第35話 ハルナの夢

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 その日の午後は港に現れた巨大客船見物に費やした。

 観光協会や地元の高校生たちが歓迎セレモニーをしているのを少し離れた場所から眺め、冬の太陽が西へと傾き始めたところで、港を後にした。


 事務所が入っているテナントビルへと戻ると、階段をひとつ登り「あしびば」の入口の大きなナチュラルウッドのドアを押し開けた。

 星が流れたような透明感のあるウィンドチャイムの音色がおれを迎え入れてくれる。


「いらっしゃいませ」

 店の奥から柔らかな声が響く。おれの顔の筋肉がかすかに弛緩するのがわかった。

 店内はクリスマスらしくミドルテンポのジャズピアノにアレンジされた「サンタが街にやってくる」が流れていた。こういうアレンジで聞くとなんだか新鮮だ。

 カウンターにならんだハイチェアに腰を掛ける。みたところ、店内にヒメコの姿はなかった。今日はもうアルバイトを終えたのだろう。


「あのあとコウジから電話があって、年明けにリョウコさんを手伝うことになったよ」


 コーヒーを注文しながらおれがいうと、マコトはぱっと表情を明るくした。


「それじゃあ個展のお手伝いですか?」


 手際よくコーヒーを淹れるとカウンターの上にそっと差し出す。陶器の触れるカチリという心地よい音が鳴る。

 おれはコーヒーを一口飲む。その絶妙な香ばしさの奥の苦みが、寒空の下で強張っていたおれの体を解きほぐしていく。


「なんでも、世界自然遺産登録へのプレゼンテーションの一環で、そのシンポジウムやら写真展示やらを役場の環境対策課が主催しているそうなんだ。狙ったように、おれの仕事の合間にねじ込んできやがった」

「コウジさん、アキオさんのお仕事のマネージャーさんみたいですね」

「事務所に盗聴器が仕掛けられていないか調査する必要がありそうだ」


 くだらない冗談を飛ばしながら笑いあっていると、マコトが思い出したようにぱちんと音を立てて手を合わせ、店内の書棚から一冊の本を手にして戻ってきた。A5サイズのちいさな本の表紙には「なつかしゃの島」とタイトルが躍っていた。


「それは去年発売された島の観光ガイドブックなんですけれど、そこにはリョウコちゃんの写真がたくさん使われているんですよ」

「へえ、すごいな。ちゃんと写真家としても認められているんだな」

「もちろん、リョウコちゃんの技術もありますけど、彼女はこの島のことが大好きで、島人シマッチュたちともすぐに仲良くなれちゃうので、その人柄が彼女の仕事に結びついているんだと思います。アキオさんとよく似てるのかもしれませんね」


 マコトにそういわれておれはふと自分のことを思い返す。

 おれの場合はだれとでもすぐ仲良くなるというのとは少し違う。だれかれ構わず愛嬌を振りまくタイプではないし、人から愛されるようなキャラクターでもない。

 そんなおれと彼女に共通点があるだろうか、と考え込んでいると、店の入り口できらきらとチャイムの音色が響き、だれかが店に入ってきたことを告げた。マコトは入り口に視線を送ると、すっと目を細め笑顔を作った。


