5 お昼ご飯

 畳が敷かれた小さい部屋に、薄汚れた茶色い壁。これからここに住むのよなんて言われて、それがどうしても信じられないくらい小さな部屋だった。

 こんなところに住みたくない、そんなことを言ったら、お母さんが見たことないくらい怖い顔をして怒ってきて私は静かに謝った。

 部屋の隅に座って天井を虚ろな顔で見るお母さんが見ていられなくて、私は一人で外に出て新しく住む街を歩いていく。

 見たこともないくらい汚れている川を見て、私はこの中に落ちたのだとなんとなく思った。


「すげードブ川だな。」

「こら、そんな言葉を使うな。」


 横を歩いていく髪の明るい男の子が、隣を歩くおじいちゃんに叱られていた。ドブ川、こういう川ってドブ川って言うんだ。知らない言葉を初めて知って、顔も映らない濁った川を見る。

 ドブ川、初めて知った言葉を繰り返す。この川は、もう二度と綺麗にならないのだろう。白は汚れて染み付くと、もう二度と戻らない。それと同じだ。


「はぁ、おうちに帰りたいなぁ……。」


 帰れないことはわかっていてそう呟く。お母さんも私も、お父さんからしたら要らないものだったんだ。

 目の前の川にゴミが流れていく。私、ドブ川の中のゴミなのかも。


「どうして私を捨てるの、私はこんなに愛しているのに。」


 お母さんの悲痛な声が聞こえてきた。みんなが寝静まった夜、偶然起きてしまいトイレの帰り道、そんな声がして慌てて声がした方へ近寄る。


「もう俺たちは終わりだ。瑠璃を連れて出ていけ。」

「嫌よ!瑠璃なんて要らない、私には貴方と瑠伊さえいればいい!」


 つんざくような声がして、私はその場にうずくまった。いらない、要らないって言われちゃった。私、お母さんにもお父さんにも、要らないって言われちゃったんだ。

 ずっと分かっていた。お母さんは私よりずっと、ずっとお兄ちゃんのことが好きで、お父さんも男のお兄ちゃんが大事だった。そんなこと、もうとっくに知っていた。

 柔らかいワンピースの裾を握りしめる。目が熱くなっていって、床に涙が落ちていく。誰も私のこと、必要としてくれていないんだ。


 視界が真っ黒になって目を覚ました。


「二日酔いだ……。」


 酔うといいことがない。気持ち悪いし、頭痛いし、嫌な夢を見るし。

 死にたくなりながらどうにか布団から起き上がり、そして立ち上がる。近場に落ちていたペットボトルの水を飲んで、あー、とざらつく声を出した。

 子供の頃の夢は見たくないことの方がよっぽど多い。好きな夢は兄との思い出の回想と、帽子の男の子との夢、あとは小学生の時の短い思い出。それ以外の夢はほとんど悪夢だ。


「あっ、エリちゃん。」


 痛む頭を抑えながら狭い室内を見渡すが、エリちゃんはおらず、昨日二人で鍋を囲んだテーブルの上に残されていた紙を見つけた。


「急に誘ってごめん、楽しかったよ……か。」


 寝てしまった私にも優しいエリちゃんにほっとして、嫌な夢を見た気持ちが少し救われた。

 そういえば、鍵とかってどうしたんだろう。気になって玄関まで足を運ぶと、鍵が開いていて当たり前ではあるものの少し驚いた。

 多分エリちゃんは起こそうとしてくれたのだとは思うけれど、相当私が起きなくて仕方なく鍵を開けて出て行ったのだろう。そう考えると、かなり申し訳ないことをした。


「今度謝っとかないと。」


 うっかりしていた自分を恥じつつ、朝食でも食べようかと思ったものの二日酔いで気分の悪い中朝食を食べる気にはならなかった。レポートを書くため、着替えることもなくローテーブルの前に座り、ノートパソコンの電源を入れた。

 中古なせいか、かなりゆっくり起動するノートパソコンをただ待っているわけにもいかず、読んでいた小説を開いて中身を見る。

 だいたいあと三十分で読み切れる。読み終わったらすぐにレポートを書いて、それが約二時間。早めに切り上げて着替えてから講義に行って、夕方のカフェ、終わったら速攻でキャバクラ……と。


「今月催促遅いな。」


 四月になってもう十日は経っているけれど、まだ母からのヒステリックな電話は来ない。来ない方がありがたいし、全く構わないが。

 ひたすら本を読み、思っていた通り三十分で読破し、今度は起動させて時間が経ったせいで動きの悪いノートパソコンと格闘しながらレポートを少しだけ書いた。



「また被ったね。」


 やあ、と言ってこちらに手を振る一条さん。そんなにたくさん講義って被るものなの、なんでだいたいあとに教室に入ってくるのこの人。


「瑠璃ちゃんっていつも早いよね、予習のためかな。」


 そうか、私の方が早いのか……。

 一応そのつもりです、と返事をすると一条さんはさりげなく私の隣に座り、そっか、と何気ない返事をした。

 なんだか私ばっかり肩の力が入っているみたいな感じで、すごく嫌な気分。


「今日お昼誰かと約束ある?」

「ない、ですけど……?」

「あ、本当に?じゃあ昼一緒に食べよう。」


 しまった。そう思った時にはもう遅く、昼に食べる相手もいないと言っている以上、言い訳もできずにその誘いを了承するしかなかった。


 そんなこんなで昼食を一緒に食べることになったわけだけれど、洒落たレストランは私が断り、コンビニのイートインスペースは一条さんが断り、行き着いた先は学食だった。

 私はうどんセット、一条さんはランチ定食だ。


「奢ってもらってすみません。」

「俺の方が先輩なんだしこれくらい当然だよ。」


 ニコニコと笑う一条さんに、どうしたらいいか分からなくなりつつ、いただきますと言ってから割り箸を割ってうどんに浸す。

 一条さんは私のことを覚えてはいるけれど、昔お互いのあいだに何があったかなんてきっと覚えていないのだろう。そう思わなくては不可解なほど、一条さんは私に対して普通、というより少し好意があるように思える反応をしてきた。

