第31話 戒律
あしびばでは、いつものようにコウジがカウンター席を陣取っていた。
おれが「よう」と声をかけると、コウジからも「おう」とやる気のない返事が戻ってきた。ヒメコは昼間であがったようで、カウンターにはマコトがいるだけだった。まあ、そのほうが何かと都合がいいと思っていたときだった。
「ところでお前、今日ミサキさんと会ってただろう?」
「……何で知ってるんだよ?」
おれは眉間を寄せた。コウジにはミサキとの事を話していないし、ヒメコはミサキ個人のことについては知らない。だから、この件についてはおれの胸の内だけにしまっておこうと思っていたのに。
「ヒメコとワタルから聞いた話を総合した。あしびばに来た美人が、今日一日付き合ってくれって依頼をして、お前がワタルに白衣の天使とデートだといった。その話から推測すればお前がミサキさんと会ってただろうと容易に想像がつく。で、お前はなにをしたんだ?」
「変な想像してんじゃねえよ。なにもしてねえ。ただ……」
おれはそっと自分の左頬に触れる。そこにはやっぱり、ガサついたおれの指先の感触があるだけだった。
「ちゃんと彼女の手伝いをしてやれたのかなって、そう思っただけだ」
ぶっきらぼうにそういって、マコトの差しだした焼酎のグラスに手を伸ばそうとしたときだった。
ポケットの中でスマホが聞き馴染みのないメロディを奏でながら振動して、おれはぎょっとしてジャケットの中をまさぐった。
画面に表示されていたのはビデオ通話の着信を知らせるメッセージ。
相手はミサキからだった。
ただ、その着信におれは漠然とした不安に全身を包まれていた。いや、恐怖感に襲われていたといってもいい。とにかく、嫌な予感しかしなかった。
「悪い、ちょっとはずす」
そういって店を出ると、階段を駆けおりまがらスマホの画面を開いて応答した。
「ミサキさん? アキオだけど……」
そういって画面を覗き込む。普通のビデオメッセージなら相手の顔が映るはずだ。しかし、そこに映されていたのはどこかの部屋の一角。綺麗に片付けられたシンプルなインテリアの片隅に、まるで演劇の舞台を見ているかのように現実感のない、床に倒れ込んでいる女性の姿だった。
彼女が着ている真っ白なワンピースには、大きな赤黒い染みが広がっていて、それが大量の血液だと認識するのに、さして時間は必要なかった。
そして、画面の中、彼女の髪に鮮やかな黄色い髪留めを見つけ、おれは全身ががたがたと音を立てて震えだしているのを感じていた。
目の前がまるで夕日を直視したように真っ赤に染まっていた。
「おい、お前一体誰だ! ミサキに何しやがった!」
おれがそう叫ぶと同時に通話が終了する。
その後、おれがミサキに電話をかけても、電話を繋ぐことができませんというアナウンスが繰り返されるだけだった。
おれは跳躍するように、地面を蹴って駆け出していた。
ここからミサキのアパートまでは三分とかからない。
あらゆる方向に神経を集中させながら、全力で通りを駆け抜けた。
いろんなことが同時に起こっていて、頭の中がすっかり混乱している上に、その処理能力はとっくに許容量の限界を突破していたはずなのに、おれの脳裏に浮かんだのは、妙にリアルなユイの交通事故現場の映像だった。
野次馬でごった返す歩道上、規制線の向こうわずか数メートルの距離でさえ飛び越えることができず、彼女のそばに行くことすらできぬまま、ただ目の前の現実に打ちのめされたあの日。
嫌だ。
おれは自分のそばで大切な人が傷つくのを、別の誰かが引いた安全なラインの外から黙って見ているのは、絶対に嫌だ。
ミサキのアパートの
せめてこれが悪い冗談であってほしいと願いながら、アパートの階段を二段飛ばしで駆け上がった。
鍵が空いたままの扉を開けて中に飛び込むと、ミサキは部屋の奥で打ちひしがれたように倒れていて、真っ白だったワンピースのスカートは不気味なほど赤黒く染まっていた。
「ミサキ!」
おれの叫び声にミサキは焦点の定まらない視線を彷徨わせながら、ほんの少しだけ口元を吊り上げた。おれは彼女のそばに膝をつき傷口を確認するために裾をまくり上げる。傷は左足の付け根にあり、そこから大量の血が流れていた。
おれはベッドからシーツを剥ぎ取り、傷口に力いっぱい押しつける。そのシーツも吸血鬼のように容赦なくミサキの血液を吸い上げ、すぐにおれの手のひらごと赤く血の色に染まった。
おれは一一九番通報をして、現在地と状況を手短に伝え、もう一度ミサキの傷口を強く押さえながら、何度も叫んだ。
死ぬな、死なないでくれ。
ミサキは苦悶に顔を歪めながらおれの声に呼応するように、消えそうな声をあげた。
あの艶やかで溶けるほどに柔らかだった彼女の唇は、血の色が失せてすっかり白くなっている。
「アキオさん、来てくれたんだ……」
「ミサキ、しっかりしろ! 必ず助けるから!」
「今日は楽しかった。一日だけだったけど、本当に恋人同士みたいで幸せだったな。このまま……幸せなままで、逝けるなら私、それでもいいかなって……」
「なにいってるんだよ、そんなのが本当の幸せなわけないだろ。頼む、生きてくれよ。生きて、ミサキの本当の幸せをちゃんと見つけてくれよ」
おれは泣いていたんだと思う。
おれの目の前で、好きな人の命の炎が燃え尽きようとしている、この現実に負けてしまいそうだった。
ミサキは震える手を伸ばし、彼女の傷口を力いっぱい押さえているおれの手に触れて、夏の羽虫のような声でいった。
「戒律があるの。だから……きっと助からない……」
「ふざけんな! アンタたちの神様が人々を愛しているなら、ミサキのことだって助けてくれるはずだろ? でも、本当にミサキのことを助けてくれるのは、この島で懸命に医療に携わってる先生たちじゃないか! だったら、ミサキはそんな神様なんかよりも、この島の先生たちのことを信じろよ!」
おれは自分の罪を吐き出すように叫んだ。
「辛いときに側にいてくれないようなやつは、例え神様だろうが宇宙の力だろうが、そんなやつの言葉なんか、なんの意味もねえんだよ!」
今、おれがミサキにしてやれることなんてたかが知れている。彼女の意思が「生きたい」と強く願うように、ただひたすら祈ることだ。
壊れたレコードのように、どうか生きてくれと、その言葉を何度も、何度でも。ずっと繰り返すだけだ。
ミサキにならきっと届く。
彼女もまた、自分の妹に同じように祈ったのだから。
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