「おかえりなさい、ハルちゃん」


 扉口に立っていたのはマコトとは対照的によく日に焼けた小麦色の肌をしたショートカットの女の子だった。

 彼女の名前は宮田みやた晴奈はるな

 ここからすぐ近くの名瀬なぜ高校に通う二年生で、マコトの年の離れた妹だ。この店に通うようになってから、彼女とも何度か顔を合わせている。

 ハルナはマコトと違い愛想のいいタイプではなかった。口数が少なく、会話が長続きしない。おまけに、いつもまぶたを重そうにしていて感情が読み取りにくい。

 でも高校では陸上部で長距離走の選手をしているらしく、毎日最低でも五キロメートル以上を走り込んでいるという。

 おれからすれば長距離走の選手だというそれだけで殊勝なことだ。


 ハルナは部活帰りらしく、胸ポケットに校章の刺しゅうされたシンプルな紺のブレザーとチェック柄のグレーのプリーツスカートの制服姿だった。

 おれから一つ離れたスツールに飛び乗るようにして腰掛けると、カウンター内のマコトにむかっておもむろに口を開く。


「お姉ちゃん、私、来月の駅伝のメンバーに選抜された」

「本当?」


 マコトの顔がめずらしく驚きの色にかわる。ハルナはこくりとうなずいただけだったが、マコトは驚きの表情から一転、破顔して両手を胸の前で合わせると興奮した声を上げた。


「おめでとう、ハルちゃん! ずっと頑張ってたものね。でも、本当によかった。じゃあ、今日はお姉ちゃんのおごりだから、好きなものを頼んでちょうだいね」


 普段のマコトからは想像もつかないような早口で次々と言葉が飛び出してくる。

 ハルナもすこしびっくりしたように目をぱちくりとさせた。


「部外者だけど、おれからもおめでとう」


 彼女はちらりとおれを見やって恥ずかしそうに肩をすぼめながら「ありがとう」と小さな声でいった。


「その駅伝っていつ開催なの?」

「一月二十一日に本土で」


 ということは、写真展の次の週の土曜日か。短い彼女の言葉を補足をするようにマコトがいう。


「この駅伝大会は、来年の高校駅伝への登竜門ともいわれていて、その大会で優勝した高校はたいてい全国高校駅伝への出場を果たしているの。今年の名瀬高の女子チームは優勝も狙える実力者揃いなのよ」


 へえ、とおれが感心していると、ハルナがぽつりと口にした。


「……マリカは欠場だって」


 その声にこれまで上機嫌だったマコトの表情がほんの一瞬、変わった気がした。もし、いつも通りに穏やかな様子のマコトだったら、見逃していたほどの些細な変化だ。けれど、このときはそれまでのマコトの喜びようが嘘のようにすっと引いたのを感じたんだ。

 おれはつい、そのマリカと呼ばれた相手のことをハルナにたずねていた。


「そのマリカって子は、ハルナとは別の学校の生徒?」

「うん。優勝常連校、海晴かいせい北高校のエース」

「欠場ってことは、ケガとか?」


 ハルナは無言でうなずいた。彼女にとってみたら、優勝常連校のエースともなれば、ライバルであり目標でもあるのだろう。少なくとも彼女の表情には喜びの色は見えないので、どちらかといえば対戦がかなわず残念がっているのかもしれない。


「スポーツの世界だから、常に万全とはいかないさ。それに駅伝はチーム戦だろ。相手チームの主力が欠けるのは自分たちのチームにとってはとても有利な状況だ。悪いことじゃない。ハルナはいつも通り、自分のやってきた力を発揮すればいいんじゃないか」


 そういって元気づけようとしたのだが、彼女の反応は小さな声で「うん」と口の中で呟いただけだった。その小さな違和感に気づいたものの、その後はハルナは普通にマコトとおしゃべりをしていた。

 考えすぎか。

 小さく嘆息して、おれはマコトがもってきてくれたリョウコの写真が掲載されているというガイドブックを開いた。


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 年末というのはどこにいても慌ただしいもので、おれの「なんでも屋」としての仕事が一段落したのは大晦日の夜になってからだった。

 おれは事務所のテレビをつけっぱなしにして、デスクのパソコンで芳原よしはら涼子りょうこのホームページ「アイランドライフ365」をぼんやりと眺めていた。


 このアイランドライフ365の存在を知ったのは、マコトから借りたガイドブックの最後のページ、編集協力者紹介のページに芳原涼子の氏名と略歴とともにURLが掲載されていたためだ。

