第8話 仮契約

 唐沢は毎朝なかなか起きられない。目は覚めるのだが体が反応しない。連日に及ぶ基礎体力作り、守備練習で身体中に筋肉痛を抱えていた。特に右肩は悲鳴を上げ、歯も思うように磨けない。


 入団テストから2週間弱。練習の相手はもっぱら祥子ただひとり。探偵のアシスタントで採用され、今では野球部のマネージャーと化していたが、幸い当の本人は現状を楽しんでいるようだ。


 唐沢は毎朝ベッドの上で新たな痛みを模索し、それを堪えて起きるべきか、このまま休むべきか・・・。なかなか答えは出ない。出ないと言うより唐沢はずっと考えていようと思っている。しかし、そんな事は許されない。訪問者を知らせるチャイムが鳴るからだ。これで、この時間にチャイムがなるのは4日続けてだった。


 練習メニューは祥子が大学時代の野球部の友人にお願いした。『何故そんな事を聞くの?』と聞かれた祥子は『私の知り合いがプロを目指すの!』と正直に答えたらしい。

 始めの3日間は前日の入団テストの緊張感から何とかメニューをこなす事が出来た。しかし、4日目からモチベーションの低下ともともと努力を好まない唐沢はベッドから動けなくなった。待ち合わせに何時まで経っても唐沢が現れなかったので、祥子は宮野に電話をして唐沢の自宅まで押し掛けたのだった。


「唐沢さん、無断欠勤は1万円の減給ですから」と言って祥子は唐沢を無理やりに連れ出したのだ。その日から毎朝、祥子はやってくる。


 祥子は唐沢の部屋に上がり込むとまず朝食を作る。包丁の音は唐沢に起きるようにと催促するがその音色は目覚まし代わりにならない。昔、好きな曲を目覚まし代わりに設定していたが、1ヶ月後その曲は聞きたい曲のリストから外れた。どういう訳か包丁のリズムは嫌いになれそうにない。どうして包丁の音ってこんなに心地よいのか。心地よすぎてもう1度眠りに着く訳でもなければ、パッチリと目が覚める訳でもない。ただ、この音色が作り出すモノを脳が無意識に想像し始め、徐々に音色をしっかりと聞き取ろうと努力する為か、出来上がる頃には目が覚めているのだ。


 唐沢は朝食の出来上がりと同時に重い身体と本気で向き合う。目が覚めても体の痛みは緩和されない。この音色には沈痛効果はないようだ。祥子が準備したのは、ご飯、納豆味噌汁、卵料理、胡入り野菜ジュース。

「唐沢さん、これは全て残業扱いですからね」

唐沢は分かっていると頷いて朝食を詰め込む。不思議と朝食を食べ終わると元気が出る。これは、肉体に働きかけるようだ。

「さて、今日も頑張るかな」


 支度を始めて出かけようとした時宮野から電話があった。

「どうした?」隣では祥子が聞き耳を立てている。

「いいニュースだ!」宮野の声は快調そのものである。

「契約が決まったのか?」祥子を見ながら唐沢は尋ねる。

「ああ、取り敢えず仮契約だが、決まったよ!」

唐沢はグッドサインを祥子に投げた。

「これからどうすればいい?」

「急で悪いが明日球団に行って仮契約書を結んで欲しい」

「明日か。えらく急だな」

「前に言っただろう。7月31日までには契約を完了する必要があると」

「そんな事は覚えていない」

「明日は駄目なのか?」

「いや大丈夫だ」

「だろう」

「だろう、じゃない。もっと段通り良くやってくれ。それで明日はお前も同席するのだろう?」

祥子は唐沢に一言付加えさせようと唐沢の腕を引っ張った。

「ああ。監督と交渉した。通常認められないのだが今回は全てが異例だから」

「で、祥子も俺のマネージャーとして出席させたいのだが」

祥子は唐沢の腕を解放した。

「そうくると思ってそれも交渉済みだ」

唐沢は再びグッドサインを祥子に投げる。

「それと仮契約の後メディカルチェックがあるから」

「今なんて?」

「健康診断だよ。心配ない。ただの基礎体力測定」

「そんな話聞いてないぞ」

「当たり前だろ。プロ契約をするのだから。何も心配することはないよ。小学生の頃やっただろ。握力や背筋を測定したやつ」


 体力測定の結果は快晴の飛行機雲のごとく唐沢にはくっきり見えていた。お世辞にもプロの選手とは言える結果に終わらない事を。第一、小学生時代のそれと比較すること自体宮野にとっては他人事である。加えて唐沢の身体は疲れ切っている。

「それじゃ、明日球団本社に9時45分に来てくれ。ロビーで待ち合わせよう。唐沢、言っておくが寝坊は許さないからな」言い終えると宮野は電話を切った。

唐沢は暫く電話を持ったまま考え込んでいた。

「それで明日契約するの?」

「まだ仮契約だそうだ。その後メディカルチェックと基礎体力測定」

「唐沢さん、本当にプロの選手になるのね」半信半疑だった祥子だったがこれで現実味を帯びて来たようだ。

「・・・そうだ。祥子、今日の練習は休みにしない」

「いいわね。今日は休みにしましょう。久々に私買い物行こうかな。残業代随分貯まったし・・・」

唐沢は祥子を見つめた。そして、

「今日は俺に付き合ってくれない?」

「それって業務命令?それとも・・・」

唐沢が祥子を誘うのはこれで2度目。1度目は偶然に会ったあのバー。その時は個人的な誘いではなかった。少なくとも祥子にはその様に伝えた。

「それでどうしたいの?」

「今しか出来ない普通のことだよ・・・これからは野球に集中しないと」


 唐沢が球団本社のロビーに着いたのは予定より5分前。7月23日(木)。今日は移動日で試合の予定はない。宮野と祥子は既に待っていた。周りの人間はこの3人の目的なんて気に止めていない。唐沢は祥子を見て思わず微笑んだ。祥子が身にまとっていたのは、昨日デパートで唐沢がプレゼントした洋服である。宮野は受付に全員が揃った事を告げると、程なくして体格の良い1人の男性が現れた。


