第38話 始動

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 正月も三が日を過ぎると、おめでたい空気は一気に薄れ、事務所の窓から見える景色にも、どことなくけだるい日常が戻ってきている。

 おれは愛用のジーンズに仕事用のパーカーを羽織り、事務所を出てひとつ下のフロアにあるカフェあしびばへとむかう。年末年始は休みだったので、今日が新年最初の営業日だ。

 「OPEN」の札がかけられた大きなウッドドアを押し開けると、いつも通りのきらきらとしたウインドチャイムの音色が響く。

 店内に流れているBGMはムソルグスキー作曲の組曲『展覧会の絵』。そのプロムナード。本来はトランペットの勇壮なソロで始まる名曲だが、店内で流れているのは弦楽四重奏にアレンジされていて、オリジナルとはまた違った優美さを醸し出していた。


 店内は初出勤前の役場職員たちで賑わっていた。マコトの慌ただしそうな「いらっしゃいませ」の声に軽く手を挙げて挨拶して、モーニングセットを注文すると、いつものカウンター席にむかう。

 普段のおれの定位置にはすでに見知った顔が陣取っていて、隣に座ったおれに意味ありげなにやけづらをむけた。


「よう、あけましておめでとう。今年もよろしくな」

「ああ、おめでとう。おまえによろしくされると、いつもろくなことにならないけどな」


 おれの憎まれ口も馬の耳に念仏といった様子で右から左へと受け流すこの男は市役所でケースワーカーをしているコウジ。おれがこの島に来たときから、なぜか縁あってよくつるんでいる。普段からなにを考えているのかよくわからない飄々としたやつだ。


「ヨシハラリョウコと会ったらしいな。電話があったよ」

「まあな。偶然だったけど、正月にな。おまえ、リョウコがあの問題抱えているって知っていておれを紹介しただろう?」

「当たり前だ」


 コウジはにやにや笑いを浮かべたまま、コーヒーを一口すする。おれがため息をついたところで、マコトがコーヒーカップをカウンターにすっと差し出した。


「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします、アキオさん」


 マコトはわずかに首をかしげて微笑んでみせる。ほぼ一週間ぶりのその笑顔に口元が緩む。

 いっているのはコウジと同じ台詞なのに、受ける印象が真逆になるんだから、まったく男というのはどこまでも馬鹿だ。立て続けに厚切りトーストとサラダをテーブルに並べると、マコトはトレイを胸の前に抱え込んで心配そうに眉根を下げた


「ところで、リョウコちゃん、なにかあったんですか? 問題を抱えていたとおっしゃってましたけれど」


 コウジの前でつい口軽になったと自省する。とはいえ、リョウコとの付き合いのあるマコトならば力になってくれるかもしれない。ならば、と素直に脅迫状のことを打ち明けることにした。


「実はリョウコの写真展を中止しろって脅迫があって、その対応を考えているところなんだ。それで……できればマコトにも手伝ってほしい。写真展を無事開催するために少しでも警備の目を増やしたいんだけど、どうかな」

「もちろんお手伝いさせてください」


 マコトは真剣な眼差しを向けて力強くいった。


「ありがとう、マコト」


 張り詰めた空気の塊を吐き出すようにおれが礼をいうと、マコトはくちびるの端をわずかに吊り上げた。

「きっとアキオさんの頼みならみんな喜んで引き受けてくれますよ」

 そういうと、他の客の会計のために、入口のレジにむかった。その後ろ姿を見送りながら、コウジが声をひそめて内緒話をするようにいう。


「それで差出人の目星はついているのか?」

「今のところまったく手掛かりなしだ。相手の出方をうかがおうにも、リョウコのところにも動きはないみたいだ」

「今回は役場や県庁の人間が多く関わっているから、あまり大事おおごとにするわけにもいかない。もし動きがあるとしたらやはり展示会当日と思うか?」

「そうだな。中止にしろという要求をこちらがのまないと相手がわかれば、当然なんらかのアクションは仕掛けてくるはずだ。だから、警備の目を増やしつつ、相手の動きを狭める」

「封じるんじゃなく?」


 コウジは眉をよせた。


「完全に動きを封じるよりも相手の動きを限定していくほうがいいと思っている。そうすることで、おれの考えている行動をとる人間がいれば、そいつが犯人である可能性が高い」

「つまり、犯人を泳がせて捕まえようということか」


 コウジはなるほどな、といって腕組みをしながら背もたれに体を預けた。どうやらおれの考えに納得をしたみたいだが、実はこのときおれはコウジに一つだけ嘘をついた。それはおれには犯人を捕まえる意思がないということだ。

 今回の目的はリョウコの写真展を無事に開催することにあって、犯人の逮捕が目的ではない。無理に騒ぎを大きくして危険な状況を作りたくなかったのだ。


「まあ、泣いても笑っても来週末にはすべての結果が出るさ。できることがあるなら遠慮なくいってくれ」


 そういうとコウジは伝票をつかんで立ち上がり、マコトに「ごちそうさま」といって代金を支払い店を出て行った。きらきらとしたウィンドチャイムの音色が店内に小さな余韻を残していた。

 気付くと店内にいた多くの客もいつの間にか店を後にしていて、おれと数組の男性客がいるだけになっていた。


 少し考えを整理しなくちゃいけない。

 まずリョウコの写真展については大々的に広報されていないが、完全なクローズ情報ではない。彼女の知人であれば知りえる情報だし、市役所の職員や県庁の職員、文化センターの関係者も当然知っている。現時点で犯人を絞り込むのは難しい。


 推察できる点があるとするならば、犯人はこの島の世界遺産登録に関する活動に異論がある、もしくは、リョウコに対して個人的な恨みがあるということだ。

 正直なところ、おれは後者ではないかとにらんでいる。

 もちろん、彼女が他人に恨みを買うような人物ではないということは、おれ自身が感じている。しかし、世界遺産登録に対する活動そのものに抗議をするならば、リョウコの事務所に、彼女宛の封書を入れる必要があるだろうか?

 そんなことをするならば、事務局や役所に直接抗議をするほうがはるかに効果的だし、そもそも脅迫状を出す必要すらないのだ。

 守礼門に油をぶちまけた犯人のように、大勢の中のひとりを演じつつこの講演会やシンポジウムなどを妨害してやればいい。そのほうがヤツらにとってはよっぽどリスクが低い。


 つまり、おれの考えが正しいならば、犯人はリョウコの写真展を中止させたいと思っている。だとすれば、おれたちは展示室の警戒さえしておけばいいわけで、思っているよりも協力者は少なくても済むかもしれない。

 なにはともあれ、まずは現場を確認する必要がありそうだ。


 おれは時計に目をやる。時刻はちょうど午前九時。頼まれていた仕事までまだ時間はある。その前に会場となる文化センターに立ち寄って見取り図を確認しておけそうだ。うまくいけば現地を見ておけるだろう。

 半分ほど残っていたコーヒーを飲み干して席を立つ。いつもなら、マコトがコーヒーのおかわりをききに来る頃だったが、今日はこの一杯だけで我慢するとしよう。なんでも元を取ろうとしていやしくなるのは、人間の悪い習性だ。

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