第9話 2軍合流
川口は唐沢達を食堂へ案内した。社内食堂は清潔感がありメニューも充実している。腹が膨らむだけでは昨今の潮流から優良企業に分類されない。川口は唐沢達の料金を自分のIDカードで精算した。テーブルに着くと川口が口を開いた。
「会談はいかがでしたか?」
「問題なく終わりました。途中で社長の顔色が・・・」唐沢は宮野を見た。
「なんだよ。その何か言いだけな顔は。言いたいことは言わないと」宮野はあまり気にしていない。
「でも、社長カンカンだったわ」祥子は両眉を上げて言った。
「何を言ったんですか?」川口はそれほど驚いてはいなかったので社長は短気なのだろう。
「ただ本音を言っただけなんだが」と宮野は不服であった。
「本音ね〜社会人のお前がね」唐沢は再度宮野を見た。
宮野は気にも留めず唐揚げを頬張った。
「こうなったら唐沢さん実力を見せてやりましょう!」祥子はやる気満々である。
「噂には聞いたのですが、もの凄い打撃を披露されたそうで」川口は契約より唐沢の実力の方に興味があるらしく、続けた。
「かなり噂が広がっています。どこ何処の球団から引き抜いたとか、ピッチャーで甲子園出場したけどその後バッターに転向して才能が開花したとか、メジャーから大物がやって来るとか・・・」
「噂ってこうやって広がるんだ」唐沢は感心して続けた。「所詮、テスト生ですよ。背番号も確か3桁になるとか。まあ、メジャー出身と言うことにしておいてくれますかね」唐沢は、祥子に目を配りながら、麻婆豆腐に手を伸ばした。
「では野球経験が殆ど無いと言うのが本当ですか?」川口は箸を止めて訊ねた。
「お恥ずかしい話ですがその通りです」
「それじゃ正真正銘の天才ですか?」
「プー」っと、噴出す音が唐沢の隣から聞こえた。
「天才だなんて有り得ないわ。朝だってまともに起きられないもの」
「朝が強いのと野球とは関係ない」と唐沢は反論した。
「でも羨ましいな。僕なんて大学まで野球をやって、ドラフトで指名される所までいったのですが、結局駄目でした。やっぱりプロになるには努力だけじゃ駄目ですね」川口はとても悔しそうに言った。今でもプロへの未練が表情から毀れる。唐沢は申し訳ない気もしたが自身プロになりたくてなるのではないし、プロでの成功がが本来の目的ではない。それぞれ希望と天分は一致しないのは人の常で同情も必要ない。ここにいる宮野も祥子も同情などしていなかった。プロに成れなくとも生活は出来ているのだから。
「早く唐沢さんの打撃をこの目で見てみたいです」
「あまりお見せするようなものではないですよ」
「ところで川口さんのポジションはどこだったの?」祥子が尋ねた。
「僕はピッチャーをやっていました」
唐沢は嫌な予感がしたのでその前に言った。
「この後メディカルチェックと基礎体力測定があると聞いているのですが何処かに移動するのですか?」
「いいえその必要はありません。全ての施設はこの建物の中にありますから」と川口は自慢げに答えた。
宮野は午後からどうしても時間が取れないと言ったので仮契約書のコピーを1部川口に頼んで、それを持って宮野は本社を後にした。唐沢はメディカルチェックを1時間程で済ませ、その間、祥子は川口と待合室で待っていた。
次に唐沢は基礎体力測定を受けた。測定を受け持ったのはトレーナーの内倉だった。内倉は新人が入ってくるといつも同じ測定をするのだと唐沢に告げた。出来れば唐沢は測定したくなかったが、結果は唐沢の心配した通り内倉を驚かせた。基礎体力がこれ程低い新人は記憶がない、と。
最後の項目は動体視力を測定する。大きなホワイトボードに無数のLEDが縦横に並んでいる。ランダムにランプが点くので光っている間にボタンを押す。ランプは1秒しか点灯しないのでその間に押さないとカウントされない。これを1分30秒間行うのだ。
「最高記録は何個ですか?」
