第26話 新たな依頼人

     💊


 それから数日たったある日。

 窓から差し込んでくる強い朝の光に目を覚ましたおれは、久々の晴れ間にすこしだけ爽快な気分を感じながら、事務所の扉にぶらさげてある「本日の業務は終了しました」の札を、「ご用の際は、2階のカフェ あしびばへ」に変えて、階段をおりていった。

 地中海のリゾート地をイメージしたというナチュラルウッドのドアをくぐると、中は落ち着いたオフホワイトの内装。流れる音楽はまるでRPGのオープニングにでも流れていそうな、壮大でファンタジックなオーケストラ。そして、おれを迎え入れてくれるのは無駄に元気な……


「いらっしゃいませー!」

「そこで、なんでヒメコなんだよ」


 額に手をやって大きなため息をついたおれにむかって、あからさまに不機嫌な声の刃が飛んでくる。トシおばに負けないほどのヒステリックさだが、声の質は比べ物にならないくらい若い。


「なんでとは何よ! 今日はあたしが早番なの! 文句ある?」

「文句はない。出鼻をくじかれた気分なだけだ」

「何それ、ひどい。アキオのくせに」

「くせにとはそれこそ何だよ! ヒメコもマコトがいないとリードはずした犬と一緒だな! あちこちひっくり返して、キャンキャンと吠えるだけだ。だいたい、なんだこの選曲は。朝からこんな壮大なオーケストラじゃゆっくりコーヒーを楽しむ気分にならないだろう?」

「なんでよ? これだってマコトさんのクラシックのコレクションのCDから選んだのに」


 ヒメコがいうように、たしかにクラシックには違いないのだが、音のがいつものストリングスカルテットとは違って、フルオーケストラの圧倒的なパワーがある。おまけに静と動、二つのパートが交互に演奏され、まるで一つのような気分になるが、いかんせん朝からでは重たすぎる。


「だいたい、ヒメコはこの音楽が誰のなんていう曲かも知らないんだろ?」

「それは、まあ……なんとかヤンっていう変な名前の人のCDが目についたから流しただけだし……」

「これはカラヤンが指揮をした、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『死と変容』という曲ね」


 おれとヒメコがいい争っている横から、柔らかな声が響いて、おれたちはその声のほうへと視線をむけた。そこには溶けだしそうなほどの笑顔を湛えたとびきりの美人がひとり。

 おれはそこに座っていた女性にあっと短い驚きの声をあげていた。


 コーヒーのカップを手にするその笑顔は、あの夕日の展望公園で出逢った白衣の天使、ミサキだった。

 あしびばを自分のホームグラウンドだと思いこんですっかり油断していた。

 おれは無防備な状態のまま、ありとあらゆる綻びを取り繕うことすらできず、ただただミサキとヒメコの間で、大型の回遊魚ようなスピードで目線を泳がせていた。

 いいか。格好をつけたいのなら、いついかなるときも油断しちゃいけない。ターゲットは時と場合を選んではくれないのだ。

 

「へえー。お姉さん、クラシック音楽詳しいんだ?」


 もごもごと口ごもっていたおれの横から、窓際のテーブルに座っていたミサキにヒメコは馴れなれしくたずねる。あとでマコトに電話してちゃんと接客を教えるように苦情をいれてやる。


「詳しいというほどではないけれど、音楽は好きよ。特にこんなドラマチックな展開のオーケストラは好きなの。そういえば、大澤さんも音楽をやってらしたんですよね?」


 ミサキはそういうと、目を細めたまま小首をかしげておれのほうを見た。

 ヒメコは、おれとミサキを交互に見たあと「ふぅん」と短く息をついて「まあ、ごゆっくりどうぞー」と棒読みでいいながらカウンターの中へとさがっていった。


「私、何か余計なことをしてしまったかしら?」

「いや、全然。あの、ここ座ってもいい?」

「ええ、もちろん」


 ミサキがうなずくのを確認して、おれは彼女のむかいの席に腰をおろした。


「ここで会うのは初めてですね」

 おれが切り出すと、ミサキはすっと柔らかな表情を作ってうなずいた。


「さっき、上の事務所にいったら『本日の業務は終了しました』ってでていたから、早く来すぎちゃったんだと思って、時間を潰そうとここに立ち寄ったの」


 ほんの一瞬、おれの頬が引き締まる。事務所に立ち寄ったということは、ミサキからおれになにか仕事の依頼があったのだろうか?


「大澤さんはいつもここに来るんですね? なんだかさっきの会話がとても仲良しみたいだったから」

「いや。あいつとは仕事を通じて知り合っただけで、別段仲がいいわけでもなくて……」


 そんな言い訳じみたことをいっていると、おれの横から乱暴にコーヒーカップが差し出されて、カシャンと陶器のぶつかり合う音が響く。目を半目にしておれを見下しているヒメコと目が合った。


「はい。どうぞ」


 ぶっきらぼうにそういうと、ヒメコはおれの前に伝票を叩きつけるようにして、ふたたびカウンターの中にもどっていく。おれはそれを目で追いながら盛大にため息をついた。


「ごめん。なんだかみっともないところを見せたみたいで」

「いいえ」くすくすと小刻みに肩を揺らしながらミサキは笑う。「なんだか羨ましいな。あんなに素直に自分を表現できるなんて。きっとあの子は大澤さんのことが好きなのね」

「やめてくれよ。あんなひと回りも年下の子供には興味ないんだから」

「あら? 恋する乙女に対して歳のことを引き合いに出すなんてちょっと卑怯なんじゃない?」


 そういってミサキは真顔になって声の調子を硬くした。おれがミサキのいう「卑怯」という言葉に眉をしひそめると、ミサキは呆れたように首を振った。


「歳を重ねることは誰にも平等に訪れるけれど、その人がどれだけ頑張ってもその距離を縮めることなんてできないの。それを人の心を自分との距離のようにすり替えることがずるいといっているの。あなたはあの子と向きあうことを初めから諦めている。でもそれじゃあ、あの子が可哀想……」


 ミサキの視線が寂しそうに沈む。おれは彼女が叩きつけた伝票に目を落としながら、この微妙な沈黙に用意する答えを必死に探し求めていたが、おれの脳みそは相変わらず肝心なときには全く冴えてくれない。

 お互いに黙り込んでいると、ミサキがはたと気づいたように「ごめんなさい!」と両手で口元をおさえながら視線をあげた。


「いきなり来ておいて説教みたいに……」

「いや、全然! それよりも、なにかおれに仕事の依頼があったんじゃないの? そのためにここに来たんだろ?」


 ミサキは、あっと小さく声をあげると、胸の前で両手を合わせてふたたびあの柔らかな目元でおれに微笑んでみせた。


「忘れるところでした。大澤さんって、なんでも屋さんなんですよね」

「ああ、犯罪になることと、達成できないと思うこと以外ならなんでもやるよ」とおれの定型文が口をついて飛び出す。

「それじゃあ……」


 そういってミサキはぐっと言葉を飲み込み、かすかに目を伏せる。そして、もう一度意を決したように真っ直ぐにおれに見つめながらいった。


「明日一日、私に時間をいただきたいんです」


 ミサキはいったい何をいっているのだろうか。

 考えているおれの背中越しに、痛いほどに突き刺さる鋭い視線を感じた。


「とりあえず、詳しい話は事務所で伺います」


 ほとんど口をつけていないコーヒーをそのままにして、二人分の伝票を掴んで立ち上がった。この場で彼女の依頼を受けるにはあまりにも危険が多すぎる気がした。

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