第6話 ハブヒメコ

     🐍


 朝は障子紙のように淡い乳白色をしていた空は、午後に入ると突然崩れ始めて、鉛色を濃くしながら新緑に萌える山の稜線をにじませ、ついには大粒の雨を落とし始めた。

 もうかれこれ数時間ほども、庁舎の非常階段の上から保健所に訪れる人々をチェックしている。なにをしているかというと、土生の娘、姫子ヒメコが現れるのを待っているのだ。

 

 コウジは明日の手伝いを受けるなら、ヒメコを見た場所を教えるといった。

 それで運よくコウジがいう場所でヒメコに出会うことができれば、そこで仕事が終わるかもしれない。例えそうならなかった場合でも、明日一日、時間を取られたとして、まだあと一日はヒメコの捜索に充てることができる。探す当てがあるのとないのとでは、その仕事の効率は段違いに違うはずだ。

 渋々ながら依頼を承諾すると、ヤツはいった。


『ヒメコなら、つい二、三日前に市の保健所で見かけた。あの子、ハブの持ち込みをしていたぜ』


 おれは「ハブ?」とまた変てこな声をあげてしまった。


『もしかしたら、夜な夜な出歩いているってのは、ハブ捕りかもな。でも、もしそうだとしたら、それこそ急いで辞めさせなきゃならん。ハブの毒をなめてると本気で命にかかわる。だいたい、十五そこそこの娘が小遣い稼ぎにハブハンターをやるにはリスクが高すぎる。俺も見かけることがあったら声を掛けるが、今日あたり保健所の前で張っていたほうがいいんじゃないか?』


 コウジにそういわれて、おれも納得した。仮に一晩かけて三匹のハブを捕獲できたとして、それを保健所に持って行き報奨金を受け取れば九千円になる。高校生にとって悪い小遣いではない。でも、それならコンビニで五時間のバイトを二日間かけて行ったほうが、確実だしリスクは少ない。だとすれば、なぜヒメコがそんな危険な小遣い稼ぎをするようになったのか。

 おれはコウジに礼をいうと、その足で街の南のはずれにある庁舎にむかい、今に至るというわけだ。


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 ハブ取扱室は庁舎の反対側の奥まった場所にある。庁舎の外階段からはそこを出入りする人間が良く見え、絶好の監視スポットだった。

 だが腕時計は午後五時を指そうとしている。もうすぐ業務も終わる時間だ。


「今日は収穫なしか」


 諦めて階段を下りようとしたとき、雨の降りしきる駐車場に一台のスクーターがやってきた。

 一つ目お化けのように大きな丸いヘッドランプが、フロントレッグシールドのど真ん中で存在を主張している。シート後方の荷台にはハブ箱と呼ばれる、捕獲したハブを入れておく木製の箱が括りつけられていた。

 スクーターに乗っている人はレインジャケットに身を包んでいて、ここからでは顔はわからなかったが、ピンク色をベースにしたレインジャケットと、小さな体格から女だろうとは推察された。

 スクーターはそのまま、ハブ取扱室がある建物の陰へ曲がっていく。

 ビンゴだ。

 おれは非常階段を駆け下りて、ハブ取扱室へとむかった。

 数分後、アルミサッシの扉が開いて、さっきのピンクのレインジャケット姿の人物が姿を見せたとき、おれはその顔を見て、まったく意図しない名前が口をついて出てきた。


「……ユイ?」


     🐍


 森田もりた結衣ゆいとの出会いは十年前の新宿の路上。

 彼女は新宿駅南口の行き交う人混みの中、路上で三線を爪弾きながら歌をうたっていた。

 儚げで哀愁を帯びたメロディ。その旋律に乗せる歌声はガラス細工のように透明で繊細で、けれどどこか魂を揺さぶるような力強さがあって、おれは一瞬でその歌声の虜になった。

 やがて巡回中の警察官に、ここで歌わないようにと注意を受けた彼女は、名残惜しそうに演奏を止めると、手にしていた三線をケースにしまった。

 ぼんやりとその様子を見つめていたおれと彼女の視線がぶつかる。彼女は少しだけ困ったように眉をさげた。


「怒られちゃった。今日は聞いてくれてありがとうね」

「いや……あのさ、すげえ上手だったな。その、なんていうか……心にグッとくる不思議な歌声だったよ。」

「本当? 嬉しいな。あの歌はね奄美大島っていう島で古くから歌い継がれている『シマ唄』っていう民謡なの」

「へぇ、民謡か。そのシマ唄ってああやって弾き語りをするもんなのか?」

「本来は歌い手の他に弾き手とお囃子はやしが必要なの。弾き手はうたいながらでもできるけど、お囃子はさすがに一人じゃ無理でさ。でも大学には、もう民謡を一緒に歌ってくれる子がいなくなっちゃって」

