第9話

 4歳の少年が亡くなった報道は収まるところを知らなかった。彼の家柄と助手の顔の広さの成せる技を見せつけるかのように全国テレビや地方テレビの報道陣が病院の玄関前で待ち受けていた。それによって、樹は医療関係者が従業員用玄関でももう1つの小さい方から入って行った。いつも、樹が休憩時に毎回通ることになる精神科病棟と休憩室の間の吹き抜けスペースだったから通いなれていた。病院前の入口に人が多いので通院患者からは苦情も絶えないようで、医療事務たちは頭を抱えていた。それに、報道陣たちはこちらが何と言おうとも関係なく、当事者に話を聞くまでは鎮座を続ける意思だったようだ。それにより、緊急で教授会議が開かれて、後藤と手術を手伝った大分助手を招集することになった。それに関係なく精神科には意外にもいつもと変わらない日だった。変わったことと言えば、緊急会議のために診察をできない桐山先生の代わりに、ちょうど手が空いている樹が彼らの診察をすることだった。患者たちは必ず病院の心配をしているようで、誰しもが樹に不安げにした表情で同じ言葉を零した。

「この病院が無くなったら困るから、頑張ってね。」

 と言うのだった。それに、樹は笑みを浮かべて頷いて返事をした。彼らが自分たち精神科の人間を頼りにしてくれることがとても嬉しかったし、そんな彼らの不安を増長させない為だった。

 午前の診察は終わり、昼休憩の前に午後の診察用のカルテを用意していると、ドアが勢い良く開かれて、その勢いのまま戻ってそこに立つ人物に激突し、当たった部分を手で押えながら樹の方に向かってきた。

「大丈夫ですか?桐山先生。」

 その人物、桐山教授は何度も頷き慌てていたせいで乱れた呼吸を落ち着かせた。

「大丈夫。今日の診察って予約何時までだったかな?」

「午後15時で本日は終了です。飛び込みはおそらくないと思われるので大丈夫かと思いますけど。」

 そう言うと、彼女は何かを考えるように顎に手を当てた。

「何かありましたか?先生の患者さんでしたら、戻ってこれない可能性も考えてこちらでスケジュールに組み直していますので、問題ないですよ。」

 不安になった樹は患者第一の彼女を知っているので、安心させるように言った。しかし、それは全くの検討違いだったことを思い知らされた。

「内山先生、後で会議室に来てくれない?」

「はい?」

 樹は思わず上ずった声で首を傾げてしまった。

「訳は後で話すから、16時半から会議室は取っておくわ。私の方はこれからまた会議なのよ。あと、娘の陣痛も始まったみたいでごめん。」

「いえ、大丈夫ですけど。」

 樹の言葉の終わりも待たず、珍しく焦った彼女はそのまま再び部屋を出て行った。

「娘さんの出産とこの事態と重なって慌てているのかな。」

 樹はその姿に笑みが零れた。しかし、そこに自分が呼ばれた理由が分からないことで彼は悶々としていた。


 午後16時半、会議室をノックすればすぐに返答を受けたので、樹は扉を開けて入室した。揃った教授の圧巻さと緊張感漂う中、その机で出入り口方面以外の三方向から彼らに見られている中心に、2人の人物が座っていた。1人はよく見覚えがあるが全く別人のように肩を窄めて小さくしている後藤と堂々と余裕そうに笑みを浮かべて自然体に見えるおそらく大分助手が座っていた。

「お忙しいところよく来てくれた。内山先生。」

 そう言ったのは、小児科外科の教授でありかつての樹の恩師でもある英知優斗教授だった。

「いいえ、先ほど診察を終えて本日は終了なので、問題ありません。私の都合に合わせていただき恐縮です。」

 入り口の所に立ち止まったまま返して一礼をした。

「ところで、英知教授。私はどうしてこちらに呼ばれたのでしょうか?」

 樹は前置きをすっ飛ばして本題に入った。

「実は、君に尋ねたいと思っていたんだ。」

「尋ねたいこととは?」

 樹が質問をすると彼は一回息を吐いてからこちらを見た。

「3年前のことについて。」

 それを聞いた瞬間、樹の呼吸は止まり心臓が大きく跳ねた気がした。それは気のせいと思うには大きすぎる鼓動だった。

「思い出したくもない事だろうが、こちらにいる後藤先生はその件でも患者を亡くし、今回も関わっている。だから、その件も含めて話し合おうと思っているんだ。」

「3年前の件は私が遺族に精一杯しているつもりですが、それを掘り返そうと言うのでしょうか?」

「確かに、あれからも君は毎月彼らに対して色々とケアをしているのは知っている。しかし、これは重要なことだよ。もし、あの一件のミスが後藤先生によるものだったとすれば、それは未熟な人材をそのまま命を預かる手術室に送り込んだことになる。それを発表すれば、この大学の存続をかけた問題に発展しかねない。」

