第28話 ミサキの過去

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 おれとミサキはゴミ屋敷の住民、トシおばに会うために国道を南下していた。

 待ち合わせ場所からは二十分程度の行程。開け放った窓から入り込む風に、気持ちよさそうに髪をなびかせていたミサキがふいにたずねた。


「アキオさんって、この島に来る前はどこにいらしたんですか?」


 ハンドルを握りながらおれはちらりとミサキの横顔に視線をおくる。すっとのびた彼女のあごのラインはまるで古代ギリシアの彫刻美術のように完成された美しさだった。


「東京。ミサキはReveレーヴって知ってる? ちょっとは有名な二人組のバンドなんだけど」

「ごめんなさい。あまりよく知らなくて。そのバンドがどうしたんですか?」

「おれ、そこのギタリストだったんだ。数年前に『ありがとうを花束に』という曲がドラマの主題歌に使われてた」


 ミサキは「えっ?」と目をまんまるにしながら大袈裟に驚いていた。Reveは知らなくても、そのドラマは見ていたんだろう。


「あのドラマの主題歌を演奏していたんですか? いい曲だなとは思ってましたけど、でも、それならどうしてアキオさんはこの島でなんでも屋さんなんて……」


 ミサキの問いかけにおれは曖昧に微笑んだだけだった。

 心のどこかで、ユイが自分の中の記憶のルーツをたどって、この島にやってくるんじゃないかという微かな希望を抱えている。

 そのとき、誰かがユイにおれのことを話せば、もしかしたら、ユイと再び出会うことができるんじゃないか。最近になって、そんなふうに考えている。

 でも、今はそのことを黙っていたかった。

 今日は、おれがミサキの恋人役だ。


「ごめんなさい。変なことをきいたみたいで」

 ミサキはしゅんとして俯いた。おれはにっと笑いながら逆に彼女に質問する。

「大丈夫、気にしないよ。それよりミサキはどうして看護師になろうと思ったの?」


 以前から少し気になっていた。

 コウジがいっていたことが本当なら、ミサキは光の福音という宗教を信仰しているかもしれない。

 別にその人の信仰によって、何かを判断しようと思うことはない。ただ、単純に輸血をしてはいけないという、医療と真っ向から対立するような教えを説く宗教とミサキが関わっていたのなら、なぜ看護師になろうと思ったのか、それが不思議だったからだ。


「そうですね。この島で仕事を探すと、女性は特に仕事が少なくてて、看護師や介護士という仕事につく人は多いですから」

「でも、島を出るという選択肢もあったはずだろ? わざわざ看護師を選んだ理由があったんじゃないの? それに……」


 質問をすべきかどうか悩んでおれは言葉をのんだ。宗教によってミサキを判断していると思われるのが嫌だった。しかし、ミサキはふわりと頬を緩めていった。


「私が光の福音の信者だから、ですか?」


 彼女はこれまでにも何度もそうたずねられてきたのだろう。別段、気にする様子もなくそういってのけた。


「それでミサキのことを判断するつもりはないよ。ただ、どうしてあんな厳しい戒律があるにもかかわらず、ミサキは医療の道を志したのか不思議だったんだ。光の福音は形は違うけど、フォトンマトリクスのように医療と真っ向から対立する教義じゃないのか?」


 いい訳がましいなと自分でも思いながら、おれはミサキに問いかけた。

 ミサキはずっと遠くの方へ思いを馳せるように、視線の定まらない目をフロントガラスのむこうに送っていった。


「私、妹がいたんです」


 いた、と過去形にした理由が気になり、おれは黙ってミサキの続きの言葉を待った。

 ミサキは思い出を辿るように、ぽつりぽつりと話し始めた。


「私の両親は光の福音の信者でした。私たちはまだ小さくて、そんなことはよく知らないまま、両親が出席する会合によく連れていかれていました。信者さんは穏やかで優しい人が多かった印象でした。ところが、ある日を境に変わりました」

「態度がきつくなったとか?」


 ミサキは首を横に振って否定すると、膝の上に組んだ両手に視線を落として、囁くような声でいった。


「私たち家族の車が衝突事故に遭いました。私と両親は軽症だったのですが、妹が大けがを負って、病院に運ばれたんです。先生は内臓に損傷があって、すぐに手術をしないといけないといっていました。けれど、手術には輸血が必要で、両親はそれを拒否したんです」


