老兵モルトの幼な妻に対するクリプトの悶絶
モルトの退職日。知らせを聞いたクリプトはばったばたとベッドを飛び起きて着替えて準備して部屋を飛び出した。
「船旅なんて聞いてないですよっ! もうっ!」
通りから港は遠い。
しかも朝一番の船らしい。
森を抜けて山間部へと繋がるいつもの第三東門からは全然別方向で、街を南西に下ったところにある港まで、ここから徒歩ではとても間に合わない。
しかも石畳の坂道を駆け足で降りるクリプトは、いつも通りに足が運べないのだ。
ズボンのポケットに例の宝石袋が、まだ報告できずに入ったままだからだ。
人生がひっくり返るほどの大金をポケットに持ち歩くなんて馬鹿げてるが、これをがたがたのぼろアパートに置いて出かけるのはもっと馬鹿げてる。
きっと気になってなに一つ、手につかない。
だから身につけているのだ。
万一にでも落とさないよう、そのポケットに片手を突っ込んで走るものだから速度が全然出ないのだ。
やっと通りに出た時はもうすでに息が上がっていて、結構な時間が経っている。
今さら駆けつけても船が出るぎりっぎりの時間に間に合うかどうかだ。
数瞬迷って、手を上げて馬車を止めた。
道が混んでいる。それはそうだ。朝方なのだ。
数台の馬車と行き交う仕事の人々で、ろくに飛ばせるわけでもない。
はあと息を吐いたクリプトは、運を天に任せることにした。
かたんかたんと揺れる車輪に身を任せながら、クリプトが空を仰ぐ。
今日はいい天気だ。思い起こせばちょっとした冒険だった。
奇妙な流行り病に罹った恐れのある医師を牢に入れて。
恐るおそる飯を作って出して。
尾行して。家を張って。そんなことも初めてだった。
聞き込みも初めての経験だ。
お店の皆さんは元気だろうか。
「モルトがいなくなったら、今度は坊やが常連さんかしら」とか。
なんとか頑張ります。期待しないでください。と。
そうだ。そして。
目を横にやると、やっぱり同じ鉄のコップがかかっていた。
かぽかぽと馬が小走りになったので。クリプトが御者に声をかける。
「あのさ」「へい?」
「この鉄カップって、みんな馬車には付いてるの?」
「ああ。それね。御者の御用達なんですよ」「へえ」
「割れないからね。便利だし安いしね」
どんぴしゃりじゃないか。モルトさん、すごいなあ。
思わず笑みがこぼれる。
あれ、そういえばなんであの時、馬車に乗ったんだっけ?
ああ。
そうだ。今日と違って天気が悪くて。雨が降りそうだったから。曇り空で——
「あれ?」
なんだこの違和感?
あの時、なにか、あったっけ?
ええっと。馬車を止めて。いやその前だ。
天気を、空を見て、いや違う。見たのは空じゃない。
なんだっけ。ああ。おばさんだ。確か洗濯物を干してて。
——歌でも歌ってんのか?……ああ、雨か——
クリプトが違和感に気づく。
いや。だって洗濯物でしょ? 曇りでしょ?
また御者に声をかけた。
「あのさ」「へいへい」
振り向いた御者が、妙な顔をする。
客の青年が両手を広げて上げているからだ。
思わず空を見て。御者も片手を掲げて。
「いい天気ですぜ。今日は雨なんか降りませんや旦那」
「だよね?」「ええ」
「歌ってるように見える?」
「は?」
「俺、歌ってるように見える?」
両手を掲げたままふんふんと振る。御者が笑った。
「あっはは。まあ言われてみりゃそうかなあ。なんですかそりゃ。舞台の上ならそうかもしれませんねえ、朝っぱらから面白え旦那だ」
冷や汗が湧く。
舞台。
劇場裏の飲屋街。
雨ではなく「歌ってんのか?」が先に出るモルト。
クリプトの背中が汗で濡れる。ぶわあっと。
——奥さん、まだ夢見がちかしらあ?——
え? じゃあ奥さんの職業って……?
「あのさ」
「へいへい、なんでしょ」
「こないだ。あったじゃん、御者さんの身代わり殺人」
スラムのバラック。
「ああぁ。デッカーはかわいそうなこと、したなあ」
「知ってるの?」
「へえ。まあ有名人になっちまったからねえ」
ボロボロの服。異様に汚れた髪。
「……家族って、その、大丈夫なのかな」
「ああ。不幸中の幸いだねえ」
あの崩れて泣いた女の人が。
「あいつ独り身だしねえ」
殺された御者の遺族とは、モルトはひとことも言ってない。
「……や、ら、れ、たっ。」
「へい?」
——ほんっと。生きづらそうだなお前。頑張れよ——
うわあああやられたああなんだよそれええモルトさあああんと、いきなり頭を抱えて悶絶する若者をぽかんと見る御者が困惑する。
がばっと。クリプトが前を見て。
「いい話だと思った自分が馬鹿みたいじゃないかッ!」
「旦那、行くんですかいっ? 行かねえんですかい?」
「行くよっ。行ってくれよっ」
もう出港してようがしてまいが関係ない。
船に向かって。なんて叫んでやろうか。
——・——
いい天気でよかった。ウミネコがぎゃあぎゃあ鳴いている。
今頃クリプトは何をしているだろうか?
そろそろ気が付いてるだろうか?
少し笑いながら遠ざかる陸地を目で追うモルトの背中に、ぶわあっと柔らかい重みが飛び込んできて。
「やあっ」「うおっ。あぶねえな」
「えっへへ。どうだったアタシ?」
老兵の肩に手を回すのは、まだ歳も若いかわいい女性だ。
長い黒髪が潮風に揺れる。ぎゅうっと背中にしがみつくのにモルトが笑って。
「いいんじゃないか、でも少し大げさだ」
「なんでえ。遠くの客には大げさにしないとわからないのっ。演劇の基本じゃないそんなのっ」
「そんなもんか」「そーだよ」
海に目をやって頷くモルトの首につかまって。
「ね、次の街にも劇場あるかな? アタシ今度こそ頑張るからね。有名になって食べさせてあげるから」
「そうか」「ホントだってばあ」
そして少し、悪い顔をする。
「しばらくは食いっぱぐれも、なさそうだしねー」
頰をぽりぽりと掻いて。
少しは大人になれよと。
そう言おうとして、モルトはやめた。
いい天気だし。せっかくの船出だし。それに。
人生なんて、何があるか、わからないからだ。
——老兵モルトの退職 了——
老兵モルトの退職〜医者が仕掛けた不完全犯罪〜 遊眞 @hiyokomura
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