第12話 家族

     🐍


「アキオ、どうした?」


 コウジの呼ぶ声でおれは一瞬のマインドトリップから現実世界へと生還した。

 おれがこぼした「罪の意識」という言葉の意味をはかりあぐねて、複雑な顔をしているコウジと土生さんは、おれの言葉の続きを待っているようだった。おれは咳ばらいをひとつして、真剣な表情を作った。


「土生さん、それとコウジ。これはおれの推測に過ぎないけれど、土生さんは一度、病院にかかったほうがいいかもしれない。それもなるべく大きな、脳神経内科のある病院」

「脳神経内科? なんで?」

「土生さん、物忘れがひどくなったのは、脳卒中で倒れた後じゃないか?」


 おれの質問に、戸惑いながらも土生さんはうなずいて返事をする。


「それと、こんなふうに家が片付かなくなったりしたのも、同じ頃だろう。コウジ、仕事でいろいろとあったっていうのは、仕事の手順がむちゃくちゃだったり、集中力がなくてぼうっとしていると思われたり、とにかくそういったことじゃなかったか?」

「ああ、その通りだ。結局、会社でも自分の顧客のことや仕事の手順もすぐに忘れてしまうといって、もう年だから物忘れがひどいんだと思っていた」


 おれは首を振って「違うんだ」といった。おれの意識が再びあの日の病院の一角に飛んだ。


     🐍


「高次脳機能障害、ですか?」


 ユイが事故に遭ってから数日後、彼女の父親から電話で呼び出されたおれとマネージャーは、薄暗い病院のロビーのソファに横並びで座っていた。午後の面会時間ぎりぎりを指定してきたのは、あまり長居させたくないという彼の意思表示だったのだろう。


「交通事故や脳の病気などで脳に損傷が起こることで引き起こされる神経障害だ。脳から体に送られる指示命令系統に支障があって、日常的な動作、記憶、言語。そういったものに不具合がでてくる」

「それで、ユイ……さんの容体は?」


 おれがたずねると、父親は窓の外の遠くのほうに視線を固定したまま、感情のこもらない淡々とした口調で続けだ。


「意識は回復し、命に係わるような状態からは脱した。ただ、今の結衣は自分が誰かもわからず、家族のことすら思い出せない。そして、言葉が話せなくなっている。医者がいうには、何かを言葉にしたくても、その言葉が出てこないのだそうだ」

「言葉が、話せない?」


 胸の奥が引き攣れたように苦しくなった。おれが心から惚れこんだ彼女の声や、言葉が失われたのだ。

 それは、ほんの少しのおれの不注意が原因かもしれない。そう思うと、おれはこの気持ちをどこにぶつければいいのかわからず、ただ膝の上で固く握った拳に力をこめるのが精一杯だった。 


「とにかく、今の結衣には、あなた方が期待するアーティストとしての価値が失われた。歌えない歌姫にどんな存在価値があるというのですか」

「彼女はきっとまた歌えるようになる。ユイさんは心から歌うことを愛していた。だから……」

「その結衣は今はいない。病室にいるのは結衣の形をした、魂のない抜け殻だ」


 そういうと父親は立ち上がり、おれとマネージャーに深々と頭を下げ、その姿勢のまま嗚咽をかみ殺すようにいった。


「あの子を、どうか私たち家族の元に返してください。契約のことなら私や弁護士が話し合う。だから……だから、彼女のことは諦めてもらうように、会社にもお伝えください!」


 ユイの父親の言葉はおれの心を深く突き刺し、その柔らかな部分をごっそりとえぐり取った。ユイは再び歌えるようになる、そう信じているおれの言葉を一蹴し、病床に伏せる彼女を「抜け殻」とまでいい切る、それほどまでに、彼はおれたちが歌うことを、意味のないものだと考えていたのだろう。


 それでも、おれはなんとか彼女に会わせてもらえるようにと、高次脳機能障害について専門書や学術書を読んだり、リハビリ方法などを調べたりして、ユイの父親に、彼女との面会を直談判しにいったのだが、彼は「もう君にできることはなにもない」と取り合ってもくれなかったのだ。

 結局、ユイは正式に会社との契約が解除となり、おれと彼女をつないでいた唯一公認の関係も断たれた。間もなく、彼女の携帯電話も繋がらなくなり、おれの手元には、にわか仕込みの高次脳機能障害についての知識だけが残った。


     🐍


「つまり、ハブキチさんが高次脳機能障害かもしれないってことか?」

「断定はできないけれど、過去におれが調べた高次脳機能障害の症状や発症条件に一致している。だから疑ってかかる必要はある。高次脳機能障害はれっきとした精神障害だ。それこそ……」


 おれはいいかけて一瞬、口をつぐんだ。あの日、おれがなぜ何もできないといわれていたのか、この言葉をいいかけてようやく理解をしたからだ。


「それこそ、家族の理解と助けが何より必要なんだ。何があっても支えていく強い意志が」


 あのときのおれは、何があってもユイを支えていくという強い決意をもって、彼女の家族と接していたのだろうか。どこかで、まだ彼女の「歌声」を求めていたのではないだろうか。それを、彼女の父親には見透かされていたのではないだろうか。

 今になって、そんな思いがおれの体中を駆け巡っていた。


「もしかしたら、ヒメコはこの状況を自分のせいだと思っているのかもしれない。自分がいることによって、土生さんを苦しめているんじゃないかって」

「それがアキオのいう罪の意識か?」


 おれは静かにあごをひいてうなずいた。

 その重苦しい沈黙を、おれの呑気なスマホの着信音が打ち破った。画面には登録されていない番号が表示されていた。


「遠慮せず出ろよ。仕事かもしれないぜ」


 おれはコウジのその言葉に若干の戸惑いを感じながらも、スマホの画面を操作して、電話に出る。電話口では張りのある男の声が、切羽詰まったように響いた。


『ゆいわーくの大澤さんか? ハブ屋のハジメだ。さっそくだけど、ヒメコが目撃されたらしい。今すぐ動けるか?』


 おれは立ち上がり、「すぐ行く!」と声を張った。


「ヒメコが見つかったらしい。おれはすぐ現場にむかう。コウジは土生さんと病院のことについて話をしておいてくれないか」

「残業代も高くつくぜぇ」


 コウジのにやけ顔を一瞥すると、おれは土生さんの家を飛び出して、ガソリンを満タンにしたスクーターに飛び乗り、勢いよくアクセルを捻った。

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