2、ふりだしに戻ったら(7)
僕には何もなくなってしまった。今度こそ本当に何もなくなった。職場や住所があったところで何も満たされやしない。僕は独りだ。ずっとこの先も独りだ。僕が今ここで首を吊って死んだとしても、きっと発見されるのはだいぶ先のことになることだろう。
僕の死体を見て泣いてくれる人はいるだろうか。そもそも僕という人物を知っている人間が一体何人いるのだろうか。僕の名前を聞いて、顔まで思い出してくれる人がどれだけいるだろうか。きっといない。ほとんどいない。まるで宇宙に投げ捨てられたみたいだった。真っ暗闇の中を一人浮遊して、呼吸もできやしない。
心臓が鼓動していて、こうして脳が思考している。こんな当たり前のことすらも無駄なものに思える。気づくと涙が出ていた。こんな生理現象にも意味はないのだ。僕の流した涙は、自分自身で拭うしかない。
こんな時僕に手を差し伸べてくれた人が過去に一人だけいた。今までずっと思い出すこともしようとせず、あえて避けてきた。その人は僕に優しすぎた。僕はずっとその人に甘えて過ごしてきた。その人を利用することで美沙希忘れようとしていた。彼女という存在は僕に罪悪感を湧き起こす。だから思い出さないようにしていた。どんなに辛い時も、彼女は笑って僕を慰めてくれた。そんな彼女を性処理の道具として見ていた時期があるなんて、こうして独りになった今思い出すと自分の喉元にナイフを突きつけてやりたくなる。
そうして僕は大学の時に付き合っていた詩穂の顔を思い出す。今では鮮明に詩穂の顔を思い出すことができる。詩穂は今……どうしているのだろう。ふとそう思った。
いや、きっと僕は心のどこかでまた彼女が僕に手を差し伸べてくれることを祈っていたのだと思う。またしても詩穂にすがろうとしていたのだ。独りになりたくなくて。誰かに僕の存在を知って欲しくて。そうなるともう詩穂しかいなかった。まるで最終手段のように詩穂を利用しようとしている自分に腹が立つ。僕はこんなクズなんです。どうしようもありません。手の施しようもないゴミ同然の人間なのです。そんな人間ですが、良ければ僕を助けてください。
そんな風に考えながら、僕は友人リスト0人になったSNSアプリを起動した。これで詩穂を探そう。
詩穂の顔が見たい。
詩穂と会いたい。
詩穂のことを知りたい。
しかしどれだけ名前を検索しても一致しない。そもそもこのSNSをやっているのかもわからない。それでも根気強く探した。過去に呼ばれていたあだ名なんかを記憶から絞り出して検索をかける。一致なしだ。
諦めたくない。どうしても詩穂を見つけなければいけないんだ。調べているうちにスマホの連絡先に登録している人ならば、電話番号で検索することができることを知った。僕のスマホにはかろうじて詩穂の電話番号が残っていた。番号を入力すると、一件の一致があった。詩穂の顔が写ったアイコンが、画面上に現れる。ようやく見つけた。見つけられた。
僕はかぶりつくように詩穂のページに飛んだ。
ちょうど今日、詩穂は自分のページを更新していて、文章と共に写真をあげていた。そこには百を超えるコメントが残されていて、詩穂はその一件一件にきちんと返信をしているようだった。ちなみにそこに書かれていた文章はこれだ。
『本日、昨年からお付き合いをしていた彼と籍を入れました』
それ以降にも何かが長々と書かれていたようだったが読むに至らなかった。名前を検索しても出てこないのも当然のことだった。詩穂は苗字が変わってしまっていたのだから。
旦那と幸せそうに笑う詩穂の写真を見て、僕は胃から込み上げてくるものを感じて、台所で全て吐き出した。
受け入れられない。飲み込めない。辛い。キツい。苦しい。ネガティブな感情だけが僕の中で渦巻いていて、ぐらぐらと脳が揺れていた。真っ直ぐ歩けているだろうか。身体は思う通りに動いているだろうか。見ているもの聞いているものは全て本物だろうか。もう何もかもがわからない。
その日から僕は実咲がいた風俗店に毎日足を運んだ。ホストにお金を貢いだところで「やっぱりこれじゃ足りない」と金額を積み上げられて実咲はまたここに戻ってくるんじゃないか、なんて思ったからだ。実際一度辞めても何か理由があって戻ってくる人も少なくないと聞く。
「実咲さんはいますか?」
ボーイにそう尋ねると
「だからお客様、実咲さんならもういませんって」
毎日のことだからボーイもうんざりとした様子だった。
ある日のことだった。毎日来る僕に、ボーイはこう提案してきたのだ。「うちには実咲さん以外にも良い子はたくさんいます。実咲さん以上に良い子だっていますよ」
実咲じゃなきゃ意味はないと思った。でももしそれをきっかけにまた僕が救われるなら、一度くらい他の嬢に会ってみるのも良いかもしれないと思った。
「今すぐとなると……一人だけ案内可能ですがどうしますか?」
誰でも構わない。せっかくならすぐに誰かと会いたかった。ボーイ曰くこれから案内する子は少しワケありらしく、失明してしまっているため目には包帯が巻かれているとのことだった。別に問題はない。目が見えていようといないと、人の温もりさえあれば関係ない。それが理由で他の女の子よりも少し割引されているのが、僕にとってはむしろありがたいくらいだった。
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