第36話 アキオとリョウコ

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 一月一日の早朝。ぼんやりと淡い闇に包まれた国道を島の北部を目指しておれは車を走らせていた。くすんだ水色のボディーにキャンバストップのついたレトロなデザインがお気に入りなのだが、冬場は機嫌が悪いとエンジンの始動が悪くなるのが玉に瑕だ。


 事前に調べておいた日の出の時刻は午前七時十三分(東京より二十分以上も遅い!)。まだ三十分ほど余裕がある。

 夜は海のむこうへと帰るように薄らいでいき、あたりの山の稜線がはっきりとわかるほどになっていた。

 目的の海岸に到着すると道路脇のスペースに車を停め、ビーチまでは防風林で囲まれた砂利道を歩いてくだっていく。石がこすれる乾いた音が林のむこうから届く波の音に溶けて、おれの気持ちも次第に高揚していく。東の空が徐々に白んできていた。


 ビーチにはすでに何組か先客がいて、日の出のタイミングを今かいまかと待ち構えている。その中にいた、一人の女性の後ろ姿にオートフォーカスのように焦点を合わせていた。

 薄手のナイロンパーカーを羽織った彼女は、寒そうな様子もなく、三脚に据えた一眼レフカメラのファインダー越しの世界に夢中になっている。

 おれは彼女のそばまでいくと「おはようございます」と挨拶をする。

 彼女は急に声を掛けられて驚いたようだったが、すぐに人懐っこそうな笑みを浮かべて同じように「おはようございます」と返事をしてくれた。

 細長くきりっとした眉と、涼しげな印象の目元は大人っぽいのに、顔は小さな丸顔で、歯並びの綺麗な白い歯が弓張月のようなくちびるの隙間からのぞいていた。


「もしかして、ヨシハラリョウコさん?」


 そう問いかけると彼女はまたもやびっくりしたように目を丸くする。前髪をあげて後ろで束ねているのでころころと変わる表情がよく見えた。


「はい。そうですけど、あの、わたし直接お会いしてましたっけ?」

「いや、なんとなくそうかなと思ってたずねてみただけ。おれも違ってたらどうしようかと思ってちょっとどきどきしたけど」


 そういって肩をすくめてみせると、リョウコは少し感心したように、ほうっとため息をついた。


「なんとなくにしてはよくわかりましたね。どうしてわたしが芳原涼子だって思ったんですか?」

「周りの人はわりと厚手のジャケットを着てるだろう? でもきみは薄いパーカー一枚羽織ってるだけ。おれは東京から島に越してきたんだけど、東京に比べるとやっぱりこの島って冬場でも暖かいんだよな。きっと外からやってきた人なのかなって思ってね。旅行者にしては随分気合の入った写真の撮影をしているみたいだったからもしかしたらプロカメラマンかもしれないって考えた。それで、島外からきた若手女性カメラマンといえば、ヨシハラリョウコだろうと。君の名前はあしびばのマコトから聞いたんだ」


 おれの説明にリョウコは「おおー」と感嘆の声をあげながら大きくうなずく。


「じゃあ、わたしも一つ推理してもいいかしら? あなたはもしかしたら、なんでも屋のアキオさん?」


 今度はおれから、おお、と感嘆の声が漏れた。おれもついに名前の知れる有名人になったってことなのか。


「正解。リョウコさんこそ、どうしておれのことを知ってるの?」


 そういうと、自慢げに腕組みをしたリョウコはふふんと鼻を鳴らしながら少し胸をはった。


「だって、有名人だもん。アキオさん」


 そういわれると、人の話題になることをしていたかな、と考え込んでしまう。ちょっと前に怪しげなマルチ商法の会社の代表が逮捕されたきっかけを作ったことはあったが、あれもおれの名前は別にニュースになったりはしなかったし、警察から感謝状を贈られたわけでもない。仕事だってちまちまとした手伝いをやっているくらいだ。

 軽く握った右手を顎に当てて考え込んでいると、リョウコは思い出したように「いけない!」といって腕時計に目をおとした。


「すっかり忘れるところだった! ほら、もうすぐ夜が明けますよ」


 そういってリョウコがカメラを覗き込んでから間もなく、水平線のむこうから光の束が矢のようにおれたちの顔に降りかかってきた。その暴力的なまでのまぶしさにおれはほんの少しだけ目を細める。砂を洗う波の音の合間に何度もシャッターの切れる音が響いた。

 もし、あんたがおれの立場だったとしてもきっとこう思ったはずだ。

 今年はいい一年になりそうだってね。


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 リョウコは朝日にむかって何度かシャッターをきり、撮影したその画像を満足げに眺めていた。

 おれはといえば、初日の出を見に来たのか、それとも初日の出を撮影する彼女を見に来たのか、どちらかわからないぐらい、撮影に夢中になっているリョウコの姿に釘付けになていた。

 スポーツに限らず、なにかに一生懸命になっている姿っていつ見てもいいもんだよな。もちろん、それが美人ならなお良いことはいうまでもない。


 一年の始まりを告げる光も水平線の上にすっかり姿をあらわすと、黄金色に染まっていた東の空にも青みがさして、この海岸も透明な朝の空気で満たされてくる。


 撮影機材を撤収したリョウコがおれに近寄ってきて、いった。


「アキオさん。よかったら、わたしのスタジオに来ませんか。ここからわりと近いですし、それに相談したいこともあるんです」

「おれは構わないけど」


 そう返事をすると、リョウコは「じゃあ、案内します」といって手際よくカメラをバッグにしまい、潮の引いた滑らかな砂浜に、あたらしい足跡を刻みながら歩きだす。彼女の歩みにあわせて揺れる、ひとつに縛った長い黒髪をぼんやり眺めていると、その黒髪が勢い良く振れてリョウコが振り返った。


