2、ふりだしに戻ったら(6)

 言ってしまった。つい口にしてしまった。今までずっと美沙希のことを話していたのに、流れなんて関係なかった。とにかく伝えたかった。そうしないと始まらない。そうしたところで始まらないことがあることも僕はよく知っているが、それを怖がっていたらきっとまた後悔する。


「僕は実紀のことが好きだから」


 心臓が普段の何倍もの早さで脈を打つ。実紀の顔を見られない。部屋の中は静まり返り、まるで時間が止まったみたいだった。実紀はゆっくりと、そして小さく頷いた。


「ありがとう。そうなんじゃないかって思ってた」

実紀は笑っていた。


 その笑顔を、僕は知っている。別の場所で見たことがある。実紀のその笑い方は、その表情は、その目は、その口は。


 実紀が店にいる時の顔だ。実紀の顔じゃない。実咲の顔だ。僕は自分の気持ちを実紀に伝えたはずだ。なのに僕の前にいたはずの実紀はいつのまにか実咲に変わっていた。


「性交渉と恋愛は混同しやすいから」


 いや、違う。


「たまにいるんだ、お客さんで勘違いしちゃう人」


 違う。


「でもあなたはお客さんの中でも特別で、優しいから私はそれに甘えてた」


 違う。


「あなたのその気持ちは、本物じゃない」


 違う。


「偽物」


 違う。


「気の迷いでしかない」


 違う。


「私ね、迷子のあなたを利用してた」


 違う。


「アルバイトを始めたのも」


 違う。


「アパートを借りたのも」


 違う。


「あなたの意思だった?」


 ……違う。


「私がそれとなく唆していたのを、無意識に感じていたからじゃない?」


 違う。


「私はお金を集めなきゃいけないから。僅かでも残しておきたいから。ただ困った時に泊めてくれる人が欲しかった」


 違う。


「でもね、もうそれも終わりなんだ」


 違う。違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。


 違う、何もかも違う。



「今日はね、今までのことを全部清算して……さよならを言いに来たの」



 僕はこんなこと望んでいない。


 ただ気持ちを伝えたかっただけなのに。偽物なんかじゃない。本物だったのに。この気持ちが嘘だと言うのなら、僕はもう本物がわからない。


 風俗嬢に恋をすることが全部気の迷いだと言うのか。そんなわけない。僕は実紀が風俗嬢でなかったとしても、実紀のことを好きになっていたに違いない。関係ないのだ。好きになった女の子がたまたまそういう仕事をしていただけなのだ。


 一千五百万円。それが実咲に必要な額らしく聞くとそのお金で、とあるホストを買うらしい。実咲は一人の歌舞伎町ホストにご執心で、二年前に玉砕覚悟でお付き合いを申し出たところ、その男はこの金額を提示してきたと言うのだ。実咲はその男の収入を考えると一千五百万という金額は彼にとって端金に過ぎないと言う。そんな端金なんかで付き合ってくれるなんて私は好かれている。他の女とは違う、と。もう既に彼女気取りで楽しそうに話すのだ。


 もうすぐ実咲の貯金はその目標額に到達する。実咲はもう風俗嬢である必要がなくなるのだ。だからつまり実咲が僕に言いたいのは、客と嬢という関係がなくなった以上、もう会うこともない。そう言いたいのだろう。


 僕は思った。なんて滑稽なのだろうと。


 実咲だって僕と一緒じゃないか。本物とは程遠い恋にうつつを抜かして、迷子になっているのは一体どっちだ。迷子なのは実咲の方なんじゃないか。その金を払ったところで本当にその恋は実るのか。実ったところで、金で買ったその気持ちを本物だと言い切れるのか。


 そんなんで……いいのかよ。そのホストが欲しいのは金であって……実紀じゃないんじゃないのか。そんなやつよりも僕は実紀にとって下の存在なのか。なんでだよ。そんなのおかしいじゃんか。


 どうあがいても不幸という結末しか迎えないような気がして、僕は実紀に言った。


 やめておけ。そんなことしても意味はない。冷静になれ。


 でもそれを言っても実紀は聞かなかった。僕が実紀のことを思って言ったことも、全部実紀にとっては暴言のように聞こえるらしい。実紀はあからさまに不機嫌になって、ボソリとこう呟いた。


「七十二万」


 その数字の意味はこうだった。


「あなたが私とヤる為だけにお店に払った金額」


 何が言いたいんだよ。だからなんだ。


「性風俗なんかにハマってた人に私の純粋な気持ちを否定されたくない」。


 無理だった。実紀の気持ちは変えられない。僕なんかじゃどうにもならない。実紀にとって僕は今でも客でしかなくて、ホストに支払う金を運んでくる人間でしかなかった。こんな立場で、何を言ったところで実紀が僕の話に耳を傾けるわけもなかった。


 実紀は荷物を持って部屋を出て行こうとする。


「おい、実紀!」


 僕には何もできることなんてないのに、呼び止めようとした。足掻こうとした。今実紀を行かせてしまったら本当に最後になってしまう。しかし実紀はこちらを振り返ることもなく、背を向けたままこう言って僕のアパートを去って行ったのだ。


「ちなみに私の本名……実紀でもないよ」


 その日、SNSで実紀のアカウントを確認すると友人リストには男性しかいないことに気がついた。年齢もバラバラで共通点が一切ない。つまりこのアカウントは風俗嬢実咲が実紀のという架空の人物に成りすまして、客にプライベートを明かすフリをする為に作られたものだったのだ。僕は実紀のことを何も知らないままだった。その日のうちに実紀のアカウントは消されて、そして実咲の在籍していた風俗のサイトからも実咲の名前はなくなっていた。

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