第19話 オンコール
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先生は携帯電話を胸元のポケットから取り出す。最近すっかり見なくなったストレートタイプのものだ。
穏やかだった先生の表情が一瞬にして険しくなり、まだ電話の応対もしていないのに緊迫した空気を周囲に発していた。
「安田です」
応答した先生の口調はすぐに厳しくなる。
「意識レベルは?
いくつかの質問をしたあと、一言だけ指示をいれて電話を切ると、先生はつっと真面目な視線をおれにむける。
「大澤くん、悪いんだけれど少し頼まれてもらえるかい?
先生はすこし早口にこれからの段取りについて説明をしてくれる。その様子はやっぱり彼がドクターなんだと思わせた。
「それと、ちょっと一緒に来てください」
そういって先生はおれを駐車場まで連れ出すと、自分の車のトランクから、もうひとつギターケースを取り出して、おれに差し出した。
「それは練習用で持ち歩いているアコギなんだ。もし、僕が午後一時を回っても戻れないようであれば」
先生はわずかに目元を緩めて笑いを含んだ声でいった。
「前座として、場を繋いでください」
そういい残して先生は運転席に乗り込み、車を発進させて駐車場を出ていってしまった。呆然とそのテールライトを見送るおれの手にはずっしりと重たいハードケースだけが残された。
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研修室に戻ったおれは、受け取ったケースをそっと開いてみた。
練習用といいながら、納められていたのはモーリスのハンドメイドのアコースティックギターで、十万円は下らないものだろう。ボディの中心部が明るいキャラメルカラーで塗装されていて、縁にいくにしたがって濃いスモーキブラウンのグラデーションを描くタバコサンバーストと呼ばれる、オーソドックスなボディーカラーのものだった。
おれはそのギターをそっと取り出すと、ステージに据えた椅子に腰を掛けてその弦を軽く爪弾く。ブロンズ弦の振動から生み出されるサウンドはふくよかでありながら高音域がはっきりと響くブライトな音質で、その音色に導かれておれの心が数年前に若返るようだった。
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「ねえ、アキオってギター上手いんだから、三線もひけるんじゃないの?」
「弾いて弾けないことはないと思うけど、でも変な癖がついたりしてあんまり良くないんじゃないの?」
「あたしも独学だし、別にいいと思うけどなぁ」
高田馬場にあるレンタルスタジオの一室でユイはそういいながら、おれのほうをじっと見つめた。
彼女のシマ唄に付き合うこと。それは、おれと彼女がともに音楽活動をするときの条件として、おれが彼女に提示したものだ。だから、事務所での音楽活動とは別に、こうやってユイのシマ唄の練習に付き合っている。
ちなみに、そのときおれは、ユイの歌に合いの手を入れる「お
「それに、せっかくのユイの歌の邪魔をしたくはないし、お囃子くらいがちょうどいいんだ。でもまあ、せめて一曲ぐらいは、シマ唄が唄えたらいいかな……とは思う」
するとユイはぱっと瞳を輝かせて、いいことを思いついたといわんばかりに、おれの座っていたスペースに飛び込んできた。
「ねえ、アキオってギター上手いじゃん? で、作曲もできるでしょ? だから、シマ唄をギターでアレンジして弾いたらいいんじゃないの?」
どんな三段論法だよ、と大笑いしたものの、実際このときのユイの一言がきっかけで、おれはユイの路上シマ唄ライブにギターを抱えて参加することになったんだ。
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一度体が覚えた動作というのは、ちょっとやそっとじゃ忘れたりしないもので、ギターを弾く手もそれなりに思い通りに動いてくれる。
かつて、ユイと一緒に歌った夜の東京での路上に思いを馳せながら、自然とおれの指は彼女が歌っていたシマ唄のワンフレーズを奏でていた。
