第16話 荒川引退

 唐沢は試合後、急いで事務所へ向かった。いつも行っている事を省いて時間を短縮させた訳ではない。省く事があまりないのだ。ユニフォームを脱ぎ、私服に着替え、グローブとスパイクを鞄に仕舞ってロッカーを後にした。これらの行動をいつもより急いだに過ぎない。試合中であったが、荒川が正式に引退を発表した事を、唐沢はベンチで控えの選手から聞いていた。監督、コーチの耳にも入っていたと思われるが、その事には首脳陣は誰も触れなかった。


 八百長発覚後、自宅で謹慎した時点で荒川はチームにとって過去の選手になっていたことを改めて痛感した。携帯には、宮野からメッセージが残されており事務所で待つとあった。


 唐沢が事務所に入ると祥子に微笑み、祥子もそれを唐沢に返した。

「2人はそう言う仲だったんだ」宮野は二人をからかった。

「唇が横に開いただけだよ」とだけ言って唐沢は荷物をソファーに置いてシャワールームに向かった。これが唐沢のルーティーンである。

「俺は微笑みを言ったんだけど」宮野は相手を変えて祥子を見た。

「唐沢さんが言ったように何もないわよ」

「確かに何も気持ちは変わっていないだろうね。気持ちはね」

「無駄に敏感だと女性にモテないわよ」

「他人の事はよく分かるんだよ。仕事柄」

「そんなものかしら」

「そんなもんですよ」


 2人は唐沢がシャワーを浴びている間ニュース番組を観ながら待った。これも、ここへ来ると日課になっている。試合が長引くと唐沢が戻る前に日課のスポーツニュースが終わってしまう。そんな時は、翌日の試合がナイターの場合、深夜のスポーツニュースまで待たないと唐沢と一緒に観る事が出来ない。いつも二人は試合時間が短い事を願っていた。長い試合時間を一番嫌うのは唐沢本人であったが。


 今日の試合は、投手戦だったのかこれから明日の天気予報が始まるところである。それを見越したとは思えないがタイミング良く唐沢がシャワールームから出てきた。

「あ~、さっぱりした」

「唐沢さんは呑気ね。今日、宮野さんがここへ来た意味分かっているの?」本音として祥子は唐沢がシャワーを浴びる前にこの話をしたかった。

「ああ。知っているけど、今更、引退を撤回出来ないだろう」唐沢は気持ち良さそうにバスタオルを肩に掛けビールを開けた。

「そんなとこは、言われなくても分かっている」宮野の言葉には無念さが滲んでいた。

「でも、どうして荒川選手は引退しないといけなかったのかしら」祥子は素直に聞いた。

「荒川選手と話した訳ではないからなんとも言えない」宮野の言葉の無念さは増すばかりである。

「2人ともおかしくないか。荒川さんは引退したのだから、荒川と呼ぶのは」と言った後、唐沢は、ビールをグイッと飲んだ。

「唐沢さん、そんな事はどうでも良いと思いますが!」


『それでは、スポーツ行きましょう。先ずは、こちらのニュースからです。冒頭でお伝えしました荒川選手の引退会見の模様です』画面は荒川選手の引退会見に切り替わった。3人は話を止め、テレビに注目した。会見の概略は以下のようなものだった。

『荒川選手は今回の一件で現役を続けて行く気力が無くなったと引退の理由を説明した。応援してくれたファンを裏切るような事態になり潔くユニフォームを脱ぐのが自分の取るべき道である。


荒川選手は今の言葉で会見をスタートさせた。荒川選手からのコメントはそれ以上出されなかった。

これに対し報道陣からは無数の質問が飛び、それに対してひとつひとつ紳士的に答えた。


質問①:八百長に関与していないのであれば辞めるのではなく、プレーで証明するべきでないのか?

回答①:八百長に関与はしていませんが、現役中はプレー以外で聖域を侵されたくは無かった。自分が関与していなくても聖域が侵されたのは事実。


追加質問①:荒川選手が八百長に関与していないのなら、誰が関与したのか?

追加回答①:誰も八百長はやっていない。私と対戦した投手が八百長に関与していたのではないかと多くの報道が有りましたが、それは全くの誤報であります。


質問:②現役を続行していれば名球界入りは確実だったと思いますが、それを捨ててまで引退するのは聖域を侵されたと言う理由だけでは納得出来ませんが。

回答②:それは貴方の価値観で野球を見られているからです。私にとって名球界や記録なんて何の意味もありません。少し大袈裟かも知れませんが、記録は後から付いてきます。チームの勝敗を度外視すればもっと記録は残せましたから。ファンの印象に残るプレーをお見せする事が私にとってもっとも重要な事なのです。


質問③:どうしてこの時期に引退を決められたのですか?八百長疑惑発覚後何を考えておられたのですか?

回答③:正直迷っていました。やはり出来れば引退はしたくなかった。私でも球界の為に必要だと自負していましたから。ユニフォームを脱ぐと言う事は皆さんがお考え以上に決断は難しい。しかし、先日のシェパーズのナイトゲームを見ていまして、私が引退しても大丈夫だと思ったのです。


質問④:先日の試合のどの場面を見てその様に思われたのですか?

