第5話

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 化物の復活が知れたのは音のせいだったが、その音を表現することは、タルスには困難であった。これ迄聞いたことのある呻き声とも啼き声とも咆哮とも違う、聞いているだけで心がかき乱され、精神に変調を来しかねない音だった。

 其が、背後の怪物の発したものと察するなりタルスは、レセトと共に一散に駆け出していた。守備隊のいる階段目掛けての突撃は、いうなれば自殺行為であるが、当の守備隊がもはや戦う体をなしていなかった。中には気丈にもタルスたちに切ってかかる隊員がいたが、あっさりと蹴散らされた。しかし殆どの隊員は、魂を抜き取られたかのようにその場で固まり、呆けた顔の隊員の中には明らかに発狂した者も混じっていた。彼等の目にしたものがどれ程異様でおぞましかったのか、知りたいとも思わなかった。

 駆け上がりきったとき、背後では阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていた。化物の〈声〉に加え、隊員の悲鳴と、肉を食む身の毛のよだつ音が混じっていた。

 司令官の姿がなかったが、あの男だけが理性的に反応できたのはおそらく、怪物の前知識が多少なりともあったからに違いない。手に終えないと見るや遁走したのだ。

 二人は散乱した松明をそれぞれ掴むと、ひたすら通路を引き返した。

「くそったれが!」

 レセトの悪態が〈悪霊のあぎと〉に木霊したのは、半時ほどで砦の真下に駆け戻った際であった。司令官は周到にも縄ばしごを巻き上げていったのだ。

 二人は後ろを振り返る。ひたひたと押し寄せる気配を感じ取っていた。あの化物は、確実に此方に向かって来ている。捕食者が餌場を見逃すはずがないのだ。

「俺がやる」

 タルスが申し出る。数回、気息を整えると、両手の指を石積みの隙間に掛けた。ジリジリと躰を引き揚げる。膝を折って脚を上げ、爪先が引っ掛かる窪みを探す。

 一度、要領を得ると後は順調にいった。猿の如くと迄はいかないが、何とか登りきる。

 幸いにも縄ばしごは、傍らに放り出してあった。タルスがはしごを下ろすと、レセトはすぐに合流した。

 その時、二人は聞いた。井戸のような竪穴を、あの化物の発する狂喜の音が這い登って来たのだ。

「行こう」

 地階から駆け登ってみれば上層階は大混乱のさ中だった。松明どころではない煤煙が砦中に渦巻き、あちらこちらで火の手が上がっている。おそらくは、蛮族ブルガの一斉攻撃が挙行され、火攻めに遭っているのだ。

 仲間の傭兵を求めて歩き回る二人の傍らに、遠雷のような音声を立てて燃えた柱が倒れてきた。二人は危うくそれを避けた。

 と、噎せるような煙の紗幕から、右往左往していた司令官が思いがけず顔を出した。煤だらけの姿の司令官はタルスたちを見つけるなり、目を吊り上げた。

「この裏切り者の豚め!」

 突き出された短槍をかわし、タルスは顔面に直突きを叩き込んだ。司令官は鼻から血を迸らせ、後ろ倒しに転び、動かなくなった。

「裏切り者だと? 其は此方の台詞だ。どういう事なんだ?」

 いぶかしむタルスに、別の隊員を斬り伏せたレセトが叫んだ。

「読めたぞ!」

 隊長エデの鋭敏な知性が、司令官の言動から不審な点を嗅ぎ取ったとしても不思議はない。そこで改めて周囲を見回す。レセトの指摘通りだ。砦内部に傭兵団の姿はなかった。つまりーー。

「逃げたのか!」

 絶体絶命の危地というのに、タルスは思わず呵呵大笑した。傭兵は命あっての物種だ。それに企みのはっきりしない内部の脅威よりも、外部の敵の方がよほど与し易いと判断したのだろう。いずれにしても見事な逃げっぷりだった。いっそ痛快なくらいだ。

 すると、地響きのように足下の方から、忌まわしい声が響いた。どうやら化物が地階から上がってきたらしい。

「そうとなりゃ、こんな処に用はな……」

 レセトの詞は轟音にかき消された。すぐ傍の床の敷石が弾け飛んだ。巻き上がる塵埃の中から、おぞましい化物ーー少なくともその一部が姿を現した。

 其はもはや、動物のどの器官とも云い難いものだった。毛むくじゃらの四肢だったであろう部分に、ひだのあるはらわたの内壁のような部分が混じり合っていた。全体がぬらぬらと粘液で光るさまはまるで、瘤に覆われた陽物めいており、さらにおぞましいことには、その表面に、歯を剥き出しにした口蓋と、血走った紅い一つ目が着いているのだった。

 そしていま、飛び出さんばかりにギョロギョロと辺りを睥睨した一つ目が、明らかにタルスの姿を認めたーー。

「う……」

 考えるよりも先に、躰が動き出していた。

「うおおおお!」

 雄叫びとともに、タルスは跳躍した。常人離れした脚力だった。ほんのひと蹴りで、タルスは化物の一つ目に到達した。

 ゾプッ!

 鍛えられた貫手が、一つ目に突き刺さった。タルスは腕ごと捻って、一つ目をこれでもかと抉った。

 化物から離脱したタルスは、着地した低い体勢のまま周囲探る。そして炎が舐めている柱を両手で掴むと、其を振り上げた。ヴェンダーヤの修法には、極寒の氷上や燃え盛る炎の上を歩くものもあった。タルスの師のような真の行者ともなれば己が肉体を自在に操ることも出来る。

 タルスは狂気のような勢いで、炎の柱を叩きつけた。二撃、三撃。化物がくたばるまで、何度でもやるつもりだった。燃える柱から、化物に炎が移ったようだった。忽ち辺りに肉の焼け焦げる、吐き気を催す臭いが満ちた。

「おい、タルス! どうせみんな燃える! そんなのは放っておけ!」

 気づくとレセトは崩れた壁の隙間に手をかけていた。そして、ニヤリと嗤うと、あっという間に、外へ飛び出していった。

 タルスは、己が叩き伏せた化物を見た。いまや化物は炎に包まれ、苦悶に身を捩っているように見えたが、起き上がる気配はなかった。其に攻め手の蛮族ブルガは莫迦ではない。あの化物の声を聞いて、暢気に戦なぞしているはずがなかった。

「ーーだな」

 燃える柱を放り投げるとタルスは、足早にレセトの後を追った。

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砦の恐怖 しげぞう @ikue201

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