第2話

「ガラテア、私は今から地下の祭壇で祈りを捧げるのですが、あなたはどうしますか?捧げないのであれば礼拝堂の掃除をお願いしたいのですが……」


月に一回くらい、シスターは地下にある祭壇に行く。あたしも一度連れて行ってもらったことがあるが、中は一切光のない漆黒に包まれていて、あたしは十分間すらもその場にい続けることができなかった。それもあって、シスターとはいつもこのときだけ別行動になる。


「シスター、やっぱっりあたしにはあの祭壇に行くのは難しいかもしれない……何度考えてみても、やっぱりあそこは怖いんだ」


あたしの言葉に対してシスターは優し気な微笑みで返す。いつもどおりの、見るものを安心させる優しい笑顔。


「いえ、無理をする必要はないんですよ。あなたが望まないことをさせるのは私としても本意なことではないのですから」


それでは礼拝堂の掃除をお願いしますね、とあたしに微笑みかけながら真っ暗な階段を下りていくシスター。


あたしはシスターの言うとおりに礼拝堂の掃除を終し、それが最初思っていたよりもずっと早く終わったので、空いた時間に日ごろの感謝も込めて晩御飯を作っておこうと思い、出かけようとしたが、普段お使いに行くとき用に預けられていた財布の中身がちょうど切れていたことを思い出し、たまたまシスターにプレゼントを買ったばかりで自分で稼いだお小遣いも切れた所だったので、地下室の金庫の中に入っているお金を受け取りために、獣脂で作ったろうそくにマッチで火をつけて真っ暗な階段を下りていく。


カツン、カツン、という石の床と靴底が鳴らす音。サリ、サリ、という靴底と床のコケがすれる音。そして、ピチャピチャという、天井から滴り落ちた水滴が小さな水たまりとぶつかる音。


ただただそれらの音だけが支配する長い長い階段の中。普通の教会にあるはずのない、なにかを隠すような、緩やかな螺旋階段。


足場の悪い道の中を、純度が低くか弱い獣脂の明かりだけを頼りに降り続ける。


カツン、カツン、サリ。カツン、ピチャ、カツン。


時間が流れていることすら忘れそうになるほど退屈な階段を、すぐ下の暗闇から今にも何かイケナイものが飛び出してきそうな螺旋階段を、ただただひたすら、おびえながら無心に降り続ける。


そんな、暗闇に、階段に対する恐怖とシスターへの思いでぎりぎり保たれたいた危うい均衡は、偶然ろうそくの火の上にピンポイントで落ちてきた天井からの雫によって、失われた。


熱が火を呼び、火が熱を呼ぶサイクル。


それはたった一滴の水が熱を奪う、ただそれだけのことで終わりを告げた。


消える灯火、動揺する心、硬直し、バランスを崩す身体。踏み外す足に、投げ出され、打ち付けられる矮躯。


そして一拍遅れて感じる冷たさに、熱に、じんわりとした鈍い痛み。


ろうそくの火は、消えていた。慌ててまさぐったポケットの中のマッチは、触っただけではっきりわかるほど水にぬれていた。柔らかく溶けやすい獣脂のろうそくは、転んだ拍子に器の中から流れ出てしまった。


真っ暗な闇が、ピチャピチャと一定間隔で響く音が場を支配し、あたしを飲み込む。水にぬれて冷たくなった衣服の中で、唯一ひねった足だけから熱を感じる。立ち上がろうとすると感じる鈍く、だが決して弱くはない痛み。目元に熱が現れ、そしてすぐに消えていった。


しばらく一人でひとしきり悶絶してから何とか壁伝いに立ち上がり、シスターのおさがりの修道複をズリズリと壁にこすりつけながらゆっくりと階段を下りていく。


引きずるように、転がり落ちるように。濡れた服は、まとわりつく服に。熱を持った足は、次第に熱の感じられない足に。






不定期的に響く水滴の滴る音だけが、あたしがいるここに時間が流れていることを教えてくれる。どれだけ時間がたったのかも、そもそも時間がたっているのかもわからない真っ暗な螺旋階段の中で、この音がもしなければ、あたしはとっくにおかしくなっていただろう。


そしてあたしは、次の階段を降りようとしたときに転びかけたことで、ようやく地下階に到着したことをしる。


相も変わらず何も見えず、水滴しか聞こえず。

壁に体重をかけなければ歩くことすらできないような、まともに動かなくなった足と、止めようとしてもあたしの意志とは無関係に勝手にガタガタと震えてしまう情けない体。それを引きずって、壁伝いの先にある、ほのかに光の見える隙間。その場所にあるはずの重たい石の扉の奥にある祈祷室に向かう。


一歩進む。


ほとんど何も聞こえることのなかった地下に、なにかのくぐもった声が聞こえるようになる。


一歩進む。


聞こえる声が、高い声と低い声の二つあることに気が付く。


一歩進む。


悲鳴のような声が一つと、それを聞きながら楽しむような声が一つ。


一歩進む。


高い声のは、あたしが自分の声以上によく知るもので、低い声は今まであたしが聞いたことのないようなもの。


一歩進む。


高い声から伝わる諦念のような感情と、低い声から伝わる愉悦。


一歩、進む。


速いテンポで刻まれる、手のひらを腿に打ち付けるような気の抜けるような音と、それに一瞬遅れて聞こえてくる高い声の呻き声。


進む、進む。


あたしの大好きなシスターのどこか苦しそうなうめき声と、聞き覚えのない甘ったるい声と、聞き覚えのない男の声。何度も繰り返してきたことのような、奇妙な安定性のある聞きたくないようなやり取り。


こんなことになるなら、わざわざ無理をしてこんなところにまで来るべきじゃなかった。足を怪我し、濡れネズミになり、シスターに貰った大切な修道複をすり減らしてまで、こんなところに来るべきではなかった。きっとあたしは、晩御飯を作ろうとするのではなく、シスターに頼まれたことを全力でこなしているべきだったのだ。

まかり間違っても、道半ばで怪我をしながら一番下まで下りるなんて無茶をするべきではなかったのだ。そんなことをせず、シスターが祈祷を終わらせて、唯一の階段から上がってくるのを待ってお姫様抱っこでもしてもらって運んでもらうべきだったのだ。


そうさえしておけば。


優しいシスターが。大好きなシスターが。あたしのあこがれのシスターが。あたしの大切なシスターが、あたしのシスターが。

あたしの知らない、どこの馬の骨かもわからない男なんかに心の底から媚びを売り、へつらい、機嫌を取って嬉しそうによがる声なんて。


そんなものなんて、目にすることも耳にすることも、きっと、なかったのだ。

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