回答④:シェパーズの最終回の攻撃、ツーアウト満塁の場面です。代打で新人が登場しました。彼は初球のストレートを見逃しました。タイミングは合っていたにも関わらず。あの見逃しは記録より記憶に残る野球を目指す姿勢の表れだと感じました。本人に聞いた訳ではないので僕の想像ですが。そして、最後のホークボールも彼だったらヒットに出来た筈です。たとえ、ワンバウンドでも。しかし、彼は見逃した。

勿論あのボール球を打って伝説を残すのも一つの方法かも知れません。彼の登場で私は引退を決意しました・・・・。皆さんのお顔を拝見していると、私の言っている事がご理解頂けているのか分かりませんね・・・。もう少し簡単に説明しましょう。


 あのツーアウト満塁の場面、一番やってはいけないのは、何だと思いますか?そう、それは、見逃しの三振です。つまり、ピッチャーの原下が投げたホークは最高のボールだった。あのボールは三振して良いのです。見逃しの三振ではなくて、空振りの三振です。誰もがそれで納得するのです。ただ、あのボールをあの場面で投げる事が出来た原下の技術を称えれば良いわけです。しかし、プロの選手なのでバットを振らないといけません。

 もし、見逃しの三振だったら唐沢はベンチに戻れません。ファンも納得しないし、代打を送られた選手も納得しない。そして、代打を送った監督は責任を取る事になる。そんな場面であのボールを見逃すはなかったのです。


 この後も記者からの質問は途絶えなかったが番組内での会見はここで終了となった。キャスターは今の荒川選手のコメントを聞いて江田に意見を求めたが、どうも江田に振り難そうだった。それは、江田が解説した唐沢の打席と荒川が感じ取ったものと、あまりにも乖離していたからだ。しかし、江田はそんな事を気にする素振りも見せずに答えた。


「このタイミングで引退を表明するのは如何なものですかね?やはりプロの選手ですからグランドで結果を残すべきでしょうね。本人は認めていない訳ですから辞める理由が分からないですね。ファンの方も残念がっていると思いますよ」


 江田は現役引退を表明した荒川に対して八百長の可能性を暗に示唆した。同じ舞台に立った2人でも目的、技量、思考の違いで噛み合わないものなのだ。

「それでは球界の反応を見てみましょう」


画面は球界を代表する人物のインタビューを流した。

球界を代表する大投手。勝利数日本プロ野球一位保持者。

『辞めるのは本当に残念。こうなった原因を徹底的に追究して欲しい』


ミスタープロ野球。

『プロ野球界をもっと盛り上げてもらいたかった。スターの心得を何度も彼には教えたのですがね』


日本球界最多安打記録、連続打席安打記録、年間最多安打、年間最高打率の数々の打撃記録保持者。現在フォエールズの藤堂監督。

『残念としかいいようがないね。俺の記録に迫る選手がようやく出てきたと思っていたのだが』

記者は質問した。『荒川選手が現役を続けていれば記録を更新していたと思われますか?』

『そんな予想なんて出来る訳ないだろう。記録と言うのは実際に起こった事だから。歴史なのだよ。可能性は誰にだってある』


「この人本当に凄い人だったの。そうは思えないけど・・・」コメントを聞いていた祥子が宮野に尋ねた。

「まあ、あそこまで記録を残したのだから大した打者だと思うよ。並みの打者ではないのは間違いない。しかし、プロでやって行くにはプレッシャーの下で実力が出せるかどうか。ゴルフでも練習場では一流も二流も技術的には変わらない。しかし、プレッシャーが掛かると本当の実力を身に付けたものだけが練習通りのプレーが出来る。本当の実力って特定の場面でしか計れない。野球も同じで大きなプレッシャーの掛かる状況で結果を残す事がファンを興奮させる。だから、同じヒットでも負け試合や、ランナーの居ない時と、チャンスでヒットを打つ場合では、記録では同じヒットだけど記憶には同じ様に残らない。だから、記録だけが良くてもファンに愛される選手にはならないのだ。ドラマに筋書きがないのと同じようにね」


「荒川選手が求めたのは愛される選手なわけね」祥子は宮野に言った。

「そう言うことになる」と言って宮野は頷いた。「しかし、愛されない選手と言うのは記録に凄まじい拘りを持つ。その人にとっては記録とは自分の証になってしまっているのだ。だってそれ以外に自分の歴史を物語るものが無いのだから」

祥子は宮野の言った言葉を考えていた。

「じゃあ、あのインタビューに答えていた人は荒川選手が引退した事を内心歓迎しているのかしら?」

「確かに荒川選手が現役を続けていたら何れどれかの記録は塗り替えていただろうから」

「なんだろう。そう言うのって詰まらないわ」祥子はそう言うと唐沢を見た。

「そう言う事。だから唐沢は最後の打席で打つことを止めたのだよ」


 祥子は少しずつ意味が理解出来てきたが、どうして打たない事が愛される選手になるのかが依然分からなかった。

「宮野」無言でニュースを観ていた唐沢が言った。「これは仕方がないことだよ。荒川さんの様な選手が出てくるのが早すぎたんだよ。プロ野球の成熟度が追いついていないと思う」

