第4話 彼女とコーヒーの残り香
教授に案内され研究室に通された。そこにはキャリア理論などに関する本が山積みにされ、さらに幾多の論文がおかれていた。
「ここまで本を残す必要はあるのでしょうか。すぐに再生産できるようになっているじゃないですか。」
「それはそうだが、本のスキャン技術はそこまで発達していない。現在の本は紙の厚さが世界基準で整えられており、設定でそれぞれの透過率に合わせて、スキャンできるもののここ10年前のものはまだ紙の厚さは整えられていないため、1枚1枚をめくってスキャニングする必要がある。様々にメモしたものも残したいんだよ。」
少し奥に通されると阪田さんが椅子に座りコーヒーを飲んでいた。研究室から入って一番奥に教授が座る席があり、そこに机を挟んで2人から3人ほど座れるソファーがある。ただ3人は座れないだろう。一人分は書類がつまった箱二段ほど積んである。そしてその横に阪田さんが座している。
先生が奥に座り、私は阪田さんの隣に座った。私が座ると同時に彼女は少し距離を空けた。
「阪田さん、先ほどの授業に関して追加での質問と「無産者」に関わる情報が欲しいという生徒がいます。少しお話しますか?」
教授も教授としてはかなり若い方だろう。左薬指に指輪をつけていないため、まだ結婚はしていないことは確かだ。
「お話しましょう。」
携帯端末をとり、私にかざす。それとともにある程度の僕の氏名やこの大学に関わった情報をざっと見ている。
「喜里川くん、あと10分ほどで家に戻ろうと思っています。それまでであればお話しましょう。少し授業では無産者について意図的に前提知識をそこまでお伝えしていなかったため、基本的な情報からお話します。」
「過去、団体に所属しない人間については、特に財を生み出さないことから忌み嫌われていました。財とは個人所有資産とも言えるかもしれません。今は個人所有の資産は基本なくなっており、もしかするとこの概念は理解しがたいかもしれません。」
「個人所有資産ですか。それはこの研究室にある先生が持っている本などはそれに当てはまるでしょうか。」
「そうですね。先生がこの研究室からどこか別の場所へ移動する際に、現在のそのままの状態で持ち運ぼうと思うのなら個人所有かもしれません。」
「おいおい、そんな物騒なことは聞きたくありません。私はこの大学に骨を埋めるつもりですよ。」
「そうなるとおそらくこの論文やら本やらの下敷きになって、お亡くなりになること間違いなしですね。ご冥福をお祈りします。」
彼女は胸のまで手を合わせ、上半身を少し前に倒し、そこから目だけで先生の方をみる。
「皮肉にも言い返すことができない。」
後ろポケットにしまっていたハンカチを手に取り、額に浮かぶ汗を拭く。
ふふふ、と口に手をそえて目尻をさげ彼女は笑う。
改めて間近で見ると表情であったり仕草が一つ一つ丁寧であり、他者が鑑賞するために作った所作であることを感じる。その印象は言葉として言い表せず、その理由がわからない違和感とそして奥ゆかしい名残がある。
そしてなんともいつもの先生の印象とは異なるものだ。どうしてだか自分でもよくわからない。それが筋立った論理かのように、生徒と先生という型の中での会話しかイメージしたことがなかったからだろうか。先生を見ると、頭の中では彼が教壇にたち、黒板の角から角まで薄く見える点線に従って文字を書き、学問といういろはを説く光景が半ば浮かんでくるのだが、冷凍してあったチョコを火にあぶるかのように先生へ抱く印象が溶けていった。
彼女と先生の関係性は生徒と先生が築く関係性のそのどれもと異なっている。例えるなら、夫と妻の関係のようで、親と子ではまったくない。この比喩が正しいとは思えないが、ただそのように感じる。彼女が原因であることはは間違いないが、何をもってそのような関係性が出来上がったのかは、わからない。選択肢としては、彼らが彼氏彼女であること、単純にこれまでの日々において会話を紡ぎ出来上がったか。それとも日常会話ではない何かがもっと根本の原因か。
こちらに目線を合わせて彼女は話を再開する。
「今は生活の基本部分が国家によってまかなわれ、家庭にある個人所有財産という概念がほとんどなくなりましたし、今では必要なものは構成機によって本や衣類、そのほかのものすべて家庭内で得ることが出来ます。だから、私たちがどのような進路に進んでもよく、極論、私のような「ただ生活を送る者」である無産者という職種も出来上がったわけです。一応これらが無産者の概論といったところになります。」
