第2話 恋の季節(1)
ある朝、目覚めて、私に恋の季節が来たことを知った。
ずっと夢見ていた、人生で一番素敵な季節!
木の上の夏の寝小屋から身を乗り出して回りを見わたせば、見慣れたはずの世界が、見たこともないほど美しく輝いている。
初夏の森の緑が、雨に濡れた後みたいに、突然、昨日までよりひときわ瑞々しく目に飛び込んで、嗅ぎ慣れた緑の匂いが、いっそう強く清々しく空気を満たして、風の中に混じる花の香りが、ふいに切なく胸に迫った。
何もかもが、昨日までとは違う。何もかもが新鮮で、何もかもが鮮やかで、何もかもが甘やかに匂い立っている。毎日見慣れた森が、見知らぬ秘密を秘めて、私を呼んでいる。あの森の奥で、私がまだ知らない新しい世界が、私を待っている。招いている。ここでないところへの憧れで、胸がいっぱいになる。
今まで私の世界のすべてだった狭い
きっと世界で一番素敵な、私の恋人を探しに――。
縄梯子を伝うのももどかしく樹上から飛び降りて母屋に駆け込み、炊事場に集まって朝食の支度をしている姉さんたち、おばさんたちに、私に時が来たことを告げた。
姉さんたちがわっと集まってきて、顔を見たとたんにわかったわ、と笑った。
だって、輝いているもの、と。
「恋の季節を迎えた女の子は、みんな、ある朝急に、特別綺麗になるの。瞳がきらきらと潤んで、唇が花びらみたいに色づいて、肌が内側から光っているみたいに輝くのよ」
そう言って、姉さんたちは指の背で私の頬を撫でる。
そうなのかしら、私には自分の顔は見えないけれど、私は今、ほんとにそんなに綺麗なのかしら。
だったら嬉しい。私の恋人が、きっと私を気に入ってくれるもの!
おばさんたちが出来立ての木の実粥を取り分けてテーブルの端に置いてくれたけど、私はあんまりそわそわして、とても朝ごはんなんか食べてられない。だって、お腹が空いてないの。いつもなら、起きたらはらぺこなのに、まだ見ぬ恋人のことを考えたら、ドキドキしすぎてお腹が空かない。ああ、もう、一瞬だってじっとしてなんかいられない!
私の恋人は、私よりも早起きをして、もう、森に来ているのじゃないかしら。私より先に、とっくに恋人の泉についていて、待ちくたびれているのじゃないかしら。私がなかなか来ないから心配になって別のところを探しに出かけてしまって、すれちがって会えなくなってしまったりはしないかしら。もしかしたら、間違えて別の女の子から花輪を受け取ってしまうのじゃないかしら……。
もちろん、そんなことがないのはわかってるけど。
恋人同士は、森の中のどこにいても呼びあって、必ず会える。
でも、その人の事を考えると胸がいっぱいになって、ご飯なんか食べられないの。
私の恋人は、どこのセレタの人かしら。どんな素敵な若者かしら。
お粥に手を伸ばしもせずにそわそわ立ってる私に、おばさんたちはしょうがないわねと笑って、「途中で食べなさい」と、堅焼きの焼き菓子をたくさん包んで持たせてくれた。しばらくは森でゆっくり食べ物を探してる暇なんかないはずだからと言って。
きっと気が落ち着かなくて食べられないと思ったけど、ありがとうと受け取った。
その間に、ベッカ姉さんが奥の貯蔵部屋へ駆け込んで行って、セレタの財産を仕舞った櫃の中から花嫁のベールを引っ張り出してきて、私の髪に留めてくれた。うちのセレタの文様を織り込んだ綺麗な飾り帯も出してきて花嫁のための特別な飾り結びを結んでくれてたり、幾つも持ち出してきた首飾りをとっかえひっかえしてみんなで賑やかに選んでいる間に、エレア姉さんが外に行って、朝露を宿した白い花を摘んできて髪に挿してくれた。
よってたかって着飾らせた私を取り囲んで、姉さんたちがはしゃぐ。
「ああ、なんて綺麗! とっても綺麗よ、私たちの可愛いリリ」
