修道院

 私たちが育った修道院が取り壊されるらしい。


 高層ビルの一角にあるオフィスから、夜景を眺める。下の幹線道路には幾つもの車が往来していた。視界に入ってきたと思えばすぐに消え、それを繰り返していた。記憶もこんな風であれば良かったのに。


 日々を過ごすうちに私たちはとんでもない量の情報に触れ、より重要そうなものを記憶する。しかしながら心太ところてんみたいに古い記憶がことごとく消されてしまうなんてことは無かった。消したいと思えば思うほど、その記憶は脳に凝着していった。


 かなでは修道院が取り壊されることを知っているのだろうか、そう思い電話をかけてみた。


「あっもしもし私だけど」


愛子あいこ、久しぶりじゃない。あんたから電話してくるなんて珍しいね。どうしたの」

 奏は相変わらず元気そうだ。


「ねえ、私たちが育った修道院が取り壊されるらしいよ」


「そうなの、全く知らなかった」

 いきなり大声を出され、おもわずスマホを耳から遠ざけてしまう。一息ついてからこう聞いてみた。


「そこで何だけど、今度日帰りで長崎に行ってもう一度見に行かない。壊される前に。私が車運転するからさ」


「良いね。街の観光もしたいな。今度の日曜にでも早速行こうよ」


「ええ、良いわよ。じゃあそういうことで、またね」


 そういって電話を切り、少しため息をついた。


 正直あの建物にはあまり良い思い出がなかった。育ててくれたシスターたちが悪い人だったという訳ではない。彼女たちにはとても感謝している。しかし、彼女たちは同年代の子供の親よりもずっと歳をとっていた。それ故私が幼い頃に亡くなってしまう人もいた。


 孤児みなしごの私にとって二度も三度も親を失うのはとても辛かった。修道院はもちろん教会の様な建物を見ると昔が思い出されてしまう。


 私は修道院を出てからというもの、人を頼らなくなった。頼れなくなったという方が正しいかもしれない。信頼した人をもう一度、あと一度でも失ったら、もうこの世にいられなくなってしまう。そう思って生きてきたからだ。


 そういったタイプの人間は会社の経営者に向いているらしい。ある意味冷徹だが、人を人材と見た時の価値を客観的に見定めることができるからだ。この傾向は正しいと思う。何故なら、現に私は女社長としてこの会社をまとめ上げているからだ。暗い惨めな過去に比べれば、今の私はとても華々しい。


 約束の日、私の愛車であるSUVに乗って私たちは高速道路を走って行った。途中休憩を挟んだりもしたが、長崎には2時間かからずに着いた。それから、どこか見覚えのある街の中を進み、昼前には例の修道院に着いた。


 長く座っていたからか、少しばかり腰が痛い。奏は大きく背伸びをして腰を左右にひねっていた。修道院の前には工事開始日時を前もって知らせる看板が立っていたが、それ以外はほとんど当時のままになっていた。


「あっこれ、懐かしいね。いつも二人で遊んだよね」


 奏の指の先には、私たちがいつも遊んでいた木製の手作りシーソーがあった。奏とは修道院時代、ずっと一緒だった。いつも私のそばにいて、私は奏のそばにいて、お互いを助け合ってきた。修道院には他の子供たちもいたが、名前も顔も覚えていない。それぐらいの付き合いであった。ただ奏だけ、奏だけが私のことを覚えている。あの頃の私を。


 私たちは修道院の写真をとった。中にも入れないかと試したが、案の定鍵がかかっていた。仕方ないので中に入るのは諦めて、街の観光をすることにした。最後の別れを告げて、私たちは修道院を去った。


 街を観光している間、奏はとても楽しそうに笑っていた。奏はどんなに辛くても笑顔でいられる様な人柄だった。奏の笑顔を見る度に、修道院での過去が這い上がってきた。こうなると分かっていたから、修道院を出てから今日まで奏と会うことは避けていたのだ。


 観光を終え、私は車を走らせていた。あたりはもう暗くなり、途切れ途切れにある外灯だけが頼りだった。どんどん狭くなっていく道を私は進んでいった。


 私たちの生家といっても過言ではない修道院が今度取り壊される。私の陰惨で忘れ去りたい過去、忘却を試みる度に烙印らくいんされるかたの象徴。その片割れがあの修道院。


 もう一つの片割れももうすぐ葬られる。そうしたら、私はやっと解放されるのだ。そう思いながら、私は助手席に座っている奏をちらりと見た。スースーと寝息を立てながら、とても嬉しそうな顔をしている様に見えた。


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以下作者コメント

奏の生命の危機ですね。冷徹な愛子らしい決断とも言えるかと思います。

ところで、愛子は外灯が少ないどんどん狭くなる道を進んでいるようですが、山道でも進んでいるんですかね。

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