3、あがりが見えない(6)

 あの日。

 美沙希と一緒に住むと決めたあの日。

 

 美沙希は店の裏から抜け出して、僕に付いてきた。どうせ私が指名されることは少ないからすぐには気づかれない。そう言って美沙希は勝手に出てきたのだ。だからあの店にはまだ美沙希の写真が載ったままであるし、在籍もしていることになっている。直前に入った客が僕であるから、もしかしたら店からは僕が美沙希を唆して逃亡させたと思われているかもしれない。だから美沙希のことはあまり人の目に触れないようにしていた。こんなことなら公園なんかに連れて行かないで、部屋に閉じ込めておけば良かった。


「金もらって股開く女の方が私より大事ですか? 先輩にとって、女の人って性欲の捌け口でしかないんですか」


「そうじゃない」


「なにが違うっていうんです?」


 違う、全然違う。そんなつもりはなかった。でも実際そうなってしまっていることは自覚している。認めるわけにはいかないだけだった。


 僕は愛ちゃんに背を向けて、逃げた。走った。これ以上話したくなかった。僕という一個人が全否定される。愛ちゃんという小娘に、全てが明かされてしまう。僕の中にあるゴミみたいな思考が、他人に暴かれる。それが嫌だった。


 アパートまで全力疾走だった。玄関を開けて、靴箱に背を預けて座り込む。汗を拭きながら呼吸を整えていると、奥から美沙希がやってきた。


「……嶋くん?」


 壁を伝って美沙希は恐る恐る僕に近づいてくる。


 どうしたの。お仕事抜けて来ちゃったの。と僕に問いかける。それ以上は何も聞いてこなかった。ただゆっくりと僕の側でしゃがみこむと、両手で僕を抱きしめた。


「大丈夫だよ。大丈夫。嶋くんには私が付いてるから」


 そう言って美沙希は僕の頭を撫でた。ドクドクと、美沙希の心音が僕に伝わってくる。僕も美沙希の背中に両手をまわした。


 私が……ついてる?


 ふざけるな。僕の人生にお前が付いていたせいで。こんなことになってるんじゃないか。全部全部、美沙希、お前のせいだ。お前さえいなければ、僕の人生はもう少しまともだったはずなんだ。こんなに悲しくなくて、こんなに辛くなくて、もっともっと幸せだったに違いないんだ。


 殺してやる。ぶっ殺してやる。


 なあ、美沙希。知ってるか。お前の目の前にいるのは……。僕は……。


「嶋くん……大好きだよ」


 不意に美沙希が僕にキスをする。


 その時だった。壁に伸びていた影がスラリと動いた。見ると玄関の扉が靴を挟んでいて、きちんと閉まっていなかった。開いた扉の隙間には目があった。その目は僕と美沙希を一点に捉えていた。目があった瞬間、蝶番がギギギと音を立てて扉が開いた。


 気がつかなかった。走ることで精一杯で後ろなんて振り向きもしなかったからだ。付けられていたんだ。


 そこには愛ちゃんが立っていた。ゆっくりと何を言わずに玄関に足を踏み入れる。


「遠慮なさらず、続けてくださいよ、先輩」


 愛ちゃんは後ろ手で玄関の扉を閉めると鍵をかけた。


 僕は美沙希の手を取って部屋の奥まで逃げた。


「なんで逃げるんです?」


「なんで勝手に入ってきてんだよ!」


「だって開いてたじゃないですか」


 美沙希は困惑していた。が、目の前にいる女が誰なのかはわかっている様子だった。


「嶋くん、この子前に一回会った後輩の……ん」


 僕は咄嗟に美沙希の口を塞いだ。他の人の前で嶋くんはまずい。しかし既に遅かった。


「嶋くん?」


 愛ちゃんはきちんとそこに引っかかってきた。


「ふうん、そう。あーそういうことですか、なんとなく理解できた気がします」


 一人で勝手に納得した愛ちゃんは僕の胸ぐらを掴むとそのまま床に叩きつけた。そして僕の上に馬乗りになると僕の耳元でこう囁いた。


「嶋くんって人のフリをしてあの子を騙しているんですね?」


 勘の鋭い女だ。僕のことをきちんと理解していやがる。


 なんで、嘘をついているんですか。そこまでしてあの女が欲しかったんですか。


 耳元で質問責めにあうも答える必要はない。僕は愛ちゃんの右腕を掴んで僕の身体から降ろさせる。なかなか引き剥がせなくて力を入れると、愛ちゃんは冷蔵庫に背中を強打した。その衝撃で冷凍庫の扉が開いて、中に入ってたものは雪崩のように落っこちてくる。


 愛ちゃんは髪を掻きむしりながら苛立ち、叫びだした。その声はまるで悲鳴のようで、近所に聞かれたら誰かが来てもおかしくないくらいだった。


「静かにしろよ!」


「静かにしたらどうしてくれるんですか? あいつを捨てて、私と付き合ってでもくれるんですか?」


「……黙れ」


「黙ってほしいんですか? 私に? いやです。いやですよそんなのっ!」


 愛ちゃんの蹴りが僕の腹に入る。胃の中の物が全て逆流してきて、痛みで床にぶっ倒れた。


「ねぇ、聞いて、そこのメクラさん」


 愛ちゃんはゆっくりと立ち上がった。


 僕は腹の鈍い痛みで、視界がグラグラと揺らいでいた。


「耳は、耳は聞こえてるんでしょ」


 愛ちゃんはぬらりぬらりと美沙希に近づいて行く。やめろ、近づくな。


「あなたが嶋くんて言ってるあの人ね」


 愛ちゃんは僕を指差す。


「……あなたに嘘をついてるよ」


 ダメだ、それだけは。それは僕が、僕の口で、僕の意思で、僕自身で美沙希に言わなければ意味がなくなってしまう。こんなところでバレてたまるか。僕はまだ嶋でなければいけないんだ。もしここで美沙希に僕の正体がバレてしまったらまだ不十分だ。美沙希の心は殺せない。美沙希が嶋だと思って僕に言ったかつての後悔や想い、そしてこれから嶋だと勘違いして僕に対して感じる気持ち全てを否定してやるにはたかだか数ヶ月では足りなすぎる。僕が何年苦しんできたと思ってるんだ。こんなところで終わらせてたまるか。


 それに、だ。僕は今美沙希の心を殺すことだけを考えて生きているんだ。それが僕の生きる糧なんだ。だから今ここで美沙希を失っては、僕自身も消えて無くなってしまう。


 だから、ダメなんだ。僕の人生に今までいなかったぽっと出のガキに、僕の人生を潰させてたまるか。まだふりだしにも立てていないようなガキが、人の人生を土足で踏み込んでくるな。

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