「なんて素敵なの。外に行ったら自分の姿を井戸に映してごらんなさい。あんまり綺麗で驚くから!」
おばさんたちが木の実の粉を練りながら、にこにこと声を掛けてくる。
「まあ、ほんと、素敵よ、リリ。きっと可愛い赤ちゃんを連れて帰ってきてね。セレタの赤ちゃん部屋に、世話をしてあげる赤ちゃんが少ないと淋しいもの」
「そうよ、来年の春の赤ちゃん部屋を賑やかにしてちょうだいね。私たちに可愛い赤ちゃんを抱かせてちょうだいね。初めての赤ちゃんだって、何も心配いらないわ。お産の時も赤ちゃんも、私たちがよってたかって面倒を見てあげるから」
そう言って、おばさんたちも姉さんたちも、まるでもう赤ちゃんを抱いてるみたいにうっとり笑う。
私たちは、みんなの赤ちゃんをみんなで世話する。もちろん、赤ちゃんにお乳をあげたり、一番長く赤ちゃんを抱くのは、その子を産んだおかあさんだけれど。
私だって、小さい頃から姉さんたちの赤ちゃんの世話を手伝ってるから、自分の赤ちゃんはまだ産んだことが無くても、赤ちゃんの世話には、もう慣れてる。
でも、おばさんたちや姉さんたちが何でも助けてくれるのは、やっぱり心強いわ。
私たちはみんなそうだけれど、私も、赤ちゃんが大好き。自分の赤ちゃんを抱くのが、本当に楽しみ。
まかせて、おばさんたち、姉さんたち。私、きっと、元気な赤ちゃんをお腹にいれて連れて帰るわ。セレタの赤ちゃん部屋に、とびきり可愛い赤ちゃんをプレゼントするわ!
はりきって応える私に、みんなが微笑む。
「さあ、行ってらっしゃい。初めての恋の季節は一生に一度。楽しんできてね」
姉さんたちが、かわるがわる優しく頬に触れて、私を送り出してくれる。
そう、初めての恋の季節は、一生のうちに何度か訪れる恋の季節の中でも、一番素敵な、たった一度の特別な季節。
初めての恋の季節が来ると、昨日まで子供だった私たちはもう、セレタの中で大人の言う事をきいて過ごさなければならない子供ではなくなるけれど、でも、大人としてのいろんな役目は、まだ割り当てられていない。大人になったら担う責任を、まだ何も担ってない。だから、何もかも忘れて、ただ恋のことだけで頭をいっぱいにして、ひと夏じゅうでもセレタを離れて自由に森をさまよって、恋人との日々を過ごすことができる。
それは、子供と大人の境目のほんのひとときの、特別な自由の日々。誰にでも一生に一度だけ森から与えられる、特別な贈り物。思いっきり楽しむことが、素敵な季節を贈ってくれた森への恩返し。
母屋から駆け出したら、赤ちゃん部屋を覗いて、新しく生まれた赤ちゃんの身体を拭いてあげていたおかあさんにも挨拶していく。懐かしいエーレンカの香り水の匂いの中で、おかあさんは優しく微笑んで、走ってきたからちょっとめくれた私のベールをまっすぐに直しながら、頬に祝福のくちづけをくれた。私もお返しにおかあさんの頬にくちづけして、ふわふわの毛皮に覆われた小さな弟の頭のてっぺんにもくちづけして、でも、そのあいだも気もそぞろで、また外に走り出す。
セレタを出たところで、朝の猟から帰ってきた兄さんたちやおじさんたちとすれ違った。
みんな目を丸くして私の花嫁姿を誉めそやし、祝福の言葉を投げてくれる。
「やあ、見ろよ、俺たちの妹はなんて綺麗なんだ! 間違いなく森一番の美人だぞ! この子の恋人になれる運の良い男は、森一番の幸せものだ!」
背高のっぽのレッキ兄さんが私の脇に手を入れて私を空高く持ち上げ、ぐるぐる回してみせたから、みんな大笑いして、私も大笑いして、まためくれてしまったベールを直して、髪に挿した花が取れかけたのも直してもらっていると、他の兄さんたちも我勝ちに近くの枝から花を取ってきて私の髪に挿したから、私の頭は隙間がないくらい花に覆われて、こぼれんばかり、まるで花ざかりの花木のよう!