 もしかして、なにか一条さんとの間に忘れてることでもあるのだろうか。


「よお一条!……って香椎、お前もいたのか。万年金欠なんだし一条に奢ってもらった感じ?いいなぁ俺も奢ってくれよ一条。」


 四年生の先輩が一条さんに対してそんなことを言って、一条さんを軽く小突いていた。そういえばこの人、学科内でも結構有名な面倒な先輩だっけ。


「じゃあ今度ゼミのみんなとご飯にでも行きますか、その時奢りますよ。」

「さっすが一条グループの跡取り息子!ゼミの奴ら集めとくな。」


 先輩は上機嫌で券売機の方へと向かっていく。この人誰にでも奢るんだなぁと感心しながら一条さんの顔を見ると、いつもは優しい瞳が鋭く冷えて先輩の背中を見ていて、背筋がゾッとした。

 あの瞳、小さい頃頭を下げた私に向けてきた瞳と同じだ。

 それに気づくと怖くなってしまい食欲は失せるが、食べないことで何か言われるのがより怖く、うどんをひたすら食べ続けた。


「よく食べるね、お腹空いてた?」


 俺のもなにか食べる、なんて聞いてくる一条さんに首を横に振っておく。早く食べ終わって、この場から逃げ出したい。

 ずるずるとうどんを啜っていると、パリンっとガラスの割れる音がして手に持っていた箸を落としてしまった。ガラスの割れる音は、ダメだ。

 すっかり日焼けした傷跡をかきむしられているようで、そこから嫌な記憶が堰を切ったように溢れ出す。


「瑠璃ちゃん大丈夫?顔色がなんか悪い気が……。」


 一条さんの心配する声が、酷くくぐもって聞こえてくる。まるで水の中にいる時のように、耳の中で音が反響していた。

 頭がかき混ぜられていくような感覚がして、今きちんと座っているのかも自分ではわからないほどの強い目眩を感じた。縋るように今は服に隠れているものの、いつも右手首に巻いているブレスレットを左手で握る。


「瑠璃ちゃん、大丈夫だよ。」


 いつの間にか隣に来ていたらしい一条さんの手が、私の背中を優しくさする。なんだか何度もそうして慰められてきたかのように自然と落ち着く行為と、ブレスレットのおかげで少しずつ目眩が収まって、だんだん聴覚もクリアになっていった。

 荒れていたらしい呼吸も整って、ようやく平常心に戻れる。


「すみません、急に体調悪くなったみたいで。」

「朝から少し元気なかったよね、もう平気?」

「は、はい。もう、大丈夫です。」


 箸、落としちゃったねと一条さんは言いながら立ち上がり、床に落ちた箸を拾った。そしてそのまま向かい側に戻り、紙ナプキンでそれを包む。


「はいこれ新しい箸。」

「すみません、ありがとうございます。」


 渡された割り箸の包装紙を破り、そのまま箸を割った。


「ところで瑠璃ちゃんはどうして文学部に?」


 食事を再開すると、一条さんが急に質問を投げかけてきた。どうしてと言われると、昨日エリちゃんと話したようなざっくりとしたことしか言えないし、正直私の方がどうして一条さんが文学部なのか気になる。


「小説が好きなので……先輩の方こそどうして文学部なのか気になります。経済学部とか、経営学部とかそういう方かと。」


 いずれ一条グループの会社で社長をし、最終的にはグループ長……つまりは会長になるであろう人が、経済学や経営学を学ばず文学部に入っていることが不思議だった。

 文学部はどこでも言われる話だけれど、一番就職に向かない。経済学と教育学以外の文系の学問を全て学べる文学部ではあるが、会社の中では一番必要とされない学問を学ぶところなわけで、就活には苦労するのだとか。


「昔から父にそういったことは叩き込まれていたし、最後くらいは自由に過ごしたいんだ。」

「そう、なんですね。」


 私は就職した方がずっと自由になれると信じて大学に通い、日々勉強をしているけれど、一条さんにとってはこの四年間は最後の休み時間という認識らしい。

 生まれは似たようなものでも、育ちと立場が違うだけでこんなに意識が違うものなのか。分かりきってはいたことだけれど、それをひしひしと感じさせられる。


「でも本当に文学部にしておいて良かったよ。」

「どうしてですか。」


 すぐに聞き返すと、一条さんは少し困ったような顔をする。この質問、そんなに困るようなことなのかな。


「瑠璃ちゃんに会えたから。」

「へっ!?」


 今度は私が困らせられる番だった。急に視線を彷徨わせる私が面白いのか、一条さんは楽しそうに笑う。まるで子供のようにも見えるほど、純粋な笑みだった。


「ずっと会いたかったんだ。瑠璃ちゃんは、急にどこかへ行ってしまったから。」


 柔らかく、そして優しく笑う一条さんを見て、私は戸惑うしかなかった。やっぱり私が忘れているだけで、私と一条さんの間になにか深い思い出でもあるのではないか。

 そうでもしないと一条さんが私にこんな優しく……いや、はっきり言ってしまうと愛しいものでも見るような顔をして笑う理由が考えられない。

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