「お待たせしました。ご案内します」男は降りてきたエレベータの方へ歩き出した。これ以上話す積もりはないらしい。男は24階を押し、高速エレベータは世間話の時間を与えず4人を目的地まで運んだ。男はノックを躊躇わせる重厚なドアの前で立ち止まり『ノック』をした。ドアには球団社長室とあった。


 3人を待っていたのは、見覚えのある2人の男と初めて会う男が1人。見覚えのある男の1人は球団社長の林。林を観るのはこれで2度目。1度目は八百長の会見である。テレビで観ると実物より太って見えるのは嘘らしい。もう1人はプロテストの時にいた監督の三枚堂。初めて見るのは、球団常務の岡本だった。


「ようこそシェパーズへ」林は立ち上がり唐沢達を歓迎した。「君の事は監督から聞いている。私もこの目で見たかった」

岡本が口を挟んだ。

「社長、これからいくらでも見る事が出来るではないですか?」

「それもそうだな」と社長は上機嫌だった。隣で聞いていた監督の三枚堂は困った表情をしている。

「それでは早速契約の話を進めようか」

再び岡本が口を挟んだ。

「社長、契約ではなくて仮契約です」

「そうか。そうだったな。まあ、いいじゃないかそんな細かい事は。どうせうちに入団してくれるのだから」

唐沢はいつもこの2人はこんな調子なのかと呆れた。


 唐沢の前に仮契約書が置かれた。目視で察するに30ページ程度。唐沢はそれを手に取り、内容には興味が無かったが一応目を通した。契約金と書かれた欄には5を先頭にゼロが6個か7個並んでいる。

「凄いじゃない。契約金が5,000万円よ」と言って祥子は唐沢を見た。

「それは唐沢君に対する球団側の期待の現われです。本当に期待していますから」唐沢にこの金額が高いのか判断付かない。祥子には驚く額であった。ここで再び岡本が割って入った。

「それは仮契約金です。15ページ目の条件を全て満足すれば満願を支払います。今日の時点では、半額の支払いとなっています」

「まあ、そんな堅いこと言わなくて良いではないか」林はとても上機嫌だった。

唐沢は15ページ目を見た。そこには、細かく条件が記載されていた。今シーズンの打席数。ヒット数。打率。打点。など。このハードルが高いのかは唐沢には判断出来ない。そして、唐沢は年俸に目を移した。1,200万円とあった。

「言っておきますがここで提示した数字は破格の金額です。実績の無い唐沢君に対してこれだけの金額を出すのは球団としては正に賭けに等しい」と岡本常務は舞い上がっている祥子に釘を刺すかの如く言った。祥子は嫌味なやつと言わんとして唐沢の足を蹴った。

「ご期待に沿えるように頑張りますよ」と唐沢は林に言った。

「それで監督。唐沢君はどの様に使っていくのかね?」林は三枚堂に尋ねた。

「先ずポジションを決めないといけないですね。代打の切り札的存在も可能性の一つですが。何れにせよ先ずは2軍で実績を積んで貰わないと。ところで唐沢はどのポジションを希望するのだ?」

唐沢は事前に打ち合わせた通りサードだと答えた。

「サードか・・・」監督は腕組みをして考えた。「畠山のポジションだな。畠山と争ってレギュラーになれると思うのか?」

「もちろん」適当に答えた。唐沢は、畠山を知らない。

「これは頼もしい」林は言った。そして宮野が提案した。

「この間、お話させて頂いた様に、体力さえ付けば2軍で実績を作る必要は無いと思われます。即1軍でやっていけると思いますが・・・」宮野は遠回りをさせたくない。しかし、この言葉が林の表情が一変させた。

「君は何様の積もりだね。何を言っているのかわかっとるのか?プロの世界を舐めて貰っては困る!今回契約するのは話題集めであって、何も期待しておらん!」と林は怒鳴り付け机を叩いた。宮野は顰め面で唐沢を見た。唐沢は内心可笑しくて笑いそうになった。この計画が始まって以来、目に見えてしんどい思いをしているのは祥子と2人である。宮野は陰で相当な苦労を重ねている事は承知していたが、実際に目にすると庇うどころか『林、もっと言え』と思っていた。


「申し訳ありません。そんな積もりで言ったのではありません。出来るだけ早くチームの為に唐沢がお役に立てればと思ったのです」

林は大人気ない自分に対してややバツの悪そうな顔を見せた。

「林さん唐沢君の起用方針は約束通り私に一任してください」と三枚堂はこの場を繕った。

「無論、現場に口を挟む積もりはない」林はきっぱりと答えた。

「今日の所はその仮契約書を持ち帰ってじっくりと読んでください。質問等不明点があればご連絡下さい」岡本がこの場をまとめた。そして電話を取った。

間もなくして、ドアがノックされ、先ほどの案内人がやって来た。

「後は川口君の指示に従ってください。質問も川口君に直接してください」と言って岡本は立ち上がった。どうやら社長室から出て行く時間が来たらしい。


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