第15話 山、男、芋

 H県の北部、それも県境に近い場所に良質な温泉が湧き出ていると聞いて、旅行かばんを引っさげやってきた。

 自分の車で向かったものの、宿へはずいぶんと不便な道を通らざるをえず、どこかの部品がイカれてしまった。

 後で知ったことだが、国道ならぬ酷道、と通の間では呼ばれているらしい。

 しかし、なんと雄大な自然だったことだろう!

 木々はいずれも大きく育ち、百年は超えていると思しきものがあちらこちらにあり、赤い葉を時折落としては、徐々に不機嫌を治さしめた。

 また林の奥、それも遠くにはなかなかの滝があるようで、いくらか弱まっているものの轟々という水音は秋の旅情をますます掻き立てるのである。

 これを考えると、ここに車が止まったのはかえって幸運だったのかもしれない。


 ふと対向車線の脇を見ると、石碑が立っている。

 苔むして神さびた、と言うと大げさに聞こえるかもしれない。

 しかし、だいぶ古い物であるのは確かで風雨にさらされ、ほとんどボロボロになっていた。

 気になって見に行くと、かろうじて読めた文字がある。


「避男岳……?」


 どういう発音かはわからないが、ともかく、この辺りの山はそういう名をしているのだろう。

 意味はわからなかったので、宿の女将が知っているに違いないと思い、後で聞くことにした。

 とまれこうまれ、私の機嫌は平らかになっており、その日の湯が俄然楽しみとなった。

 一方、車のほうは機嫌がなかなか治らず、宿についたのは夜になってしまった。

 

 宿はこんな山奥にあるにも関わらず綺麗で快適だった。

 温泉も心地よいもので、確か弱アルカリ性の泉質だったと思う。

 さらには料理も述べるに値するもので、川魚の焼き物と山菜の炊き込みご飯が特に素晴らしい。

 一度行ったならば何度も足を運びたくなるというのもむべなるかな、というところだった。 


 さて、たまたま私だけが宿に泊まっていたので、女将と話をする機会は十二分にあった。

 女将も話し好きの人で、あれこれと話題に尽きることはなかった。

 そのせいか、あの「避男岳」について聞くのを忘れてしまっていたのである。

 こういうわけで、三泊してからの帰り際になってようやく件の地名を思い出した。


 道の途中に石碑がある、と話を切り出すと、女将の声色は変わった。

 ごくわずかな差ではあったものの、明らかに言及を避けたがっている様子だ。

 悪いかなと思いつつも、あの奇妙な名についてはどうしても知りたかったので、十数分粘ってようやく、「避男岳ひなんがく」という読みを聞き出す。

 女将は手短に、あの石碑より上の方に行くと危ない、とだけ言い、引っ込んでしまったのである。


 何かがあったに違いない。

 女将の様子が妙に気になってしまい、ぼんやりしたまま宿を離れた。


 出発した直後は良かったものの、やはりボロの車なので途中でトラブルを起こす。

 買い換えればよかったか、と思いつつあたりを見ると、例の石碑が立っていた場所そのものだった。

 偶然かもしれない、とは考えさせない何かを感じる。

 理由は説明しがたい。しかし、確信はひどく強かった。

 交通安全のお守りに自然と手が伸びる、その瞬間、急に車が元通りの動きを見せ、そのまま何事も凶事は起こらずに麓までたどり着けたのである。


 時刻は十四時ごろ。

 麓では地元のおばあさんが畑仕事をしていた。

 声をかけて、あの「避男岳」について尋ねてみると、変な、というより嫌な笑みを浮かべながら彼女は説明した。


「避男岳」の由来は不明だが、ともかく昔は寺があった。

 廃仏毀釈の後も残っていたものの、十数年前に途絶えたそうである。

 無くなってから悪いことが起こり出した……わけでもなく、およそ五百年前、建立時より奇怪な噂が立っていたらしい。

 とにもかくにも、おばあさんは女将のことに言及したがった。

 気にはなるものの、聞いてはいけないような気もして、私は話をそらしていたものの、ついに聞かざるをえなくなった。


「あの女将さんはね、父親をあの山で亡くしたんだよ。自然薯を掘りにいくとかなんんとかだったかね。まあ自然薯は取れたんだよ。(ここでおぞましい哄笑をあげる)死体からね。ああ、あの女将さんの父親が握ってたのさ。ひどく干からびて、ミイラみたいになってた父親がね。どうしてそうなったかって? 知らんよ、知らん。山の神さまのバチでも当たったんじゃないかね。(再び哄笑)だってさ、死体が警察に見つかったのがいなくなって二日目だったからよ。服は綺麗だったのに、人間の方はカラカラに乾ききってたらしいんだ(三度哄笑)」


 私は嫌な思いで帰った。

 あの美しい場所に、おぞましい記憶を植え付けられてはたまらない。

 だがあえてここに記しているのは、温泉宿を教えてくれた友人の父もあの「避男岳」で死んだという話を聞いたからである。

 やはり、干からびていたとのことだ。

 太い自然薯を手に握って。

 

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