2、ふりだしに戻ったら(8)

 こちらです、と細い廊下を進むよう案内された。中にまで入るのは久しぶりだった。何度も突き当たりを曲がりくねるえらく長い廊下の、ようやく末端にある部屋に辿り着く。


 僕は珍しく期待してしまっていた。自分自身にも、そしてこの扉の向こうにいる目の見えない女の子にも。どんな形でも新しい出会いが、きっと僕を救ってくれるはずだ。ボーイから注意事項の説明を聞き終えた僕は、ドアノブに手をかけた。鉄でできたドアノブはまるで氷のように冷たく、回して中に入ることを拒まれているような気がした。嫌に軋む蝶番の音が廊下に響き渡ると、部屋の中で一人静かに両手の先と頭を床につけた女の姿を見た。僕は後ろ手で扉を閉めると、その直後女は頭を下げたままでこう言った。


「美野里と申します」


 みのり。彼女はそう名乗った。肺の活動が一瞬停止して、咳き込む。嫌な予感が過ぎる。


 以前ここで実紀が名乗っていた源氏名は実咲で、今僕の前で頭を下げている女性は美野里を名乗っている。ずっと見つからなかった共通点をここで見つけてしまったような気がしてしまう。


 そういえば実紀は一体どこで美沙希と知り合った? 美沙希と一番よく話すのは実紀自身だと豪語していたが、一体実紀は美沙希といつ話していたのだ? 何故漢字は違えど友人の本名である実咲を名乗っていたのだ? 実紀が僕の前から姿を消したあの日、実紀が言っていたあの言葉を思い出す。


「そんな美沙希も、今では自分自身も見えなくなっちゃったんだけど」


 あれが美沙希の内面を比喩したものでなかったとしたら、全てのパーツが出来の良いパズルみたいに綺麗にハマって完成に至ってしまう。


 嘘だ。


 そんなのダメだ。


 僕はもう、ふりだしには戻れない。


 今まで経験してきた全てを無かったことになんてできやしない。


 もしそれができるのだとしたら、それはまた僕がひとりぼっちになることを意味するのだ。そんなこともう受け入れられない。


 目の前の嬢がゆっくりと顔を上げた。頭には目にかかるように包帯が巻かれていた。


「こんな姿で申し訳ありません」


 嬢はそう謝罪する。目が確認できなくたって鼻と口と顔の輪郭、そしてその声が僕に確信させる。


 僕の目前で膝をつくこの風俗嬢が、かつては僕の好きな女の子であった美沙希であるということを。


「あれ、どうかしましたか?」


 美沙希だ。


「お兄さん? そこにいるんだよね?」


 美沙希だ。


「ねぇ、お兄さんったら。緊張してるの?」


 美沙希だ。


 膝をついたまま手探りで僕の足を見つけた美沙希は、にっこり笑うと僕の身体を下から上にペタペタと触りながら立ち上がる。その両手が僕の胸あたりまで移動してくると、美沙希は僕の心臓にそっと耳を寄せた。


「すっごいドクドク言ってるね、大丈夫だよ。緊張してるのは私も一生だから」


 美沙希は僕の右手を握るとそれを自分の胸にあてがった。


「ね? 私もドクドクしてるでしょ?」


 僕の右手は今、美沙希の胸の上にいる。が、正直わからなかった。確かに動いてはいるが緊張している人間の鼓動はもう少し高鳴っているはずで、美沙希が緊張していないのは明白だった。


 目が見えなくなって、自分の前にどんな男が立っているかもわからないのに、美沙希は動じもしないのだ。僕なら無理だ。視力を失うこと自体が恐怖だが、それでいてなおこの仕事を続けようという精神が理解できない。いや、美沙希が僕の理解できない領域まで行ってしまっていたのは、今に始まったことじゃないのだが。


 疑問点はたくさんあった。視力を失った理由や、ここで働いている理由、地声とは違うその猫撫で声はどこから出しているのかとか。全て聞いていたらきっとキリがないくらいだ。


「お兄さん、お店に来るの初めてじゃないんだよね?」


 じゃあシステムも全部知っているでしょう?と、美沙希は僕のベルトに手をかけて、バックルを外した。ジッパーを下げられて、下着越しに触れられる。美沙希は器用に左手を動かしながら、ゆっくりと立ち上がると僕の唇に自分の唇を重ねた。


 高二の時、美沙希と平沼先輩がクリスマスに駅でキスをしていたことを思い出した。あの時、あれを目撃してしまった僕は美沙希のことが見られなくなった。美沙希が何を考えているのかわからなくて、ただ、平沼先輩のことを好いていることだけはわかってしまって、僕は美沙希を嫌いになりたかった。忘れたかった。だから見ないことにしたんだ。


 でも今ではそんな美沙希の方が僕のことを見ることができない。


 今自分が舌をぶち込んでいる相手が、過去に自分のことを好いていた男であることもわからずに、美沙希は僕の口腔をこれでもかと舐め回しているのだ。


 なんて滑稽なのだろう。


 まだ美沙希に告白すらしていないで片思いをしていた頃の僕が、この光景を見たらどう思うだろうか。思春期の高校生らしく喜んで、そして興奮するのだろう。好きな女の子と自分が、舌を絡め合っているのだ。その女の子の左手は自分の下半身を弄っているのだ。この距離なら自分の両手を美沙希の背中に回して抱き寄せることだってできるのだ。


 でもあの時の僕は今の僕を知らない。美沙希のことを嫌いなれた僕のことを知らない。


 告白をする前の僕は、告白をした後の僕より明らかに幸せだ。


 あの日勇気を出して一歩踏み出した僕は、まさかこんなにも痛い目に合うだなんて想像もしていなかったはずだ。美沙希との関係は誰が見ても良好で、告白をする前から付き合っている噂が流れることだってあったんだ。それなのに。


「お兄さん、ベッド行こ」


 美沙希は僕の手を引いて、僕をベッドに座らせる。


「じゃあ仰向けに寝てくれる?」


 美沙希は服を脱いで、僕の上に乗かった。


「お兄さんも触っていいんだよ?」


 ずっとずっと、好きだった。


「二回戦目はお兄さんの番だからね?」


 好きだから、嫌いになりたかった。


「今回は私が頑張るから」


 嫌いになれないと辛かった。


「それじゃあ挿れるよ?」


 僕は今……本当に心から美沙希のことを嫌いだと思えているだろうか?


 こうして僕の人生でもあった美沙希と、性的に交わえることを少しでも喜ばしく思ってしまっていないか?

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