「およその概論はつかめました。けれど、大学生にならなければなぜ無産者について教えていただけないのでしょうか。小学校、中学校、高校でのキャリア授業で無産者について知っていれば生徒の選びうる選択肢も増えるのではないでしょうか。」
その質問を聞くと彼女は先生に目配せをした。先生は軽くうなづき、彼女は話し出した。
「教育方針としての最終目的は団体への所属に一応なっています。喜里川くんもここの記載を読むと、キャリア希望として外交官を選んでいますね。それは職種の内容である交渉といった「行動」がおもしろいと感じたからこそ、それを選んだんじゃないでしょうか。そのおもしろいものをもっと知るためには団体に所属することが一番早く、さらに本人の希望をかなえることが出来るからだと思います。そして「一応」として、そこにとどまらない人などが生み出す職種の存在を認めるのでしょう。」
そういって彼女は一息つき、カップに手を伸ばす。一つ息を吹きかけ、半分は残っていた砂糖もミルクも入れてはいないだろうコーヒーを飲み干す。飲み干した後には、挽いたのこりかすがかなりの量残っていた。苦かっただろうな。
「君は迷ったことがありますか。」
「何にでしょうか。」
「喜里川君のこれまで人生の岐路とでもいうべきものについてです。」
「人並みに迷ってきたつもりではあります。外交官を目指すという道もこれまでの
キャリア理論の中で自分が見つけた本当に興味があることだと思っています。」
「本当にそうだって言える?もし仮に君がキャリア理論をこれまで小学生の頃から受けてこなかったとしたら外交官をめざしたのかな。」
彼女はなぜこんな質問を僕にしてくるのだろうか。
「それはだれもわからないんじゃないでしょうか。
「考えてみて。何も教わらなかった…、それは難しいかもしれないけれど、もしキャリアという自分の人生を選ぶのに直接かかわるような学びを行ってこなかったら、君はどんな人生、どんな今を送っていたと思う?」
これからについて何の知識もない状態。今後どのような状態が望ましいのか、考え続けていた。あと1、2年後には外交官になりその2年後ぐらいには結婚して子供を授かり、5年後には外交官としての実務経験が付いたのちに、いまだ資本主義の国家への支援業務を行いたいと思っていた。それがもし何もない、見えないとしたら何をするんだろう。
「阪田さん、そろそろお時間じゃないですか。」
教授が話を割り、阪田さんへ帰路をせかす。
「先ほどのお話今後のキャリアの参考にします。」
「はい。またご機会あればお話しましょう。」
荷物を持ち、足早に研究室を後にしていった。気づくとお昼時に近づき、生徒の声もだんだんと賑やかになっていたのだ。廊下をともに歩き毎日の小さな事柄をおもしろおかしく話す声や授業をさぼり(おそらく)、部室にこもって同じ小節を何度も、何度も切れ悪く練習している音。
教授も外に用事があるらしく、一緒についてきた。
「先生、彼女はまた学校にくるでしょうか。」
「そうだな。彼女はなかなか来ないだろう。今回の授業への参加希望に関しても、彼女は意欲が低かった。かなり忙しい職種の方であっても、このキャリア紹介には積極的に参加の意欲を見せ、自ら用意したキャリア理論なども考えてく発表したいと私に話す人もいる。そこから比較すると彼女は少数派に入るだろうな。」
いつもの先生である。表情が堅く口先だけで話しているようで、敬語ではないという違いがあるにせよ言葉遣いも異なる。
「まぁ、後で彼女のプロフィールを調べてみるといい。彼女が快く話してくれるかどうかは別だが、小学生、中学生のころに多数病院に通い、言語障害の判断をうけていたんだが、今はすでに完治しているし、そういった苦難から乗り越え手いる人は君のキャリアの一つの参考例として深く調べるに値する人かもしれない。」
「わかりました。ひとまず今日のお話をまとめてみて、少し考えてみようと思います。ただ初めて知った職種だから興味がわいているだけかもしれないので、少し時間を置けばそこまで興味もないかもしれません。」
先生はポケットの中から一冊の本を取って私に手渡した。
「少し参考になるかもしれないから、渡した。」
「おそらく読みません。タイトルは覚えたので、読むのであれば構成機で作ります。レポートを作るつもりではありますので、また提出します。」
「そうか。」
興味がないかもしれないと言いながらも彼女の言葉を一つ一つ、教授の言語障害という言葉とともに頭の中で反芻しながら、散らかった研究室を出て、次の授業へ向かった。
選択肢を知らない僕は何を選んだというのだろう。
コーヒーの残り香が鼻先から消えなかった。
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