3、あがりが見えない(7)
愛ちゃんを止めなければ。僕はゆっくりと立ち上がる。しかし視界の歪みが治らない。一歩進んだ所でよろけ、台所に身体をぶつけ再び床に倒れこんだ。
その時だった。僕の目の前に一枚のまな板と、さいの目に切り分けられた豆腐がボタボタと音を立てながら降ってきた。きっとまた美沙希が、僕がいない間に隠れて味噌汁を作ろうとしていたのだろう。一人ではやるなとあれだけ釘を刺したのにしょうがないやつだ。そしてその後に続くかのように、僕の目の前には豆腐を切るために使っていたであろう包丁が落下してきた。
気づくと僕はその包丁を握りしめていた。得体の知れない力が入ってくる感覚があった。僕だけでは足りない何かを、この包丁が全て補ってくれているみたいな、そんな気がした。
そこからはまるで早送りの映像を見せつけられているみたいに、視界が目まぐるしいスピードで移ろいでいった。
僕は愛ちゃんの口を左手で抑え込むと、持っていた包丁を彼女の胸元に突き立てた。愛ちゃんをそのまま床に投げ捨てて、刺さった包丁を抜くと、次は彼女の首を刺した。愛ちゃんは叫び声すらあげられずに、僕の目の前で己の体から流れる血を両手でかき集めるように暴れまわると大して時間もかかることなく、絶命した。
部屋中が血で溢れていた。愛ちゃんが部屋に侵入してきてから、愛ちゃんが死ぬまでに経過した時間は五分となかったであろう。たった五分。五分で終わらせた。僕が今まで抱えてきた悩み苦しみを考えたら、五分で解決できることなんて大したことではなかった。
「嶋くん……?」
静まり返った部屋で美沙希は僕の存在を確認する。
「どうした?」
僕は美沙希に返答する。
「後輩の子が……嶋くんが何か嘘をついてるって」
「ついてないよ、何も」
「そっか……後輩ちゃんは……」
「帰ったよ」
「でもさっきまで」
「帰った」
僕でもわかるくらい部屋中には血の臭いが充満していた。美沙希だってきっと気づいたに違いない。しかし美沙希はこくりと頷くと、ただただ立ち尽くす僕を抱きしめてこう言ったのだ。
「大丈夫。大丈夫だよ、嶋くん」
その瞬間、僕の中の張り詰めていた糸がプツンと音を立てて切れた。十五歳の少女を殺害したという事実が、津波のように後から押し寄せてくる。一瞬に思えた一つ一つの言動が今になってフラッシュバックする。
愛ちゃんに後ろから組み付いて、胸を刺した時の感触。愛ちゃんの口を全力で塞いで、床に倒して、このままでは声を出されると判断した僕はすぐに胸に刺さった包丁を抜き取って首を刺した。その感触。愛ちゃんは必死に抵抗していた。大量の血を流していて、誰が見ても愛ちゃんの末路は死以外に考えられない状態だった。それはきっと刺された本人ですら感じていたに違いない。死は確実、それでも愛ちゃんは両手足を使って僕から逃れようとしていた。これ以上刺されないようにしていた。最期には自分から出たものをかき集めようとしていた。僕はそれを見ていた。全部が鮮明に脳内に映し出される。現実味のない映像が頭の中で流れてくる。しかしどれも現実で、自分が犯したことだった。
「大丈夫、大丈夫だよ。言ったでしょ、嶋くんには私がついてるんだから」
美沙希はそう言って僕の頭を撫でる。
「私は何があっても嶋くんの味方だよ」
いつだってふりだしに戻れるはずだった。もう戻らないと決めていただけで、言ってしまえばそんなのはただの自分ルールでしかなかった。今まで歩んできた道をなかったことにして、高校の時のあの気持ちに戻ってまた生温い生活に戻る。僕の匙加減でどうにでもなった。一度は戻った。でもそうしたことを後悔した。
今までのことをなかったことになんてできなくて、結局は全てを背負わなければいけないことに気づいて、そして美沙希を嫌いになった。でも今はまた戻りたい。ふりだしに戻りたい。しかし今まで歩いてきた道を振り返っても退路は断たれていた。戻ることは許されていなかった。どれだけ駄々をこねても、前に進む以外に残されていない。
前しかない。それなのにゴールが見えない。暗闇だ。
なんでこんなことになった。
どうして僕だけがこんな目にあわなければならないんだ。
僕のせいじゃない。
こんなの間違ってる。
僕は悪くない。
じゃあ悪いのは誰だ。
僕の人生をめちゃくちゃにしたのは
誰だ。
一人しかいない。
ずっとそうだ。
僕の心を乱して
僕の生活を乱して
平気な顔している。
ふざけんな。
ふざけんなよ。
そんなに僕を不幸にしたいのか。
なあ
美沙希。
どうなんだ。
どうなんだよ。
外はもう日が暮れていてそろそろ夜を迎えようとしていた。薄暗い部屋の中。僕は抱きついている美沙希を引っぺがして、床に押し倒した。床に広がる愛ちゃんの血液が美沙希の背中を真っ赤に染めていく。
愛ちゃんの血の海の中で、僕は美沙希とキスをする。服を脱いで、美沙希のも脱がして、いつも通りおっぱじめる。瞼が開いたままの愛ちゃんがこっちを見ている。僕と美沙希が愛ちゃんの血に塗れながら、お互いの体を真っ赤に染めながら、気持ちよくなっているのを死んだ愛ちゃんが見守っている。
美沙希は上手い。これを仕事にしていただけある。愛ちゃんは下手くそだった。若さと、その若さ故の肌の質感だけが取り柄だった。是非とも美沙希の技術を真似てもらいたいものだ。だから……そこで見ていろ。地獄で僕と会った時のために、男を気持ちよくさせるための勉強をしておけ。
……こうして、狂ったふりでもしていないとやっていられなかった。
事をし終えて、僕は裸のまま愛ちゃんの死体をキャリーバッグの中に詰め込んだ。
「シャワー浴びたら少し出かけよう」
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