 彼女は肩をすくめながらそういった。


 当時のおれは、バイトに明け暮れながらなんとか音楽で食っていこうと必死だった。しかし、おれが組んでいたアマチュアバンドではライブをやってもせいぜい数十人にチケットを売るのが精いっぱいで、音楽をやればやるほど貧乏になっていった。

 だけど、彼女の歌声はそんなアマチュアバンドの連中とはまるで違う。上手とか美しいとか、そういう次元じゃない。いうなれば、人間の心を揺さぶる歌声だった。


「なあ。もし、おれと一緒に音楽をやってくれるなら、おれもあんたのそのシマ唄につきあうぜ」

 どうせ断られるだろうと半ば冗談まじりにいった。

 ところが、そんなおれの予想を裏切って、彼女は飛びつくような動作で、瞬時におれの数センチの間合いに近づき、「本当に!?」と目を輝かせた。

 おれとユイの音楽生活はその瞬間に始まった。


 手始めにおれたちは新宿周辺の路上ライブから始めた。それが人づてに噂となり、ライブハウスで対バンライブをするようになると、回を追うごとにおれたちのライブを見に来る人も増えていった。

 やがて単独でライブを開催するまでの実力が付くようになると、おれたちの活動がとあるレーベルの担当者の目に留まり、おれたちは事務所所属のプロミュージシャンとなった。

 その間、たったの二年。ユイに至っては、ようやく大学を卒業したばかりの頃だった。


 いい音楽を作り、いい歌を歌えばプロミュージシャンになれるなんていうのは幻想にすぎない。

 大事なのは運、そしてそれを呼び込む人脈だ。そういう意味では、おれたちは出会う人に恵まれていたんだと思う。

 ユイのたぐいまれな透明感と伸びやかなハイトーンを生かした歌声は、事務所の強力なバックアップ体制のおかげもあり、東京のラジオ局で「奇跡の歌声」と称され、パワープッシュソングとして選ばれた。その途端に、おれたちの音楽は一気にミュージックチャートを駆け上がっていった。


 あんたたちもそのタイトルくらいは聞いたことがあるだろう。

 Reveレーヴの『ありがとうを花束に』。

 ドラマの主題歌にも採用されたこの歌のおかげで、一躍脚光を浴びたおれとユイのミュージシャンとしての未来が、トンネルの先で白くにじむ出口の光のように、ぼんやりと輝き始めた。そう思えた矢先のことだった。


 ユイはその奇跡の歌声を、そしておれはユイ本人を失ってしまったんだ。


     🐍


 失ったはずのユイの面影を宿した少女を前に、おれはただ呆然と立ち尽くしていた。まるで不審者でも見るような目(実際、不審者っぽいのだが)でおれを一瞥した彼女は、ハブ箱をスクーターに括りつけると、スクーターを切り返してシートにまたがった。

 はっと我に返ったおれは、慌てて彼女に声をかけた。


「あの、すみません。少しいいですか?」


 少女の瞳に明らかに拒絶の色が浮かぶ。

 おれは努めて穏やかに、人当たりよく聞こえるようにいった。


「えっと、土生はぶ姫子ひめこさんで間違いないよね? おれは大澤アキオ、実は君のお父さんに頼まれて、君を探していたんだ。少し話を聞かせてくれないか?」


 すると彼女は、突然興味を失ったように、おれにむけていた視線をはずして、スクーターのエンジンをスタートさせた。おれは慌てて彼女を引き留めようとする。


「時間はそんなにとらないから」

「なら、父さんにいっといて。もう、あたしのことは放っておいてくれて構わないからって。じゃあね」


 そういって彼女はアクセルを捻り、貧弱なエンジン音を響かせながら走り去った。

 ありったけの力で地面を蹴ってそのスクーターを追いかけるも、おれが駐車場から道路へと飛び出した時には、雨に濡れるアスファルトに映り込んだ青信号の光のむこうに、彼女のスクーターの弱々しいテールランプの赤い光が消えていくところだった。

 遠ざかるエンジン音に、おれは事務所にスクーターを置いてきたことを心から後悔した。

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