「75個です。まあ、これは驚異的ですがね。プロの選手の平均は55個ほどです。60個行けば上位5%に入ります」
唐沢はターゲットを73個にした。新記録を出すとこの内倉が騒ぎ出すだろうし、平均の55個では体力測定の結果でずたずたにされたプライドを挽回出来ない。
「それでは行きます。スタート」
ランプはゆっくりと点灯しそして消えて行った。唐沢にとっては90個全てを押す事は問題ない。唐沢はボタンを押しながらカウントした。
「なるほどね・・・動体視力はプロ野球の中ではトップですね」と言って定規を持ってきた。「ちょっとこれをやって頂けますか?僕が定規を離しますので人差し指と親指で落ちないように挟んでください」
唐沢はやれやれと思った。
「それでは宜しいですか?」
「何時でもどうぞ」
唐沢は集中した。内倉の腕の筋肉が動き出すのが鮮明に見える。唐沢は内倉の指から定規が離れると同時にそれを挟んだ。まるで重力が忘れられているかのように定規は動かない。
「読みが鋭いね!」と言ってもう一度内倉は試した。しかし、結果は1回目と同じ。違うのは内倉が異常に長く定規を放さなかった事くらい。
「もういいですか?」唐沢は言った。
「ええ。お疲れ様でした」
唐沢は祥子のいる待合室に向かった。祥子は川口と話し込んでいる。川口はチャンスが来たとばかりに唐沢について根掘り葉掘り詮索しているのだとうと、容易に想像出来た。祥子がそれらの質問にどの様に答えたのかは分からない。祥子が唐沢に気付くと立ち上がって言った。
「どうだった?」
その声には不安さが含まれていない。
「予定通りだよ」
「それで今後の予定は?」
「診断の結果が良ければ、正式契約を3日後に行います。それから直ぐにチームに合流していただきます。先ずは2軍からのスタートとなります」
3日後、唐沢は仮契約日と同じ時間に同じ人物を待っていた。前回は宮野と祥子が居たが今回は居ない。唐沢は契約書の中身を隅々まで読んでいないが、宮野と祥子は訂正が必要な項目はないと唐沢に報告していた。唐沢は、宮野に契約金と年俸について聞いたが、宮野はこれ以上ない条件だと言った。
唐沢の元へ川口が現れた。前回のイメージとは違い昔プロ野球を目指していた事を連想できる出で立ちである。球団のマスコットのデザイン入りTシャツにスエット姿であった。今日はファン感謝のイベントがあるらしい。
「印鑑を持参頂けましたか?」今日はハンコさえ押せばよい。
「ええ」
「それでは行きましょうか」
3日前と同じようにエレベータホールへ。そして24階を目指す。
「今日は契約書にサインを頂きます」と川口は確認し続けた。「その後、施設の案内やその他もろもろの説明になります。2軍の間は寮に入って頂く事になりますのでよろしくお願いします」
唐沢は聞いていなかったので驚いた。
「寮は勘弁して頂きたいな」
「それは私に言われてもどうしようもありません。監督に相談下さい」
契約は岡本常務のオフィスで行われた。林社長の4分の1程の広さである。正式契約時に球団社長が同席しないのは唐沢に対する期待度の低さからなのかは分からない。
契約後、唐沢は球団の車で2軍の寮に案内された。唐沢が想像していた寮はそこにはなく、安いマンションよりよっぽど立派な建物だった。唐沢は川口に言われた通り寮長を尋ねる。名前は柏原。唐沢は寮の前の庭を掃除している年配の男に尋ねた。
「すいません。唐沢と言いますが、柏原寮長に会いたいのですが?」その男は手を止め、軍手を脱ぎタオルで額の汗を拭いながら、
「おう、唐沢か。わしが寮長の柏原だ」と言って大きく笑った。「さあ、中へ入ってくれ」寮長は唐沢を中へ案内した。
「荷物はそれだけか?」寮長は何をしに来たのか不思議そうに唐沢に聞く。
「ええ。これだけです」と寮には入る積りが無かった意味を込めて。
「まあ、荷物は後で運べばいいから」と言って寮内を案内し始めた。
