過去作置き場

ナノハナ

「のらりくらり」

《1》


 223、224、227…

 人混みをかき分けて、実里は張り出された紙を凝視する。

 そこに実里の番号は無い。

 握りしめていた紙が、手の中でしぼんだ。226ー

 そんなわけない、きっと何かの間違いに違いない、

 滲んだ視界に手をぬぐい、目をぱちりと開け、ピントを合わせても、目当ての番号はなかった。



 桜が散った。

 見知らぬ生徒たちが顔をほっつき合わせて笑っている。

 学校指定のスクールバッグを握りしめ、手元の紙を見る。

    

 1年3組27番 野良実里(のらみのり)


 指定の下駄箱に靴を入れ、上履きを取り出した。新品の上履きの白さが、自分の未熟さを表しているようだ。

「教室ご案内します!」

 目の前にいた学生と、目があった。上履きを見ると青色。

 実里の上履きは緑。

 一年生は緑と決まっているから、先輩ということになる。

「何組?」

 口元にホクロがある。

「あ、えっと、3組です」

「じゃあこっちだよ」

 黒髪を揺らしながら、先輩が歩き出す。

 ぱっと右手を握られた。

「君、クラリネットやってたでしょ?」

 無邪気な子供のように、楽しげに揺れる先輩の瞳。

「は、はい。どうして…」

「わかるよ、だって、親指にタコができてる。私もあるんだ、ほら!」

 そう誇らしげに、親指を突き立てた。


 クラリネットは、リコーダーのような見た目をした黒い楽器だ。木でできていて、あたたかい音色が魅力である。

 楽器の中では、質量的には圧倒的に軽い方で、吹奏楽部の中では、フルートに次いで軽い。

 それなのに、右手の親指にかかる圧が、尋常じゃない。楽器の体重を、ほとんどここで支えることとなる。

 そのため、その痛みを和らげるためのグッズが売られているほどである。

「サムレストクッション」だ。

 オレンジ、ピンク、水色、黒ーそのカラフルゆえ、誰の楽器かを判別するのにも有用だ。

 しかし、この便利グッズがあったところで、右手の親指にタコができるのは避けられない。

 実里はこれを、クラリネットをやっている人間の証のような気がして、気に入っていた。


「きみ、吹部入る?」

「まだ、決めてないです」

 先輩が目尻を下げた。どことなくホッとしているようにも見えた。

「そっか、またね」

 きゅっと上履きの音を立て、先輩の姿が、新入生だらけの流れを突っ切って廊下に消えていく。

 また案内役に戻るのだろう、だが周りを見渡しても、上履きは緑ばかりだ。案内役を務める2、3年生など一人としていなかった。


《2》


「みなさんはじめまして、1年3組の担任になりました、白石ユリです」

 カッカッと黒板に音を立てて書かれた字は、達筆だった。ひょっとして書道の先生ではなかろうか。

「吹奏楽部の顧問をしています。学生時代はオーボエを吹いていました」

 先生は表情を変えずに言った。

「自己紹介、しよっか」


「池田薫です。中学の頃は吹奏楽部に入っていました。トロンボーンパートでした」

 メガネがきらりと光った気がした。ほとんど音を立てずに席に着く。

「植木緑です。吹奏楽部でした。フルート吹いてました」

 ふわりと彼女が笑うと、教室の雰囲気が少し和んだ。周りの生徒たちが視線を合わせあっている。おかしい、元吹部が2連ちゃんなんてあるだろうか。

「大塚沙里です。サックスやってました」

 彼女がにっと愛想笑いをすると、今度こそ教室が騒がしくなった。

 白石先生はそれを見て満足そうに笑っている。目が一瞬あって、睨まれた。慌てて目を逸らす。

 ありえない、こんなに元吹部が密集してるなんて。どこぞの強豪校でもあるまいし。


 その後も吹部でした、という挨拶が当然のように続いて、みんなも感覚が麻痺したのか、驚くそぶりを見せることはなくなった。

 自己紹介の時間は終わった。


《3》


 驚いている人が多いですが、元吹奏楽部の人を、新入生の中から全員、私がかき集めました。

 このことは秘密です。他のクラスの人には口外しないでください。バラした人には、処分を言い渡します。


 これから、みなさんは、吹奏楽部の部員です。


 活動内容の説明をします。

 土日は休み、週5です。活動時間は5時まで。朝練、昼練、自主練は認めません。吹き足りない人がいたら、家で吹いてください。

 活動時間中に楽器を吹かずにさぼるのを認めます。勉強会を開いても構いません。

 

 中学の頃と違う楽器を吹くのを認めます。ただし、それで足を引っ張ることがないようにしてください。


 質問はありませんか。


 これから入部届けを配布しますので、提出した人から帰ってください。親の許可はいりません。

 提出しなかった人は明日からこのクラスに居場所はありません。


 みなさんの入部を心よりお待ちしています。


《4》


「クラリネットパートへようこそ!」


 3年1組の廊下の前、

 譜面台の上にちょこんと乗せられた画用紙には、9人分の似顔絵が描かれていた。

 色鉛筆で、カラフルに名前もかいてある。

 学年カラー(上履きの色と同じ)で分けているらしく、青の2年生が4人、赤の3年生が5人だ。


「失礼します」

 もとより楽器の音は聞こえていなかった。聞こえていたのは話し声だけだ。

 騒がしかった教室が、突然静まりかえった。

「あ、1年生?」

 かけてきた先輩は、見知らぬ人だった。赤い上履きだから、3年生だろう。

 