可愛いよ、綺麗だよ、俺たちの愛しいリリ、素敵な恋をしておいで――。
口々に言いながら、よってたかって指の先で私のほっぺたをつついて、兄さんたちが笑う。
兄さんたち、おじさんたちと手を振り交わして、みんなはセレタに戻り、私は森に入ってく。心がはやって、ひとときだって立ち止まってなんかいられない!
足も止めずにご先祖様の木に挨拶の言葉を投げながら、ベールをなびかせて、踊るみたいに駆けてゆく。
今日はどこまで駆けたって疲れっこないわ。
一年で一番美しい、夏の初めの森。
小鳥たちのさえずりに満ち、木の上も地面もどこもかしこも空から星が落ちてきたみたいな白や金色や薄紫の小さな花を散りばめて、草の葉や苔の上で木漏れ日に輝く朝露が、花嫁のベールに縫いとめられた水晶のかけらのよう。まるで森全体が、透き通る緑の中にいろんな色の光の斑点を閉じ込めた大きな大きな宝石のよう!
でも、今は、どんなに美しい光景も、足を止めてゆっくり眺めてなんかいられない。
この美しい森のどこかに、私の恋人がいるの。今、どこにいるのかしら。どちらが先に恋人の泉につくかしら。もしも同じ方角のセレタから今朝発ったのだとしたら、運が良ければ泉につくまえにばったり会えるかもしれないわ。ああ、早く会いたい! 会えばその瞬間、その人が自分の恋人だってわかるんだって。どうしてわかるのかしら。どんなふうにわかるのかしら。
その瞬間を想うと、胸が高鳴って、頬が燃え立つ。
けれど恋人に巡り会えないまま、私は恋人の泉にたどり着いた。
私の恋人はまだ来ていなくて、よそのセレタの知らない女の子が一人、金色の釣鐘みたいな小花をびっしりつけた大きなマリリカの木の下に座って、恋人を待っていた。私より、たぶん少し年上の女の子。
私たち女の子が自分たちのセレタを離れることは、滅多にない。だって、食べ物や粗朶はセレタの回りの森だけで十分に集まるから、それより遠くに行く必要なんてないもの。よそのセレタを訪ねることも、普通は一生、ない。だから、違うセレタの女の子に会うなんて、滅多にない、珍しいこと。普段の時だったら、お互い好奇心でいっぱいで相手のセレタの話を聞きたがったりしたかもしれないけど、今は私もその子も、もうすぐ会えるはずの恋人のことで頭がいっぱいで、短く挨拶を交わした後は、ほとんど話をすることもなく、ふたりでそわそわと泉のほとりに座っていた。
マリリカの木に囲まれた泉のほとりには白や青や薄紅色の花がいくらでも咲いていて、私たちはそれぞれに花を摘んでは、恋人に贈る花輪を編んだ。
ときどき、思い出したように、そんなに曲がってるわけでもない相手のベールや飾り結びを直しあったり、髪に飾った花を新しいのに取り替えたりして、「これでいいわ、あなた、とっても綺麗よ。あなたの恋人はきっとあなたを気に入るわ」「ありがとう、あなたもとっても綺麗よ!」なんてお互いに言いあって、おずおずと微笑みあっては、一緒に花を摘んで、またそれぞれに、次の花輪を編んで。
日が高くなったから、私とその子は、それぞれセレタから持ってきた保存食をほんの少し取り出して、金色に輝くマリリカの花房の下でお昼ごはんを食べた。
木の実の粉の焼き菓子を半分に割って取り替えっこしてみたら、もらったお菓子は自分のセレタのお菓子とは少し違う味がして、それぞれ美味しかったけど、二人とも胸がいっぱいでほとんど食べられなかった。
そうしてずいぶん長い時間がたったような気がした頃、泉を囲む木立の向こうで、がさっと音がして、緊張していた私たちがふたりしてびくりと身をすくませるのと同時に、木々の間から見知らぬ男の人が現れた。私よりだいぶ年上の人みたい。
たくましい立派な若者だったけれど、その人が私の恋人でないのは、一目見て、すぐわかった。その人の視線も、まるで私なんかいないみたいに私の上を素通りして、もう一人の女の子だけに、ひたと注がれた。
女の子は膝の上から作りかけの花輪と材料の花が落ちるのも構わずに呆然と立ち上がり、次の瞬間、二人は互いに駆け寄って、堅く、堅く抱きあった。それから少し身体を離すと、互いの首に腕をからませたまま、ものも言わずに互いの目を見つめあい、それからもう一度、ひしと抱きあって。
それから女の子が、男の人の首に自分が編んだ花輪を掛け、男の人は優しく微笑んで、二人は手を取りあって木立の奥に入っていった。泉を離れる時、女の子はちらっと私を振り返って、励ますような微笑みを投げかけていってくれた。
私の恋人は、まだ来ないのかしら。
一人になったら、だんだん不安になってきた。もう、お日様が傾いてしまうわ。
私の恋人は、どこか遠くのセレタの人なのかしら。それとも、今日じゃなくて明日、恋の季節の朝を迎えるのかしら。
恋の季節を共に過ごすべき恋人たちは、普通は同じ朝に時を迎えるけれど、ときどき、少し日がずれることがある。そういうときは、先に来たほうが泉のほとりで夜を越すことになる。夏だから寒くはないし、恋人の泉のほとりには森狼は決して近づかないから何も恐れることはないって、みんなが言う。恋の季節の恋人たちは、森が守ってくれるからって。
でも、私は、明日ではなく今日、私の恋人に会いたいわ!