食堂は朝6時半から利用可能で、夜10時まで開いていたが、午前10時と午後5時にメニューが変わる。食事のメニューは専任の栄養士が管理している。プロ野球の寮だけあって食事はかなり充実していた。
食堂のあと柏原は会員制のゴルフ場に似た、浴室を案内した。サウナが付いていることに唐沢は驚いた。その後、柏原はトレーニングルームを見せてくれた。そこには唐沢が見たこともないマシンも置かれていた。通常のジムとの違いはその隣に大きな鏡がある部屋があった。どうやら素振り専用の部屋らしい。そして隣の部屋にはトスバッティング用のネットが3セット。次に寮長は唐沢が入ると思われる部屋を案内した。
「ここがお前の部屋だ」と柏原は説明した。そして続けた。「ここにいたやつが先週解雇されて丁度空きが出たわ」と柏原は唐沢が知りたくない情報を伝えた。
「それって前木投手じゃないでしょうね?」
「前木を知っとるのか?」と寮長は聞き返した。
「知り合いとまではいきませんが」唐沢に入団テストの事を説明する気はない。
「あいつは元気でやっとる。この間上に行く予定だったが、急に調子を崩しよって。上に行くにはまだまだ時間がかかるだろう・・・」確かにと唐沢は柏原に賛成した。
柏原は部屋に入りベッドに置かれていたモノを手に取った。その背中には”KARASAWA”とプリントされていた。名前の入ったユニフォーム。背番号は112。ホーム用とビジター用のそれぞれ2枚用意してある。ユニフォームの他にはアンダーシャツ、ストッキング、アンダーストッキングがそれぞれ4セットずつあった。
「ところでお前の経歴を見せて貰ったが良く分からんかった」と柏原は唐沢の経歴を聞いた。
「野球はずっとやっていたのですが、有名高出身ではないですし、社会人野球もやっていませんでしたから。ずっと日陰にいたのです」
「まあ、プロでは経歴は関係ないわ。ドラ1でもここから出られなかったやつを何人も知っておる。1日でも早くここから出られるように頑張ってくれ」と言って柏原は唐沢の肩を叩いた。寮長の手の大きさを唐沢は感じた。もう唐沢は入寮を断る事が出来なかった。
「明日は8時半にここを出る。新人の川端と一緒に球場に行けばええ」と柏原は言った。「それと入り口に自分の名前の書いてある札がある、不在は赤、居る時は白にするよう。門限は22時やから絶対に守るように。何かあるかね?」唐沢は分からない事ばかりだったが質問はしなかった。
「何かあれば言いなさい」と言って柏原はまた庭へ向かった。
唐沢はこれから生活する部屋に寝転がった。部屋にはエアコン、17インチのテレビ、ベッドそしてクローゼットが備わっていた。広さは8畳程だった。唐沢は携帯を取り出し、電話をかけた。祥子は5回目で出た。
「ごめん、今事務所でいろいろ書類の片づけをしていたの?」息を切らせて祥子が答えた。
「今日から寮に入る事になったから」
「何て言ったの?」
「だから、今日から球団の寮に入るから」
「どうして?」
「それは決まりだから仕方が無い。それで荷物を届けてくれないかな。何も持ってきてない」
「それは良いけど本当に大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないけど仕方が無い」
祥子は唐沢のマンションの鍵を持っている。
「今から言うものを届けて欲しいからメモして」
「ちょっと待って」祥子はメモの準備をした。
「いいわよ」
祥子が寮に着いたのは18時を回った頃だった。唐沢は荷物を受け取り自分の部屋に運んだ。寮の食事を味わうのは明日からとして、唐沢は名札を赤に裏返し夕食に出ることにした。寮に戻ったのは時には21時を回っていた。唐沢は、川端の部屋をノックした。川端は部屋にいた。唐沢は今日から入団する事になったと挨拶した。プロ野球は年齢が上でも後から入るのだから最初はちゃんと挨拶するようにと宮野から言われていた事を唐沢は実行した。と言っても川端は高校出の新人だから体格は良かったが見た目は幼い。
