第18話 シンガーソングドクター

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 土曜日、地区公民館へ行くまえにあしびばに寄ると、いつものようにマコトが出迎えてくれた。ヒメコは昼からのシフトらしい。

 この日、店内の雰囲気がいつもと違っていることにおれは気がついた。

 スピーカーからきこえるのはストリングスカルテットではなく、クラシックギターで演奏しているバッハの「主よ人の望みの喜びよ」だ。


「今日はBGMが違うんだな。これはこれでいいな」

「ええ、アキオさんが今日講演会に行かれるということでしたので、いつもと変えてみたんですよ」

「講演会とギターが関係あるのか?」


 おれがそうたずねると、マコトは「はい」と短く答えて、「きっと楽しい講演会だと思いますよ」と微笑んだ。

 いまいち要領を得ないままにおれはいつもの席で、いつも通りにモーニングセットを注文した。BGMはいつの間にかタレガの「アルハンブラの思い出」に変わり、店内にどこか哀愁あるギターのアルペジオが響いていた。


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 あしびばから地区公民館までは二キロ弱。普段ならスクーターにのるところだが、今日は散歩がてらに歩いてむかうことにした。雨こそ降ってはいないものの、低く垂れこめた雲のおかげで、爽やかな気分とはいかなかった。

 それでも、おれはこの風に乗って微かに匂う潮の香りを感じながら、街を歩くのは結構好きだ。少しずつ変わっていく植物たちを目で追いかけ、太陽の温度を肌で感じ、あちこちにさえずる鳥の声に耳を傾けると、この島で暮らしているんだということを実感できた。


 店を出て港の護岸沿いに二十分ほど歩いて、地区公民館にたどり着いた。

 コウジ曰く、機材はすでに搬入されていて、それを使える状態にすればいいということだった。

 いっちゃなんだが、こう見えて元プロミュージシャンだ。音響の知識くらいは備えている。最新鋭のデジタル機器だと自信はないが、多分そんな心配は無用だろう。


 会場となる研修室に入り、無造作に積み上げられた機材の山の前にかがみ込んで、必要なものが揃っているかを確認している時に、突然、背後から声を掛けられた。

 最近、背後から声をかけられることが多いな。油断しているのか?


「もしかして君が代わりに来てくれた人かい?」


 しゃがんだままで見上げると、ギターケースを抱えた四十代後半ぐらいの男性が立っていた。面長で、おでこが広いので薄毛に見えるが、よく見てみればちゃんと髪は残っている。目尻のしわのためか、柔らかな表情に見える。きっと普段からよく笑っている人なんだろうと、なんとなくそう思った。


「大澤アキオといいます。この近くでなんでも屋をやってます。今日、先生の講演会があるから、機材の設営をするようにって頼まれて」


 立ち上がると、男と同じ目線になった。細身のせいか、実際より背が高く見える。


「へえ、なんでも屋さん? 僕は安田やすだのぼる。今日はよろしく頼むよ」

「え? じゃあ、あなたが今日講演する先生?」


 おれは驚いてもう一度、彼を見る。

 医者というと、ハイソサエティな生活をしているものだという偏見があった。けど、彼はいたって普通の中年おじさん。ダークグレーのスラックスと、ピンストライプのボタンダウンシャツの上に黒のニットベストという、まあ何の面白みもない格好だし、そのどれもがいわゆる量産品に見えた。


「あの、安田さんって医者、なんですよね? なんでギター持っているんですか?」

「ああ、これかい? 僕の場合、講演という名のギター演奏会なんだよね。元々はアコースティックギターを弾いていたんだけれど、最近はクラシックギターもかじるようになって、せっかくだからどこかで演奏する機会がないかと思ってね。講演会で披露するようになったら、思いの外ウケちゃって、これが講演会の名物みたいになったんだよ。自分でいうのもなんだけど、結構好評なんだよ」

「へえ、そうなんですか。おれも昔ギターをやっていたんで、楽しみです」


 おれがそういうと、先生はまるでおもちゃを与えられた少年のように、ぱっと顔を輝かせながら、おれの手を握った。結構が握力強い。


「君もギター弾くの? だったら今日は僕じゃなくて大澤くんに演奏してもらおうかな? なんでも屋さんなんだろう? 拘束一時間あたり、いくらくらいで依頼できるの?」

「いや、さすがに先生の講演会の邪魔はできないですよ! 楽器も持ってきていないし。それに、おれ、なんでも屋ですけど、お金での依頼は受けてないんですよ」

「ええ、そうなの? うーん、それじゃあ前座でもいいし、君の仕事の宣伝してもらっても構わないから!」


 なおも先生は食い下がる。おれは、困り顔を隠すことなく頭を掻いた。すると先生は、口元にどこか意地悪い笑みを浮かべて、おれの耳元でささやくようにいった。


「受けてくれたら、今度、ナースとの飲み会に招待するからさ」


 おれの脳裏にまたもやコウジの言葉が甦ってくる。

「看護師さんとの合コンはいつやるんだ?」

 ついでに、やつのはしゃぎまわる姿もおまけのようについてきた。

 こういうところが、おれのダメなところなんだよ。


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 不思議な感じだった。

 医者なんていうのは、たいてい偉ぶってどこか一段高いところから、おれたちのことを見下ろしているような、そんなイメージを持っていたのに先生は全く違った。まるで、親戚のおじさんのような気安さだった。


「おれ、ちゃちゃっと音響組みますから、その間に先生はギターの用意しておいてください」

「いや、僕も手伝おう。これでもだいぶセッティングは覚えたんだよ」

 先生が腕まくりをして、スピーカーを設置する間にに、おれはミキサーを用意し、そこにマイクケーブルやスピーカーケーブルを結線していく。


「随分となれているんだねえ。僕なんて未だにミキサーのスイッチの意味すらよくわかってないんだよ。この前、ようやくオグジュアリーチャンネルの意味を理解したんだけどね」

「普段の生活ではこんなもの触りませんからね。おれ、昔、東京で路上ライブしていたんですよ」


 そういってから、しまったと若干後悔をする。

 先生は「やっぱり前座でいいからやろうよ」と同じ話をぶり返してきた。おれは、聞こえないふりをする。


「音チェックするから、楽器持って座ってください」

 おれは椅子を用意し、ブームスタンドにマイクを取り付けた。

「堅いこといわずにやってくれたらいいのに……」


 先生が年甲斐もなくふくれ面をしてみせたときだった。いやに機会的なピリリリという電子音がこのホールの中に鳴り響いた。

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