 ホームページには島の風景を中心に草花や鳥、ときには島の人たちの日常を切り取って、毎日一枚、コメントつきで休むことなしにアップしていた。

 アイランドライフ365の最初の記事は五年前の春で、そこにはこの島を上空から(たぶん搭乗していた飛行機の機内から)撮影した画像と共に、リョウコのこの島での生活がスタートすることへの期待や、不安が添えられていた。


『今日からこの島での新たな生活がスタートします。このカメラの他はなにもかも東京へ置いてきちゃいました。生まれ変わったつもりで、ゼロから始めます。私の軌跡としてこのアイランドライフ365を毎日の写真とともに綴っていきます』


 五年前といえば、おれが島にやってきて一年ほどたち、今のなんでも屋を始めた頃だ。あの頃はこの島で生活することの楽しさに目覚め、がむしゃらにいろんな人たちとの繋がりを求めて走り回っていたなあと、なんだかおれの方まで微笑ましい気持ちになった。


「次のニュースです。今日、沖縄県にある世界遺産『首里城』の守礼門に油のようなものがかけられているのを、職員が発見し警察に通報しました」


 ニュース番組の「世界遺産」という言葉に反応しておれはテレビ画面に目をむけた。ニュースでは沖縄の観光名所であり、世界遺産にも登録されている首里城の守礼門に油のようなシミがついているのが発見され、周辺にある国の重要文化財などにも同様の被害が出ているという事件を報道していた。


 昨年ぐらいから京都や奈良を中心に、日本各地で建物に油がまかれるという被害が相次いでいて、それらの多くは世界遺産や重要文化財を狙って行われていた。犯行はどれも観光客が多数訪れている中で行われているらしく、犯人が特定しづらいうえに、誰でも簡単に真似できることから各地で模倣犯による犯行も取り沙汰されていた。


 ひどいこと、というよりもくだらないことをするものだと、おれは呆れてニュースをきいていた。犯人はいったいどういった目的で、こんな犯行に及んだのだろうかと考えていたところで、おれのスマホがなった。

 予想どおり、その呑気なメロディーはコウジからの着信音だ。この男はいつもおれが考えを巡らせているときに電話をよこしやがる。いつか本格的に盗聴器の調査をしてもらおう。


『よう、仕事は落ち着いたか?』

「役所は冬休みがあっていいよな」

『まあな。ところで、この前いっていた写真展の手伝いの話だけど』


 それについては、おれもそろそろ確認しなければと思っていたところだ。


「今度はなにをすればいいんだ?」

『今回は環境省の連中が視察にくるし、閑古鳥が鳴いてるわけにもいかないからな。にぎやかしみたいなものだ』

「それだったら、別におれじゃなくてもいいんじゃないか?」


 コウジは笑いを嚙み殺すような妙な音をたる。なにが面白いのかわからない。


『いや、お前がいいんだよ。詳細はまた連絡するから、もう少し待っていてくれ』


 結局、コウジは具体的な話はなにひとつせず「じゃあ、良いお年を」といって電話を切りやがった。なんてやつだ。

 ちょうど電話が終わったところで、テレビのニュースが明日の天気予報を伝える。画面ではこの島のあるエリアにも太陽マークが誇らしげに輝いていて、降水確率には大きなゼロの文字が躍っていた。


 そういえば、ここの島に来てから、ちゃんと初日の出を見に行ったことはなかったなと思い、今度はパソコンのブラウザにこの島の地図を表示させた。地図とにらめっこしつつ、どこに行けば初日の出が眺められるのだろうかと考えていると、ふいに妙案を思いついた。

 おれはアイランドライフ365を立ち上げると、記事一覧から今年の一月一日の記事を呼び出す。予想通り、そこには『あけましておめでとうございます』の文字とともに、海岸から昇る朝日の写真が掲載されていた。

 その記事に掲載されていた海岸の名前を地図で検索してメモをすると、おれはテレビ画面を消して、明日の朝に備えて早めに寝ることに決めた。

 正月の朝にわざわざ早起きをして初日の出を見にいくなんて、案外やったことないもんだよな。

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