「唐沢さんですか。話は聞いています。川端です。よろしくお願いします」唐沢にとって川端の第一印象はとても好青年に思えた。
「こちらこそ」
「どうぞ座ってください」と言って川端は立ち上がり唐沢に一つしかない椅子を進めた。唐沢はその椅子に座り川端はベッドに腰掛けた。
「それで明日は8時半にここを出るの?」
「はい。8時半に球場行きのバスが来ますのでユニフォームに着替えておいてください」
「それで?」
「10時から練習が始まります。そして昼食を取って13時から試合となります」
「練習ってどんな事をするの?」
素人同然の質問に川端は戸惑いつつ答えた。
「人によって違いますが、打者の方は打撃練習と守備練習です。その中で課題を徹底的に強化します」真剣に説明する気がない。
「なるほど。まあ行ってからの楽しみか」と唐沢は今から心配しても始まらないと部屋を出ようとすると、
「唐沢さんちょっと聞いても良いですか?」川端は畏まって言った。
「いいけど。何?」
「前木さんの球を打ち込んだのは本当の話ですか?」
「それを何処で聞いたの?」
「何処でと言うより選手みんな知っています。入団テストで前木さんの球を簡単に打ち返したって」
「ああそれは事実だけど。どうして?」唐沢は隠しても仕方がないと思った。
「前木さんと山田さんがかなり怒っていますから気を付けてください」
「気を付けてくださいって、子供じゃないのだからいじめられるの?」
「何を言っているのですか?先輩の言う事は絶対ですから。何されるか分かりませんよ」
「いくらなんでもプロの世界だから実力主義でしょ。年齢やキャリアなんて関係ない」
「とにかく気を付けてください。あの2人には」川端は唐沢の事を真剣に心配していた。唐沢はよろしくと言って自分の部屋に戻った。そして、いよいよ始まった事を宮野に連絡した。
翌朝、唐沢は自力で起きることができた。祥子にモーニングコール頼んでいたのでちゃんと起きられた事を祥子に伝えた。この年で良く起きられたと褒められるとは思ってはいなかった。唐沢は朝食を取って部屋に戻りユニフォームに着替えた。そして、自分のユニフォーム姿を鏡で確認した。以外と似合っていると唐沢は誰も見ていない鏡の前で照れた。
さて、と唐沢は己を鼓舞して部屋を後にした。1階のロビーでは既に川端が待っていた。唐沢はバスに乗り込み川端の隣に座った。出発10分前だったが席は3割程しか埋まっていない。出発5分頃になると一気に空席が減っていった。
唐沢はバスに乗り込んで来る選手達を見ていた。殆どの選手はテレビで観たことも無い顔ぶれだった。そんな時見覚えのある選手がバスに乗り込んで来た。入団テストに来ていたキャッチャー山田だった。山田は唐沢より5列程前の席に座ったので唐沢の存在には気付いていないようだった。山田に遅れること数分、前木が乗り込んで来た。そして山田の隣に座った。唐沢が打った為に1軍に上がり損ねたかは分からないし、真相を知りたいとも思わない。誰がどの席に座るのかは暗黙の了解があるのだと唐沢は思った。
球場に着くと川端が2軍監督の岡の元に唐沢を案内した。岡は期待していると唐沢に告げて2軍選手に唐沢を紹介した。唐沢は先ず打撃練習から入り、全ての球を思い通りに打ち返した。唐沢の打撃を見て岡はこの時期に入団した事を納得した。打撃とは反対に唐沢の守備は岡をガッカリさせた。捕球には問題が無かったが、フットワーク、連携プレー、そして送球に難があり素人同然だった。
岡は代打での起用なら今すぐにでも1軍に合流しても面白い存在になると唐沢を評価した。初日の練習後岡は唐沢を呼んだ。明日から1軍に合流と告げられた。1軍の代打の選手が怪我をしたらしい。その代役として唐沢が1軍に呼ばれたのだ。
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