第20話 冬、汚す、蕪
日の入りが遅くなってきたとはいえ、まだまだ冷える。
冷気は布の隙間から親しげに潜り込んでくるのだ。
加えて、自転車を漕ぐと、いやがおうにも新しい冷気を取り込み続けなければならない。
それゆえ、彼は霜焼けの心配もするはめになった。
日の落ちる時間は一気呵成である。
何某の釣瓶落としともいう。
晩冬に使う慣用句ではないにしろ、剣次郎は時の速さを思い知らずには居られなかった。
今の賃貸に引っ越してからもう一年が経とうとしている。
仕事はまだまだ慣れない。
雷を落とさず、嫌みも言わない上司を持てたのは救いである。
同僚はどうかといえば、あまり印象がない。
あれやこれやとしているうちに、絆ができていくものかと思っていたものの、業務上の報連相をする程度にとどまっている。
それはそれでいいのかもしれない、と剣次郎は思った。
スーパーに入ると人はまばらだった。
夕食前にもかかわらず、惣菜もいつものようには減っていない。
割引シールが貼られた惣菜をいくつか見繕って、カゴに入れる。
剣次郎には惣菜を冷凍保存する習慣がついていた。
今日この日も、冷凍に耐えられそうなものを中心に買っていった。
二、三日はスーパーに寄らずともよいくらいになったので、レジに向かうことにした。
だが途中で朝食の材料がなくなっていたのを思い出した。
剣次郎にとって必須要素とも、外しがたいルーティンともいえるベーコンエッグである。
そこで売り場に戻り、目的のものをカゴに入れる。
ベーコンも卵も決まりきった商品しか買わない。
冒険してもよいものの、多少の差であれ朝のルーティンを崩すのも考え物なので、同じものばかりになってしまうのである。
珍しくその日はベーコンが安売りだった。
三パックセット二つでお買い得、とあっては買わずにはいられない。
剣次郎はいつもお買い得に弱い。
ついつい多めに買ってしまった。
さらに通りがかった野菜コーナーではめったに安くならないものが値引きされていた。
蕪である。
このスーパーでは破格ともいえる値段がついていたので、やはり剣次郎はついつい買ってしまうのだった。
結局、剣次郎は思っていた以上の出費をしてしまったのである。
帰宅するなり、フライパンを出して食材を準備する。
ベーコンと蕪を炒めて塩コショウで味付けをする、簡単な自炊をすることにしたのだ。
剣次郎にとって、これは得意料理だった。
正確には、気張らずに作れる類のもので、人に食べさせるとなると他にもっといいものがある、といったところか。
ともかく、惣菜を買いに行ったのに自炊をするという奇妙な結果になった。
それはそれでよい。
蕪とベーコンはやや焦げてしまったものの、それもそれで一味である。
うっかり油がはねてあちこち汚れがついてしまったのは考えものだが。
いずれにしろ、剣次郎は今の生活が気に入っていた。
今後いかようなことがあっても、彼はそうやすやすとは現状を手放さないだろう。
それが昇進出世だろうと、心理にダメージがあるなら、謹んで拒否する構えが彼にはできていた。
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