのビジネスに因んだ世界経済の話もあれば、プリンが語るファッションを絡めた芸能界の話。途方もない方向に飛んでいきそうになったときには樹伸が自分の大庭のハーブを話題に持ちだして皆を親しい日常へ繋ぎ止めた。キッパータックの蜘蛛の話などは完全に色物だったが、三千世界を余すことなく知るには格好の奇話として、その役割を果たしているように思えた。
「ハーブと言えば、」とレモンが両手を合わせた。「若取さんに頂いたハーブでクッキーを焼いてもらうように言っておいたんですよ。そろそろ三時のお茶にしましょう」
「それもあの
「デザート担当の者がおります」レモンはソファーから立ち上がると室内電話を取って厨房にかけた。「お茶の準備はどうかな? ……ああ、いいよ、よろしく。持ってきてくれ」
レモンが電話機のところに置いてあったアクセサリーのような小物をいじりながら戻ってきた。「なんか、使用人のカネモトが持ってくるとか。めずらしいな、あの男は洗濯担当なんだけど」
キィーも十四階のオフィスから戻ってきて加わった。それと同時に頬のこけた男がワゴンを押してやってくる。顔色は悪いがハンサムと言えなくもないハーフの中年男だった。
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