「それと、わたしのことはリョウコでいいですよ。アキオさん」


 朝日を正面に受けて輝く彼女の笑顔におれは一瞬息をのんだ。

 おれの頭の中は、人間の目にもシャッター機能が備わってくれないかな、という馬鹿げた願望でいっぱいだった。


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 初日の出を眺めた浜辺から車で五分とかからない場所にリョウコのスタジオはあった。裏手のビーチから波の音も届きそうなほどの距離に建つ一軒家、その庭の一角に設置されたプレハブ小屋が彼女の仕事場だった。


「どうぞ、ちょっと散らかっていますけど」


 散らかっている、という言葉の通り、六帖ほどの広さの事務所の中は段ボール箱や書籍が積み上げられていて、入り口のそばに置いてある打ち合わせテーブルの上にはA4サイズにプリントされた写真が何枚も広げられていた。


「すみません、すぐ片付けるから、適当に座ってください」


 リョウコはテーブルの上の写真を両手でかき集めながら、それを壁際のパソコンデスクの上に積み上げていく。正直、左のものを右に動かしただけなので、まったく片付いた様子はないが、テーブルの上には申し訳程度の小さなスペースができあがった。


「ありがとう。ところで、さっきおいてあった写真は?」

「年明けの展示会に出す写真の選定を、クリスマスごろまでずっと悩んでいたの。ようやく昨日、すべての写真のプリントが終わったところ。これから写真をパネルや額に仕上げる作業が残っているんだけど、初日の出の写真だけは毎年欠かさず撮りにいってるから、ついそのまま仕事を放り出してカメラもって出掛けちゃった」


 あどけなさのある笑みを浮かべて、リョウコはぺろっといちごの果実のような舌先を見せる。大人っぽい容姿のわりに、こうした子供らしさがあるところは、なんとなくクリエイターぽいと思う。


「アキオさんが今度の個展のお手伝いにきてくれると聞いて、わたしちょっと張り切ってるんだ」

「どうして?」

「わたし、以前東京に住んでいたことがあるんです。実はそこで、アキオさんたちが路上ライブをしているのを何度も見ていたんです」


 その言葉におれは目を見張った。

 もちろん、おれはかつて、ボーカリストの森田もりた結衣ユイと、Reveレーヴというユニットを組んで、メジャーデビューまでしたことがあるわけで、おれたちのファンだ、といってくれる人がいたって別に不思議なことじゃない。

 けれど、おれとユイが路上ライブをしていたのをリアルタイムで見たことがある、というファンは多くはなかったと思う。

 デビュー前の路上ライブなんて、せいぜい両手であまるほどの観客だったし、ライブハウスでの演奏をする頃になっても、大抵はおれたちが知っている連中ばかりだ。

 だとすると、リョウコがみたというおれたちの路上ライブというのは、Reveの活動ではなく、ユイのシマ唄のライブってことか。


「もしかして、ユイの路上島唄ライブか?」

「ええ」


 リョウコはポーションタイプのコーヒーメーカーからコーヒーを抽出しながらおれの声に反応する。

 彼女は移住者だ。おれたちの島唄ライブがこの島に訪れるきっかけになっていたとしてもおかしくはない。


「それって、おれたちがReveレーヴだとしっていて? あのときはおれもユイもReveであることを隠して路上ライブをしていたんだけど」

「そう、ですね。声とか結衣ユイちゃんの顔とかでなんとなく。ただ、話しかけたりするほどの勇気はなくて、きっとそうに違いないって思っていただけなんです。それで、前に地区公民館でアキオさんが安田先生の前座で島唄を歌ってらっしゃるのを見て、本当に驚いて……」


 リョウコは声を弾ませ、テーブルにコーヒーを置いた。

 白い湯気が立ち上るカップを手にして一口飲む。マコトのコーヒーより、やや強い酸味が鼻を抜けて目の覚めるようなにがみを口の中に残してくれる。


「なるほど、それで有名人だといったのか」

「はい、役場のコウジさんがお知り合いだときいて、アキオさんに是非お手伝いをお願いしたいと思ったんです」

「もちろん、リョウコの依頼も受けるよ。なんでも屋『ゆいわーく』は法に触れないことと、おれができない仕事以外はやらせてもらってる。ただ、おれは現金では手伝いの依頼を受けないんだ。かわりに手伝い料として、なにかおれがわくわくするものを一つ寄越してくれればいいんだけど、なにかあるか?」

「そうですね……」


 コーヒーを運んできたトレイを胸の前で抱えるようにしてリョウコは考え込むと、なにかを決意するような強い視線をおれにむけて静かにいった。


「アキオさん、その手伝い料というのはこのお仕事が終わってからでもいいんですか?」


 別になにがなんでも事前に手伝い料を寄越せというつもりもなかったし、そもそも手伝い料の内容や受取時期というのは特に重要な問題ではなかった。


「おれはいつでも大丈夫だけど」

「よかった。この仕事が終われば必ずお手伝い料は渡します。どうぞよろしくお願いします」


 リョウコはそういうと深々と頭をさげる。後ろに束ねた髪の毛が彼女の動作からわずかに遅れて肩口から前に垂れ下がった。

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