「わたげの記憶」

《1》


 あちこちを駆け回る園児達を見守りながら、わたげが空高く飛んでいく。

 ふうっという一息で、あっという間に広がっていったわたげは、あの子との思い出を浄化させていくようで。

 涙がにじんだ。ゆがんだ視界でも、白いふわふわは天使のように飛び交っている。

 楠木まゆみは、ため息をついて、もう一度わたげを舞い上がらせる。息が枯れるくらい、ふうふう息を吹きかけると、わたげは寂しそうに、はげた頭をしていた。



《2》


 たんぽぽ組、ばら組、さくら組、チューリップ組。

 この幼稚園では、年少さんから年長さんまで、植物の名前がつけられている。

 まゆみは、この組の中に入っていなかった。いや、実際には入っていたのだが、みんなからはこう呼ばれていたのだ。

 くすのきさんは、わたげ組。

 誰がこう呼び出したのかはわからない。

 寝癖がポワポワしてる髪の毛を揺らし、呟く声は、わたあめのように甘く、軽い。

 誰と話したのかすぐ忘れてしまうし、おもちゃのように手を引かれていろんな子に連れて行かれる。

 まゆみはみんなに飽きられていた。一人で積み木を組み立てて、お家を作る。

「わたげちゃん!」

 ガチャ、と音を立て、作り立てのお家は崩れてしまった。わたげちゃん、そのような名前で呼ばれるのは初めてだ。かけてくる女の子は、くるくるうねった髪の毛を揺らしながら、凛とした表情をしている。

 ほしのみつき、と書かれた真っ黒な名札は、バラ組の証だった。

「わたげちゃん、みつきのことはバラって呼んでくれない?」

 みつきは名札を小さな手で隠して、引きつった笑顔でこちらを見る。

「バラ?」

「みつきって名前は、みつきには似合わないの。似合うようになったら、その時は、わたげちゃんもみつきって呼んでいいから」

 みつきは小さく笑うと、まゆみの隣にちょこんと座った。みつきの声は、べっこう飴のように、艶やかで、甘ったるい。

「バラ……ちゃん、よろしくね」

 まゆみが隣を見ると、みつきは先ほど崩れてしまった積み木を組み立て、満足そうに笑っている。こちらに目が合うと、たんぽぽのような優しい目をしていた。

「よろしくね、わたげちゃん」


《3》


「わたげ?」

 まゆみが振り返ると、そこにはかわいらしい女の子がいた。緩やかにウェーブした艶々の髪の毛をなびかせ、甘い香水の香りをまとった彼女は、どこか懐かしい香りがする。

「バラ!」

 彼女の胸元には真っ赤なリボンが飾られていた。みつきはあの頃よりずっと背が伸びて、くっと顔を上げないと目を合わせることができない。まゆみとみつきは、高校生になった。

「久しぶりだね」

 みつきの眼差しは、太陽の陽がさすように、あたたかい。細長い手で、頭をぽわぽわ触られた。その指先の肌の感覚が柔らかくて、まゆみは本当にわたげになったみたいだ。


「初めてね、お友達ができた気がするの」

 幼稚園に通っていたころ、母親にそう告げたときみたいに。みつきの目を真っ直ぐ見つめてまゆみは言った。みつきはお母さんみたいに、優しくうん、と頷いてくれる。みつきの手が肩に触れた。直に触れる体温は、お風呂みたいに温かい。


「わたしね、小説家になりたいんだ」

 突然口走ったまゆみを見て、みつきの目が見開かれる。まゆみの手に汗がにじんだ。

「ねえ、応援してくれる?」

 呟いた声は、か細く震えていた。みつきの顔が見れなくて、教室の薄汚れた木の床を見つめる。消しカスもシャー芯の破片も、髪の毛も、新入生の教室とは思えないほど散乱していた。


《4》


「応援するよ、するに決まってる」

 みつきは声をあらげて言う。ちょっと怒っているようにも見えた。みつきの手に力がこもり、肩が少し痛い。

「だって、小説家って、かっこいいじゃん」

 みつきが上を見上げる。教室の照明があるだけだが、みつきには別の景色が映っているのかもしれない。瞳がキラキラ光って見える。万華鏡をのぞいた時みたいに、みつきが見ている世界はくるくる変わるのだろう。やがてまゆみのことなど、綺麗さっぱり忘れるに違いない。


「わたし、みつきのために小説書きたい。プレゼントとして、受け取ってほしい」

 うん、とみつきは目を逸らしてうなずいた。それでも、まゆみは書きたかった。いつまでも続いているように思えるみつきとの日常も、いつか必ず終わりが来る。まゆみはこれを永遠のものにしたかった。思い出を小説に書けば、形が残る。たとえみつきが全て忘れてしまっても。


「一緒に帰ろ」

 きゅっと指を掴まれて、まゆみは教室を飛び出す。学校生活はまだ始まったばかりだ。上履きで廊下をかけると、なぜか小学生の頃の気分を思い出して、足取りが軽くなる。今ならきっと、わたげのように、空を飛んでいけそう。それ思うくらい、まゆみはみつきと過ごす時間が大好きだった。


《続く》

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