 教室の机の上には、お菓子の袋の山が積んである。

 白石ユリ先生は、勉強会をしてもいいなんて言っていたけど、教科書が出されているわけでもない。おまけにトランプまで散らばっている。

 

「みんな、全員分の椅子出して! アレやるよ!」

 そういうと、他の人たちは、急いで椅子を出しはじめた。手伝ったほうがいいだろうか。

「イチ、ニ、サン、シ、ごお、ろくななはちきゅ、うんこれでおっけー!」


 もともとクラリネットパートの人数は9人のため、実里を含めて座るならば、一席足らないはずである。

 忘れられているのだろうか。

 席を足そうか迷っていると、近くにいる人に声をかけられた。

「いいよ、座って」

 

 9人が円に並べられた席につくと、一人が真ん中に躍り出た。はじめに教室で声をかけてきた先輩だ。

「はじめまして、パートリーダーの石井千尋です」

 

「自己紹介は全員しません、しなくても、今からどんな人かわかります」

 彼女が息をすうっと吸うと、他の部員が姿勢を前のめりにした。



「なんでもバスケットっ!」


《5》


「きょう歯みがいてきたひとー!」

「嘘、みがいてないの? 汚な!」

 たしかに回数を重ねるにつれて、どんな性格かわかってきた。

 この集団の中で権力が強いのは誰か、いじられている人は誰か。同じ学年の人にはぶられている人、後輩に嫌われている先輩、天然に盛り上げ役ー

 

 そもそもこんな遊びができてしまうのは、クラリネットパートが一般的に大所帯だからだ。

 個人的な意見かもしれないが、クラリネットパートは、他のパートから嫌われがちだ。大人数がそうさせるのか定かではないが、とりあえず仮入部のときの教室の雰囲気は、だいたい悪い。

 平和な吹奏楽部を探すのは大変だが、それと同等、またそれ以上に平和なクラリネットパートを探すのは困難だろう。

 

「そろそろ終わりにしようか。なんか質問とかある?」

 パートリーダーの千尋が椅子を実里の隣に挿入する。

 実里はかねてから気になっていたことを聞いた。

「入学式の日に会った2年生の先輩がいないんですけど…」

 千尋があからさまに顔をしかめる。

「それは、どういう人?」

 実里の頭には、口元のホクロ、子供のように無邪気な笑顔、実里と同じようにぷっくりとはれた親指が思い出された。

「口元にホクロがありました」

 千尋は目を見開いて、周りの部員を見つめた。ぎこちない笑顔を浮かべてつぶやく。

「そんな人、知らない。2年生はもともと、4人だったよ」

「そうですか…」

 その言い方にひっかかりを覚えたが、実里にそれを指摘する勇気はない。実里はその先輩に会うために、入部届けを出したと言ってもよかったのだが。

「あの人は、やめたんだよ。私たちのおかげで!」

 2年生の部員がそう言った。満面の笑みで。

 

 千尋はため息をついて、窓の外を見つめた。雲で覆われていて、空の青はほとんど見えない。

「あの子は、本当に綺麗な音でクラリネット を吹くんだ」


 ピーっと、どこからか、間抜けな音が聞こえた。クラリネットの音だ。高校に来て、楽器の音を聞いたのははじめてだった。

 

 聞き覚えのあるメロディ。


 これは、そう。「クラリネットをこわしちゃった」だ。


《6》


 隣の教室に、先輩はいた。窓際のカーテンは全て閉まっている。手元の楽器には、有名なロゴが刻まれていた。おそらく五十万円はするだろう。


「久しぶり、待ってたよ」

 そういって、先輩は力なく笑った。


 手首をくっと曲げて、楽器を動かす。口元にマウスピースをくわえた。口が引き締まって、笑っているみたいに見える。


 すうっと先輩が息を吸うと、実里は息をのんだ。


 真っ直ぐな音が、教室に響き渡る。柔らかな音の入りから、耳に残る響き。流れ星のようだ。それは、実里が今まで聞いたことのないものだった。

 さっきまで聞こえていたつぶれた音色は嘘のようだ。動くはずのないカーテンがふわりと揺れた。青空が隙間からかすかにのぞく。


「リードって、当たり外れがあるでしょう」

 先輩は、空気に話しかけているみたいに言った。

 リードは、アイスの棒みたいな見た目だ。これを震わせることで、楽器の音がなる。

「当たり外れがあるのって、アイスの棒と同じだよね。あの人たちは、私にとってハズレだった」


 先輩は別のリードをマウスピースに装着して、間抜けな音をぴゅううっと出す。

 先輩は呆れたように笑って、こちらに視線をよこした。


「ねえ、一緒に吹かない?」


《7》


 手には、退部届けの紙が握られていた。たった数日しか経っていないが、実里の表情はさっぱりとしている。入学式の日にいた気の弱そうな少女の瞳はどこにもない。


 どこからか、クラリネットの音が聞こえた。先輩の音。実里は真っ直ぐその場所へかけていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る