宮野は無言で聞いている。唐沢が続けた。

「日本球界は何かで守られているような気がする。悪い意味で」

「何かとは?」宮野が言った。

「具体的には分からないが。そもそも、おかしいだろう。メジャーリーグでは、外国人選手枠なんてないだろう。どうして日本球界には存在する」

「まあ、色んな事を言うやつがいる。無制限にドアを開けば日本人選手に活躍の場が無くなるだの、米国は多民族国家だの」宮野もこれらの論理が正しいとは思っていない。

「そんな難しい話なの?荒川さんが犠牲になったのはもっと単純な事よ。なぜ、能力がある人がこんな目に遭わされるの。ただ、野球が好きで努力を惜しまない人が」


 無垢な問いの前に2人は何も言えなかったので祥子は続けた。

「スポーツっていくら人類が凄いモノを開発しても身体を使うのよ。それが基本なのだから難しい話なんかいらないわよ。全ての人にチャンスを与えて勝ち残った人が戦えばいいの」

祥子は思わず立ち上がっていた。

「祥子の言う通りかも知れない。難しいことは何もない。荒川さんは祥子が言った基本的な事、純粋な事が出来なくなったから辞めたんだよ」


 唐沢は祥子に同意した。途轍もなく賛成した。だからこそ、今、自分がやっていることが正しくないと思えた。本来、人間が持ってはいない力を使っているのだから。しばらく、唐沢事務所に沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは宮野だった。

「そうだ。言い忘れる所だった」

「どうしたの?」祥子が言った。

「覚えているか。この間、事務所の前に停まっていた車の事?」

「ええ。覚えているわよ」

「所有者が分かったよ」

「誰だったの?」祥子は尋ねた。

「警察の車輌だった」

「警察!」祥子は困惑した。「どうして警察が私たちの事を調べるの?」

「俺たちと同じ理由だろう」唐沢はビールの缶を開けながら言った。

「荒川さんの事?」

「ああ、そうだよ」唐沢は言った。

「でもどうして私たちが関係していると思ったのかしら」

「・・・恐らく俺から辿り着いたのだろう」宮野は小さく言った。「でも心配は無い。俺たちは法を何も犯してはいないから。しかし、順番が狂ったな。蛇を誘き出すつもりだったのに竜が出てくるとは」と言って宮野は照れた。

「遅かれ早かれどの道出てくるのだから。役者が揃って来た」唐沢は平然としていた。


「その竜に関してなんだが・・・実は続きがある」宮野は言い辛そうに続けた。「あの車輌は殺人課のものだったのだよ」

「それってどう言う事なの?」祥子が尋ねた。

「やつらは八百長の調査じゃなくて殺人事件を調査しているって事だよ」宮野はそう言って荒川が言っていた言葉を思い出していた、『危険だと』。

「そりゃ辻褄が合わない。どうしてお前が殺人事件に関係しているのだ?」唐沢には身に覚えがない。祥子の可能性も低い。

「今更こんな事を言うのは心苦しいのだが・・・」宮野は躊躇った。

「宮野さんハッキリ言ってちょうだい」祥子は促した。

「殺人課が調査している事件を調べたら飛んでもない事が分かった。八百長事件の数日前、荒川選手の隣に住む男性が殺害されている」

「殺害って。誰が殺されたの?」祥子は言った。

宮野は鞄から事件に関する記事を取り出した。

「これがその殺人事件の記事だ」

唐沢と祥子はその記事を注意深く読んだ。

「それでこの事件の進捗はどうなっているのだ?」唐沢が宮野に尋ねた。

「詳しくは分からないがあまり進展がないようだ」

「面白くなって来たな」


 唐沢は、ビールをグッと飲み込んだ。そして続けた。

「こりゃ、想像以上の大物かも知れないな。もう少し網を広げないと入らないな」

唐沢は言葉に気持ちを込めた。

「バカ言うなよ。広げすぎると破れるかも知れない」

宮野は現実的である。

「そんな事はどうでも良いでしょう。破れるだの破れないだの。どうするつもり。殺人犯が相手なんて」

祥子は素直な気持ちを出した。

「言い忘れていだが、今日、捜査一課の大村に会った。説明すると面倒だが色々と経緯いきさつがあって。俺たちの計画を話したよ。もしもの時は大村に頼むよ」

「もしもと言わずに任せましょうよ。これは警察の仕事なんだから」

祥子はもっともな意見を言った。

「逮捕するにも獲物がいないと出来ないからな。その獲物を誘き出すのは俺たちの役目だよ」

唐沢は、打者として勝負してきた投手達の魂の籠もった球を打ち続けて来た。それらはとても重く、いつまでも唐沢の手に感触を刻んでいた。唐沢は続けた。

「宮野、荒川さんの無念は俺が取る」

唐沢は強く言った。宮野は、分かっているよ、と返した。

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