お願い、早く来て。もう、あなたに贈る花輪もとっくに出来上がってる。早く来てくれなきゃ、花輪がいくつもいくつも出来すぎて、あなたの首に掛かりきれなくなってしまうわ。あなたの素敵な顔が、花の中に埋もれて見えなくなってしまうわよ!
午後の陽が金色を帯びてきた頃、また、がさりと茂みが揺れて、見ると、ほっそりとした綺麗な若者が、そこに立っていた。
たぶん私と同じ年くらいの男の子。きっと私と同じに、初めての恋の季節を今朝迎えたばかりの。
この人が私の恋人だって、たちまちわかった。
ああ、なんて素敵な人かしら! 夢見ていた通りの、ううん、夢見たこともないくらいに素敵な恋人!
幸せで胸が詰まった。
金色の午後の日射しの中で、その人はおずおずと微笑み、ゆっくりと腕を広げた。
私は足元の花を蹴立てて恋人の胸に飛び込んだ。ぶつかるみたいに飛びついて、その首に腕をしっかりと巻きつけて全身を押し付ければ、恋人の腕が、私の身体を優しく抱きとめる。恋人の鼓動と私の鼓動が混じりあう。幸せすぎて心がふわふわする。まるで二人で雲の上にいるみたい!
それから私は、手に持っていた花輪を、恋人の首に掛けた。いくつも重なったのを、全部一度に掛けた。
私の恋人は、顎の下まで花に埋もれそうになりながら笑った。ずいぶんたくさん編んでくれたんだね、待たせてごめんねって、優しく耳元で囁いて。
ううん、ううんって首を振りながら抱きつけば、頬と頬が触れあった。
外の世界の大きい人たちは、男の人と女の人の背の高さや身体の大きさがずいぶん違うことが多いそうだけど、私たちは、男も女も、背の高さがあんまり変わらない。ときどきはレッキ兄さんみたいな背高のっぽの男の人もいるけれど、それはその人がたまたま大きいだけ。身体つきも、外の世界の人から見たら、男と女であまり違わないように見えるんだって。
身体つきだけでなく顔も、男でも女でも同じように綺麗な顔にしか見えなくて、だから外の人たちは、私たちが男か女か、服装でしか区別がつかなかったりするんだって。
私たちから見れば、男の人と女の人はちゃんと見かけが違うから、男か女かなんて、もし同じ服を着ててもすぐわかるんだけど。なのに、それがぜんぜん見分けられないなんて、外の人たちはずいぶんと目が悪いのね。
でも、男の人と女の人でそんなに背の高さが違ったら、恋人同士になった時、お互いの顔がよく見えなくないかしら。くちづけする時に困らないのかしら。
私たちは、背の高さが同じくらいだから、こうして、向かいあって立てば、まっすぐにお互いの目を見つめあうことが出来る。抱きあえば頬と頬をすり寄せることができるし、額と額をあわせることもできるし、こんなふうにちょうど良くくちづけを交わすことができる。
泉のほとりで、私たちはくちづけを交わし、それから手を取りあって泉を後にした。
私たちが愛しあうのにふさわしい、ひと夏を一緒に過ごすのにふさわしい、素敵な場所を見つけに。
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