2、ふりだしに戻ったら(5)
そしてその日は訪れた。私服の実咲を見るのはあの日漫画喫茶で出会った時以来だった。お互いビールが得意ではなく、二人揃ってレモンサワーを頼んだ。そういうなんてこともない共通点が、なんとなく嬉しかった。
「君は何かSNSとかやってないの?」
実咲がそう聞いてきた。実咲はお店にいない時は漫画喫茶にいることも多いため、スマホがなくてもパソコンからSNS上で連絡を取ることができるとのことだった。実咲からプライベートに一歩踏み入れることを許された。しかし友人もいない僕がSNSなんて人と繋がる為のツールを利用しているわけもなかった。
でもやっていないなら始めれば良い。実咲と繋がっているためだけに使えば良いことだ。彼女のIDを教えてもらって、そして僕はその場ですぐ同じアプリをダウンロードすると、すぐにアカウントを作成した。僕の友人リストには実咲だけがいる。実名は実咲ではなく実紀だった。
「これからは実咲じゃなくて「みのり」って呼んでもいいかな?」
本当の名前を知ってしまった以上、源氏名で呼び続けるのもおかしな話だ。それに個人的に本名の方で呼びたかった。実紀は外で会う時は本名で、お店で会う時は源氏名で呼ぶことを僕に提案する。僕はそれを快諾した。
それからというもの僕は毎日のように実紀にメッセージを送った。彼女が仕事をしておらず、なおかつ漫画喫茶にいる時しか返信は来なかったがそれでも満足だった。
ある日実紀からこんなメッセージが送られてきた。「最近お店の方には来ないね」と。たしかに実紀とこうして連絡を取るようになってから、僕は一度も実紀のいるお店には行っていない。ただ飲みに行ったり、時には出かけたり、二人でいることは格段に増えた。だからわざわざお店に行く必要がないように感じていたからだった。
そうして気づけば実紀と出会ってから一年という月日が経過していた。僕はようやく面接の通ったコンビニのアルバイトで生計を立てて、そして小さなボロアパートを住処にして生活していた。実紀が遊びに来ることも稀にあったが、セックスはしなかった。そういえば一年以上前にお店でしてからというもの、一度も実紀とはしていない。いや、実紀だけじゃない。誰ともそんなことはしていなかった。
「また今日も泊まらせてくれる?」
実紀からそんな連絡がくると僕はそれに対して首を縦に振る。夜中に遊びにきた実紀とちょっとだけ話をして、十五分もすれば実紀は就寝する。実紀は疲れているのか寝ている間にしかめ面で寝言を言うことが多かった。何を言っているのかわからなかったが、お金のことを呟いていることだけはなんとなく聞き取れた。
もしお金に関して悩みがあるのだとしたら風俗で働いているのも理にかなっている。そしてそれが解決さえすれば、実紀は風俗とは無縁の女の子に戻ることができるのではないか。アルバイトの僕に金銭的な支えができるはずはないのだが、ただ聞いておきたかった。実紀のプライベートにまた一歩近づきたかった。
ある日、実紀はまた僕の家に泊まりにきた。次来たときには聞こうと思っていたから、今日がその日だと思った。しかしそんな時に限って実紀はよく喋る。普段は来てちょっと話したらすぐに寝てしまうのに、その日は珍しく一時間以上実紀が話し続けていた。そして話し終えたかと思うと話題は急ハンドルを切るように変わり、実紀はこう言ったのだ。
「次会うときに聞こうって思ってたんだけどね」と。
「ずっと気になってて。あの飲み会の時、大声で美沙希を探してたでしょ?」
見た限り酔っている様子もない僕が、急に大声で美沙希と叫んだことがどうにも気がかりだったと言う。こうして一緒にいる機会も増えて、僕を知ったところで僕と美沙希の共通点は一向に見つからない。だとすると僕と美沙希の関係は一体どういうものなのだろうと。
それは僕の方こそ思っていた。実紀と美沙希の共通点は一つとしてなく、果たして本当に仲が良いのか今でも疑問だ。
あの時の僕は少しおかしかったかもしれない。あんな場所に呼ばれて苛立っていたとはいえ、美沙希と話すことに躍起になりすぎていた。そんな瞬間を目撃させておいて、それなのに美沙希との関係を一切匂わせない僕を変に思うのは当たり前のことだろう。
僕は実紀の質問に全て答えた。別に隠すことは何もなかったから、答えるのは容易だった。受験を理由に断られたのに平沼先輩と付き合い始めた美沙希のことがずっと忘れられなかったこと。ずっと美沙希のことを信じて嫌いになれなかったこと。美沙希を忘れる為の行いの数々。就活で平沼先輩と会話したこと。気づくと僕は美沙希の話ではなく、これまで生きてきた僕の人生を実紀に語っていた。美沙希のことを話そうとすると、僕の話になってしまう。
そうして今日という日までの人生を僕は語り尽くした。全部美沙希だった。全てが美沙希で繋がっていた。実紀と出会ったことだってそうだ。美沙希がいたから実紀と会って、こうして今も一緒にいるのだ。僕の人生ってなんなんだろう。今ではもう嫌いでたまらない美沙希が嫌でも付いてくる。ふざけるな。もう僕に関わるな。
実紀は長い僕の話に一切の茶々を入れることなく、ただ頷いて聞いてくれた。実紀はこういうやつなのだ。なんだって受け入れてくれる。そういうところが心地が良かった。
「美沙希らしいね」実紀はそう一言述べた後「美沙希は本当……昔も今と何も変わってないんだね」と続けた。僕から見れば美沙希は大きく変わってしまったように感じたが、実紀からはそう見えないようだ。
実紀は言うのだ。美沙希は自分のことしか見えてない人間なんだと思ってた。でも実は他人の目ばかり気にしている人間なんだ、と。そこが昔も今も変わっていない、と。
「でもそんな美沙希も、今では自分自身も見えなくなっちゃったんだけど」。
実紀から美沙希の話を聞いて理解することで、自分の過去を清算したいと思ったことも以前はあった。でも今はもう美沙希のことなんてどうだって良かった。実紀から聞かれなければ、美沙希のことなんて話題にすらしなかったかもしれない。何故なら僕は目の前にいる実紀のことを好きになっていたからだ。
僕は実紀に恋をしていた。
美沙希以外の人間を好きになる日が訪れるなんて夢にも思わなかった。美沙希のことが大好きで、それ以外は目にも入らなくて、そうやってずっと生きてきたからだ。一途な僕は一生美沙希のことを悔やんで生きていくのだろうと諦めていた時期すらあった。
しかし過ごしてきた時間と、そして僕が経験してきた出来事を、なかったことにはできない。どれだけふりだしに戻ったとしても僕が背負ったこの数年間は嘘じゃない。どれだけ無視をしても、事実僕の中で存在しているのだ。それらが全部繋がって、今僕は実紀を好きでいる。
「僕は……これからも実紀と一緒にいたい」
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