エピソード 1-2

 僕は早速テラスへ向かった。


 自動ドアの向こうは真冬の海景色だ。テラスには洒落たテーブルが並んでいるが、さすがにこの寒さの中、利用する者はいない。


 僕は堤防の縁に佇む彼女に近づいていく。思いがけず二人きりの空間に恵まれ僕の気持ちが浮き立った。


 よく冷えた海風が容赦なく彼女の薄っぺらい肩に吹き付け、長い髪が暴れている。


「こんなところで寒くない?」


 なるべく驚かせないようにそっと声を掛けた。美音亜 みねあは僕を振り返ると目を大きくして微笑んだ。だがすぐに海に向き直る。僕が隣りに並んだとき彼女は囁いた。


「……お母さん見てると苦しくなって」


「君のお母さんだったらとても楽しそうにしてるよ」


 美音亜の左肩で小さく真っ白なコサージュが風で震えていた。


「本当に楽しいならいいの。でも、不安定になってるだけ。前はこんなことなかったのに。お父さんはずっとそういう仕事をしてきて、それを承知で結婚したのだから。だけどお母さん、何度も大きな病気をしてるうちに変わっちゃった」


美音亜の両肩がかすかに下がった。陰気に波打つ海面に目を落としている。


僕は少し落胆した。こんな寒いテラスでたった一人過ごそうする美音亜を責めたかった。パーティが賑やかなだけにいっそう淋しい。なぜ僕に声を掛けてくれなかったのか。


 津久井美音亜はエリン船長、津久井透真の一人娘で二十歳になる大学生だ。


 美音亜の話によると、船長の妻、瑠音るね は夫の宇宙船乗船に反対していた。正式に乗船が決まると鬱になり部屋に引きこもってしまったという。そしていざ、夫が宇宙に出ると一転して陽気になり不自然なほど、はしゃぎだしたのだ。


津久井船長は国防空軍の出身である。退官後は新型航空機のテストパイロットに従事した後、米国にて宇宙船オリオン操縦を三度経験した。


その輝かしい経歴でもって見事エリン船長に抜擢されたのだ。


「美音亜はどうなんだ? トムが宇宙に行って心配にならない?」


JAXAのメンバーや彼の知人は目上目下問わず津久井船長をトムと呼んでいる。そればかりか世界中の人間がトム、トムと親しげに呼ぶ。他ならぬトム自身がそう望んだから。


「もちろん心配よ。でもお母さんとは違う。お母さんのようじゃいけないと思う。心配の前に応援しなきゃ。だって」


 美音亜は空を見上げた。その視線の先には機首を上げた旅客機が低く飛んでいる。


「これが最後なんだから。お父さんは引退する。好きな仕事だけどもうやめて、私たちだけを見て私たちの幸せのためにだけ生きるって約束してくれたの」


 それは誰もが承知していた。エリン計画の第1回はトムの最後の任務だ。トム自身が引退を申し出た。誰もが惜しんだがトムは頑なに決意を変えなかった。


 エリン計画はエリュの全面的技術支援を受け実現した。有人水星探査艇エリンの開発・製造を含めエリュと地球、双方に利益をもたらす歴史上類例をみない特殊な事業だ。


 僕は生産技術支援会社に籍を置く形でJAXAに派遣されたエンジニアだ。エリュの技術者を含む数名のスタッフでエリンの内装設備を担当した。


 中でも僕と歌村はブルーフィング・ルーム及び就寝スペースのコーディネートを手掛けた。エリュの技術力によりクルーは無重力から解放され地球にいるとき同様の生活を送ることができる。


 ブルーフィングルームは落ち着いた雰囲気の内装で快適に過ごすことができる。中心には会議用大テーブル、人間が寝転がれるソファが2脚、テレビに本棚、小さなキッチンも付いている。壁には絵が掛けられ窓から宇宙の景色も堪能できる。就寝スペースはすべてトイレ・シャワー付きの個室となっていた。


 部屋のレイアウト設計に当たってトムと打ち合わせをする機会が何度かあった。トムと親しくなると東京都内の邸に招かれるようになり、僕は美音亜と知り合った。


僕は美音亜に惹かれ美音亜も僕を好きになってくれた。交際が始まってもうすぐ2年。


美音亜がゆっくりと手を挙げ正面を指差した。僕は美音亜が指し示す方向を見た。海の向こう。そこには分かりきった景色があった。


 セントレア島。廃止された国際空港だ。あれは九年前の惨事になるのか。

 気がつくと美音亜がじっと僕を見つめていた。


「家族は大切よ、ミヲル。ミヲルのお父さんもお母さんも妹さんも。いつもここに」


 美音亜は胸に手を当て目を閉じると大きく呼吸してみせた。少し苦しげだった。


「分かってる。ありがとう」


 そう答える僕の声が掠れる。


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