 おれは言葉を失った。我が子の命がかかっている、そのときにまで自分の信仰の戒律が優先されるなんて、正気だとは思えなかった。


「両親にとって、生活の中で最も優位にあるのは神様です。自分たちは神様に奉仕する立場であり、それは家族よりも優先されることなんです。両親は特に熱心な信者でしたから、妹の生命が脅かされていてもそれを神様が定めた運命だといって、それに逆らいませんでした。でも、私は違った。両親や先生に妹を助けてほしいと、泣きながら何度もお願いをしたんです」


 幼いミサキには信仰についての理解もなく、ただ、助けられるかもしれない命が消えてしまうことへの漠然とした恐怖しかなかったのだろう。


「それで、どうなったんだ?」

 おれがたずねると、少しだけミサキは表情を柔らかにした。

「結果的に、妹の手術は行われました」

「どうやって、両親を説得したんだ」

「説得したのではないんです。当時の病院の先生たちが児童相談所と家庭裁判所に通告して、親権停止措置が取られたんです」


 親権停止というのは、両親から虐待を受けたりした子供を守るために、一時的に親権を制限する措置のことで、ミサキの話だと病院から通告を受けた児童相談所が彼女の妹に生命の危険があるとして、緊急措置をとり、それに家庭裁判所が異例のスピードで請求を受理、即日結審して、彼女の両親の承諾を必要とせずに、ミサキの妹の手術が行われたということだった。


「妹は一命をとりとめました。けれど両親は妹に戒律を破ったとして、虐待するようになったんです。そのうち、完全に育児放棄をしてしまい、結局、妹は再び児童養護施設にひきとられ、私ともそれきりになってしまいました」


 おれは自分のほんの小さな好奇心のせいでミサキを傷つけたのではないかと、少し後悔していた。しかし、ミサキはおれの思いとは真逆ににこりと笑顔を作った。


「でも、私はあのとき妹の命を救ってくれたドクターや看護師さんに心から感謝しています。だから、私もそんなふうに誰かを助けてあげられるようになりたいって、そう思って看護師になったんです。それに、患者様にも実は光の福音の信者はいらっしゃるんです。トシさんも実はそうなんですよ。そういう患者様の理解をしてあげられるのも、同じ信者どうしだからこそですし。ただ、信者さんとの縁談ばかり勧められるのは、ちょっと困りますが……」


 あの曲者のトシおばに、縁談を持ち掛けられて困惑するミサキが目に浮かぶようだった。おれは少しだけ安堵していった。


「それで、その両親は今は?」

「二人とも数年前に他界しました。両親はかつて、この島ではその集落にだけ自生している木を使って草木染をしていたんです。その木で染めると、このシュシュのように、鮮やかで深い黄色に染まるので、昔はよく染物の依頼もあったんです。けれど、両親が亡くなり、私も看護師になりましたから、その技術も途絶えてしまったんですけれど……」


 そういってミサキは黄色いハイビスカスのように鮮やかな色をした髪留めに視線を落とした。


「現代医療と私たちの宗教に確執があるのは確かです。だけど、私だからこそ、そういう人たちにも、終末期を自身の求めるかたちに近づけられるお手伝いが、医療者の立場からできると思っています。けれど、あの民間療法はそれを阻害してしまいます」


 ミサキの決意に満ちたその表情は、なんだか薄っぺらのおれの人生とはまるで対極にあるようで、急におれとミサキの座席の距離がはるか遠く、海を隔てたむこうにあるような錯覚に陥っていた。

 おれは今までほかの誰かのために、一生懸命に生きてこられただろうか。

 そんな自問自答を何度も繰り返していると、シフトレバーを握るおれの左手の上にミサキはそっと彼女の右手を重ねた。


「それでも、アキオさんがいなければ、今日だって私は前に一歩踏み出すことすらできませんでした。だから、ありがとうございます」


 このとき対向車がいなくて本当に良かった。ほんの数秒の間だけど、そのときのおれは海の彼方の楽園とやらにトリップしていたんだから。

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