と、そのとき、研修室の扉が開き、今度は一人の女性が入ってきた。彼女はおれにむかってたずねる。
「……ここって、安田先生の講演会場、ですか?」
「そうだけど、もしかして事務局の人?」
「それじゃあ、あなたが大澤さん?」
彼女は先生とは違う、地味で暗いオーラをまとっていて、必要以上におれと目を合わせることもなかった。ただ、彼女が首に巻いていた手染め風のストールは、春に咲くヤマブキのような深みのある黄色をしていて、彼女のもつ暗い雰囲気とは対照的に、妙に鮮やかに映った。
「事務局の石岡といいます。先生から聞いてると思うけど、講演は午後一時からです。会場の机はすべて撤去して、椅子だけを並べてほしいのですが……」
「わかった。どのくらいあればいい」
「百脚もあれば十分だと思います。私は受付の準備をしていますので、何かあれば声をかけてください。それではよろしくお願いします」
おれも「よろしくお願いします」と返事をしたものの、なんだか彼女の妙な空気感に、すこし居心地が悪くなった。
とにかく、今はやるべきことをやるしかない。あとのことはあとで考えよう。
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会場の準備を終える頃には、気の早い来場者たちが受付にやってきていて、ぽつぽつと席が埋まっていた。
先生がどういう状況かもわからないこちらとしては、気が気でない。
「先生、戻ってこれるんですかね」
受付に座る石岡にたずねると、彼女は感情のこもらない声でこたえた。
「先生からは大澤さんが繋いでくれるときいています」
どうやら、彼女はあまり融通を利かせてくれるタイプではないらしい。
その後、来場者が会場の半分くらい埋まったところで、午後一時をまわったが、先生は帰ってこなかった。
だからといって会場内もとくに騒然となることもなく、ただ漫然と時間が過ぎていくだけだった。午後一時を十分ほど回ったところで、ようやく石岡が来場者にむかって呼びかけた。
「現在、安田先生は急患対応で処置にあたっておりまして、多少遅れておりますので、いましばらくお待ちください」
これでいいのか? と、おれは不安になった。東京では、打ち合わせに五分遅刻したら、事務所からこっぴどく怒られていたし、なによりあの日、おれがユイとの約束の時間に遅刻したことで、おれとユイの関係はついえてしまったわけで、島民たちとの時間に対する感覚のギャップにどうも心が落ち着かなかった。
おれがそわそわとしていると、「アキオ!」と聞き慣れた元気な声が聞こえた。
振り返るとそこにいたのは、ヒメハブこと、
「ヒメコ、今日はバイトじゃないのか?」
「マコトさんが公民館で面白い余興が見れるから行ってこいって」
「なんだよ、余興って」
「違うの?」ヒメコはくいっと小首を傾げる。
「そうじゃなくて、病院の先生の医療講演会だ」
「それで、そのドクターは?」
にやけ面のコウジがおれにいう。さては、お前、おれをハメたんじゃないだろうな?
「オンコールだそうだ。今朝、準備中に出ていってそれっきりだ」
「ふうん。ま、せいぜい
そういうと、コウジはヒメコを連れて客席の最前列、しかもステージ真ん前を陣取った。気張れってことは、奴はおれが演奏するのを知っているのか?
それにしても、なんで連れてきたのがマコトじゃなくてヒメコなんだよ。マコトが来てくれるならおれの余興も気合が入るのに、相手がヒメコじゃ気分が乗らない。
おれが奥歯を噛んでコウジの後ろ姿を睨みつけていると、石岡が携帯電話を片手におれの方へ近づいてきた。
「先生からです」
おれは、電話を受け取り「もしもし」と応答する。
「やあ、いろいろすまないね」
先生の妙に呑気な声に、さっきの呼び出しもおそらくは重大な問題にはならなかったのだろうと安堵する。
「もう、戻ってきますか?」
「いや、すまないけど、やっぱりちょっと間を繋いでおいてくれるかい。よろしく」
一言そういうと電話が切れた。おれは思わず、その前時代的な携帯電話をぶん投げそうになった。
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