「分かりました。」

 英知教授の説明に樹は頷いた。


 それから、始まったのはまず今回の一件に関することだった。

「それで、今回の手術は虫垂炎切除開腹手術により亡くなった件だが、まず、執刀した後藤先生から説明をお願いするよ。」

 英知教授の言葉により会議が始まった。

 後藤は緊張した面持ちで手術の概要を説明していた。使用した麻酔から縫合まで手順を言い終えた。

「うん、手順的にはマニュアル通りなので問題ないと思う。ただ、司法解剖では死因は多量出血と記載があった。これに関して、実際に執刀に当たった両名は原因が考えられないだろうか?」

 英知教授の疑問に後藤は戸惑い、一方で大分助手は余裕な表情を崩していなかった。その相反する様子が気にかかったのは、樹だけでなかったのだろう。

「大分助手、君にも質問をしているのだけどね。」

「ええ、分かってますよ。ですが、私は何も知りません。すべては執刀をした隣の後藤先生が把握されていることと思います。私は彼の補助をしていたにすぎません。」

 後藤先生、と最後にわざとらしく横を見て彼に言った。傍から見れば脅迫をしているように見えた。

「執刀医任せというのはあまりよくありません。第一、最初から疑問だったのですが、大分助手、君の方が経験も技量も後藤先生よりは上のはずです。それなのに、なぜ、今回の手術は君が第一助手という立場なのでしょうか?」

 英知教授が質問すると、大分助手はとたんに心底おかしそうに笑った。それは異様な光景であり、誰もが顔を顰めてしまうほどだった。

「英知教授、あなたの言葉はごもっともですが、しかし、以前にも誰もが原因を追究せず全てを執刀医だけに責任を押し付けたことがあったではないですか。それと、今回私が第一助手なのは、隣の後藤先生がやらせてほしいと頼んできたからですよ。3年前と同じですよね?内山先生。」

 と、最後に名前を言って、彼は樹の方を振り返り歪な笑みを浮かべて見てきた。その人から外れた者のような歪な彼の視線と表情が樹に刺さり、心臓を高鳴らせた。しかし、それらは一瞬のことで、大分助手はすぐに樹から目線を外して英知教授の方を見た。

「それなのに、あなた方は今更3年前と今回のことを見直して、原因を追究して後藤先生の技量を確認したいと言うのですか?あの時のように、執刀医の彼だけを切り捨てれば済む話なのでは?記者会見でも開いて彼に責任を被ってもらい、遺族への償いをさせればいいのではないのですか?幸運にも彼、後藤先生は隣の県の有名総合個人病院の次男といえ息子ですよ。そうすれば、マスコミ関係もそちらに目を向かせて引いていくのではないでしょうか?今、あなた方が考えなければならないことは、手術の原因追究ではなく、外にいる病院運営および大学への信頼維持のための対策だと思いますけど。」

 と言った大分助手は両手を広げて肩を竦めた。それに、周囲の教授がざわつき始めた。彼が言うことも的外れではなかった。確かに、マスコミ関係者が3年前と同じ手術で患者を救えていないことを知るのは時間の問題であり、そうなった場合、この病院への信頼、ひいては大学への信頼まで失うことになるのは必死だった。それを阻止するのは大学職員である教授たちの責務でもあったからだった。

 3年前、樹に早々に責任を取らせたのはあの一件が起きた時、ちょうどこの大学病院に小児がんの治療で有名になったとある大物医師が外国から訪問していたからだった。そんなスキャンダルは大学にとっては汚点でしかなく、彼らは樹に全ての責任を取らせて、遺族への賠償を行い、全てを隠ぺいした。まるで、そのことを当事者でもない当時この病院にすらいなかった大分助手が知っているように語った。樹はその情報を知った彼の情報網に恐怖を感じ、先日凜に言われた

“人間関係によって差し障りがありますね。”

という言葉が頭を過ぎり、それに心の中で『さすが、作家だね。』と褒めてしまっていた。そうして、時間だけが過ぎていくのかと思ったところで、英知教授がため息を吐いた。

「確かに君の言う通りだね。私たちには大学とこの病院を守る義務がある。それに、ここで2人が何も話さない以上、これ以上の追究も無意味で時間を浪費するだけになる。では、ここまでにして、今後の報道関係への対策やそのほかのことはこちらで判断するとしよう。桐山教授、伊藤教授、内山先生、君たちは悪いけど残ってくれるかな?後の方は解散してください。」

 英知教授の言葉に少し不満げにしながらも他の教授たちは一番出入り口に近い場所に座っていた樹を睨んで出て行った。それに、心底ため息が出た。

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