第28話 高台、宴会、櫃
時間を潰す!
日本語ではさして恐ろしげでない言葉ではある。
だが狂った帽子職人の言葉どおりとしたら、「時間を潰す」とは「
ああ、願わくは時間に一切合切の人格意識のなからんことを!
そういったくだらない考え事をしているありすの隣に間をあけて老人が座った。
「あら、スカパンさん、お久しぶりですわね。六か月ぶりでなくって?」
「そういったところでしょうな、瑞典堀のお嬢さん。息災でしたか」
スカパンと呼ばれた老人が答えた。人のよさそうな顔つきである。
とはいえ、たいていのオークション参加者の面々にとっては端倪すべからざる競争相手の一人だ。
ここでスカパンが狙う獲物を知り、進むべきは進み退くべきは退く、そんな戦略を練る。
いつもならばそうしたいところだ。
ありすが次の言葉を放つ前に、スカパンが問う。
「時に、今回のオークションはよろしくないですな」
「ええ、まさに。旨味のあるものは片手で数えられるほどでは?」
やはりこの老人の目には狂いがない。ありすは思った。
今日は大富豪である故メニマニー・プレジデンテ氏の遺産のすべてが出されるチャリティーオークションの開催日だ。
それならば、かなりの名品が出るはずだ。
実際、それを狙って多くのギャラリー、コレクターが集まってきている。
しかし、
「見たところ楽茶碗はすべて偽物でしてよ」
「ほう。十二個すべてですか」
「高台の作りがすべてチグハグ。そう思わなくって?」
「ふむ、やはりあなたの目は鷹の目ですな。それでは張大千の八仙図は?」
「あの宴席の絵のことかしら。おかしな話ですけど、あちらも大したものではなくってよ」
「同意見ですな。ははは、『張大千の作った仇英の贋作』の贋作とはね! 笑える品ですな。ミュンヒハウゼン男爵しかお買い上げにならぬでしょうな」
と、このように二人の目利きにとって、このオークションは蚤の市にも劣る内容だった。
今回の出品物には、本物ではあるものの不出来なヴェネチアのガラス皿しかありすは興味を持てない。
未熟な職人の息遣いが伝わってくる、美術品としてより郷土資料としての価値は確かにある大皿だ。
小さくため息をついて、ありすは変わり者の貴族の話を出す。
「ところで件の男爵はモーゼの聖櫃にご執心でしたわね」
「あれは……ふむ……」
奇妙なことに、聖櫃の名を出すとスカパンは考え込んだ。
「難しい品でして?」
「いえ、それほどの品では。少なくともモーゼの十戒の石板を入れたものではないでしょう。しかし……」
「別の宗教の何か、ではあると?」
「ええ。ただそれが何であるのかわからないのですよ。アブラハムの宗教から派生した小さなセクトの遺物だとにらんでいるのです」
この老人は鋭い。ありすは改めて思った。
スカパンの言葉が正しければ、歴史的資料の価値は大きくあるだろう。
事実、イエメンの小さな宗教コロニーが内戦でモーセの聖櫃として信仰していた箱を手放さなければならなくなった話は、彼女も聞いている。
あるいは死海文書のような事例もある。
それゆえ、無価値とは言い切れないのかもしれない。
しかしながら、詳細不明にもほどがある。
手を出すと火傷をする可能性は高い。
「……軽く、狙ってみまして?」
「いや、私はやめておきましょう。今回は他の連中の肝を冷やす程度にするつもりです」
「でしたら、なおのこと吊り上げてみるのも面白いやも知れなくってよ?」
ありすが言った。スカパンは口の端を軽く上げる程度で何も言わなかった。
『まもなくチャリティーオークション開始時刻です。ご参加される皆様は会場までお越しください……』
アナウンスが響く。
スカパンが軽く会釈し、息を吐く。
どうやらありすの提案に賛同したようだ。
件の櫃が手に入る入らないは二の次である。
ありすもスカパンも、他の参加者をたわけにするつもりだ。
長い夜が始まる。
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