人生の巣(3) ──とても貴重な夢

 キッパータックはもう十五メートルくらいは浮上していた。彼は思う。どこまでのぼってみても、滝は滝のままだと。手を伸ばして触ってみても、くすぐったいようなかすかな感触がわかるくらいのものだった。相変わらず光るうす。揺れているだけ。まだまだずっと上方から砂は流れ落ちてきているようだった。それが三十メートル、四十メートルと続くとしたら……。

 やはり滝の源なんて、そんなものはないのかもしれない。空のどこにそんな砂があるというのか。天に砂場があって、誰かがすくって落としているとでもいうのか。天に砂漠があって、底が抜けて落ちてきているとでもいうのか。そんな砂場や砂漠が空にあろうはずがない。


 途方もなくなってきたので、キッパータックはそろそろ地上へ戻ろうと思った。サラには「わからなかった」と言うしかない。がっかりさせるかもしれないけれど。

 身を小さくして座っていないといけないくらいの絨毯だったので、キッパータックの足はずっと臀部でんぶの下になっていて、少ししびれてきていた。重しをはずしてやろうと動かす。そのとき、突然くらっと体が傾いて、慌てて手を突こうとしたところにあったのは、空気だった。以前、キッパータックは日本人の父と「なんとかの茶会」というものに出席したことがあった。キッパータックはそのときまだ幼かった。何十分か正座をしていなければならなくて、それがとてもつらかったという思い出だ。足の上で炭酸飲料の泡がばらまかれ、ビリビリ弾けているようだった。立ち上がろうとして失敗し、手を突いたとき、あのときは畳があった。畳が……。空中に、砂場も畳もあるはずがない!

 キッパータックは庭の砂場へと真っ逆さまに転落した。




 葡萄ぶどうの粒のような黒くて大きな楕円が目の前に浮かんでいた。細長い折れ曲がったコードのようなものも見え、かすかに揺れている。

「大丈夫か、キッパータック」

「意識は、あるか?」

 黒いものから声が聞こえてくる。キッパータックは「うわあっ」と声をあげて飛び起きた。

「よしよし、意識はしっかりしているようだな」と、右側の黒いありが言った。

 二匹の蟻である。人間ほどの大きさだ。キッパータックは二の句が告げられず、眼前の景色がちゃんと見えてはいるが、鏡に映った逆さまを見ているときのようだった。量感ある世界に生きる人間の常で、はっきり贋物にせものだと頭が告げるため、おもしろ半分に覗いてみるだけの、あの景色だ。

「これが、意識が、あるって、顔かよ。おい、相棒よ」左側の蟻が言った。

「キッパータック、返事しろ!」と右の蟻。

「返事、できるか、生きてる、か?」と左の蟻。

「え?」ようやくのどから音が出た。「なぜ蟻が? 僕はたしか蜘蛛の絨毯に乗っていて、それで落ちて……」

「そのような、経緯、など、我々、は、知らない」左の蟻は妙に言葉を区切ってしゃべった。「ここは、夢の、中。おまえ、眠って、る、だけ、なのだ、よ」

「夢か、そうですよね。蟻がしゃべるなんて」しゃべるカラスを知ってはいるが、なにもかもがしゃべるとはさすがに思っていないキッパータックだった。

「なにを言ってる。おまえだって蟻なんだぞ?」右の蟻が言った。

「ええ?」

 慌てて足下を見て、顔を触った。手は黒くて細長い針金のようになっていた。頭には触角しょっかくまである。

「どうしてこんな夢を……。まあ、夢って大体変なものですが」

「そう、変で、も、ないぞ」

「ああ」言葉を区切らない方の蟻も請け合った。「ここは『人生の巣』なのだ。この夢は誰でも見られるものじゃない。おまえは運がいいんだ」

「落っこちたのに?」キッパータックは泣きそうになって言った。「僕は二十メートルくらいの高さから落ちたんですよ?」

「だから、知らないって言ってるのに」蟻はあきれた。「風呂に入って歯磨きした後ぐっすり寝込んだのか、二十メートル落ちてから寝込んだのかはどーでもいいことなんだよ。大事なのは、ここが夢の中の世界だってことだ。そして、おまえはめったに見られない、貴重な『人生の巣』にやってきているのだ。だから、目が覚めないうちに巣を見て回った方がいいぞ。せっかく来たんだからな。おれたちが案内してやるから」


 

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