8 喧嘩
一条さんと出かけてから数日後、レポートも提出し少し肩の荷が下りた日々を送っていた。今日はキャバクラのアルバイトのみの日なため、大学の図書館で勉強をしてから新宿へ行き、今はお店へ移動中だ。
図書館での勉強がいつもより集中できて捗ったことで気分よく、音楽を聞きながら歩いていた訳なのだが。
「すみません、離してください。」
厄介なナンパに捕まった。最初はイヤホンで音楽を聞いていたこともあってナンパに気づかなかったのだが、それが悪かったのか今男の人に手首を捕まれている。弱い力ではあるし、ナンパしている男も今は機嫌が悪くはなさそうだが、どうにも怖い。
「まあまあそう言わずに、そこでお茶でもどう?」
軽く握られていた手首に力がかかり、思わずその手を払うように腕を振った。男の人が無遠慮に掴んでくるのは怖いし、嫌な思い出が蘇る。足下がぐらぐらするような感覚に陥る中、手を振り払ったことに腹を立てたらしい男がおい、と大きな声を出した。
怖くて気分も悪くなり、蹲りそうになっているのに周りの人たちは触れてはいけない物を見るみたいに、少し視線をこちらに寄越してからすぐに逸らしてどこかへ行ってしまう。
「優しくしてたらいい気になりやがって、こっち来い!」
こんなこと本当にあるのかと思う頭と、恐怖しか感じられない私が乖離している。気持ち悪い、苦しい、喉元を絞められているみたい。喉からひゅっと空気の抜ける音が聞こえてきたとき、お前何してんだよと別の男の人の声が。
「ああ?なんだお前。」
ナンパの男が不機嫌そうに声を漏らす中、助けてくれたらしい男性は私の手首を掴む手を無理矢理引きはがすように離してくれる。そしてそのまま背中の後ろへ隠してくれたけれど、気持ち悪いのも息が苦しいのも治らない。
助けてくれた人の顔を見る余裕もなく、どうにか倒れないようにしながら呼吸を整えた。
「おいその女返せよ!なんなんだよ、どっか行けよな。」
「やだね。だいたい恥ずかしくねぇのか、拒否られてんだからさっさと諦めろよ。情けねぇ男。」
わざわざ喧嘩を売っているような調子の助けてくれた人にハラハラしつつ、息を整えようとするも今度は体が寒くなってきた。まずい、これはよくない気がする。ひゅう、ひゅうと変な呼吸音が漏れ出て、地面は余計に回っているみたいにぐらつく。
きゃあ、と女の人の叫び声が聞こえてきて顔を上げるとなぜかナンパをしてきた人と、助けてくれた人が殴り合いをしていて、その光景を見たとき糸が切れたみたいに脚から崩れていく。
もう、駄目だ……。
じわりと染みが広がるみたいに視界が開けて、見知らぬ天井が目に入った。甘い中にスパイシーさが紛れる香水みたいな香りも、白い天井もまるで知らない。
慌てて飛び起きると黒いカバーが掛かった掛け布団が、上半身から滑り落ちていく。私と同じくワンルームではあるものの、私の部屋より少し高そうな部屋に身に覚えが一切ない。
「お、なんだ起きたのか。」
聞き覚えのあるようなないような男性の声がして、驚いて声の方へ顔を向ける。そこにいたのは、薄茶の瞳が綺麗でどこか西洋の風を感じる端整な顔立ちに、出来たばかりみたいな青痣を残す金髪の男の人。まるで記憶のないその男性に思わず声を上げそうになるけれど、一瞬記憶が蘇るみたいに助けてくれた人の背中に隠れたときのことを思い出す。
そういえば、黒いキャップを被っていたけれど金髪だったような気がする。そうなると、この人は私を助けてくれた人だと思っていいのだろうか。
「急にぶっ倒れたからびっくりしたぜ。家とかわかんなかったし、俺の家に連れてきたけど体調とか平気か?」
急に倒れた人は多分家じゃなくて病院へ運ぶのでは、そう思ったものの二回も助けて貰った手前、そんなことを言える立場でもないし黙っておいた。
「色々ご迷惑をおかけして申し訳ないです。」
「ああ、気にすんなよ。」
俺も慰謝料貰えたしなぁとニヤニヤしている男の人に、私は首を傾げるしかなかった。不思議に思いつつ、部屋を少しだけ見渡す。
電気が点いた部屋、ぴったり閉じられたカーテン。もしかして、今はもう夜だろうか。慌てて時計を探すも、どこにもない。
「どうした?」
奇妙な物を見るみたいな目をした男の人に、今何時ですか!といつもより声を張って聞いてしまう。急に大声を出した私にびっくりしたようで、筋肉質な体が少し跳ねた。
「夜の八時五十分だな。」
なんということだ。思わず頭を抱えたくなる。
今日は九時からキャバクラでアルバイトがあったというのに。大慌てでベッドから降りると、ベットの近くに私の鞄があるのを見つけて急いでそこからスマートフォンを取り出す。
ロックを解除して店長の連絡先を探そうと焦るせいで、指が変に滑りロック解除に二回も失敗した。心臓が嫌な理由でうるさい中、どうにかロックを解除して店長に電話をかける。
コール音が何度か鳴って、店長のだるそうな声が聞こえてきた。
「すみません店長!ちょっとトラブルがあって遅れます!」
「おお?なんだ、珍しいじゃん。」
なんだか声がへらへらしている店長に謝りながら出ていく準備をしようとしたら、後ろから急にスマートフォンを取られて驚いて後ろを振り向く。
「こいつ体調やばそうなんで休みで。じゃ。」
明らかに店長の返事を聞いていなさそうなスピードで電話を切った男の人に唖然としていると、男の人がスマートフォンをこちらに寄越してきた。な、なんなのこの人。
「あんた相当顔色悪いし休んどけよ。」
顔色が悪いという言葉に首を傾げようとしたとき、急に目眩のようなふらつきが襲ってきて、対応しきれずそのまま床に倒れた。目が回る中体に降りかかるであろう痛みを耐えようとしていると、たくましい腕が私を支えるように受け止めてくれる。
「ほらな。」
未だ回る視界の中、まともに男の人の顔は見られないまま抱えられ、ベッドに寝かされる。
「寝とけ、仕事は休みになったんだし。」
「休みって言うか、サボ、り……。」
サボりですよ!と強く言う予定が、急激に眠気が来て弱々しい言葉になってしまった。一体どうして、こんなに体調が急激に悪くなったのだろう。理解が出来ないまま、混乱しながら手放すように意識を失った。
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