第15話 植田殺人事件(2)

 宮野が麹町駅すぐにある喫茶店を訪れた頃には、太陽は数時間前に消えていた。辺りは暗い筈であったが暗さは実感出来ない。都会では自然の法則、『夜』イコール『暗い』は成立しない。夏至は2ヶ月前に終わっているが体感としては、今が一番長いのではないかと思わせる程に、外は暑い。ヒートアイランド現象による温度上昇が感覚を狂わせているのだろう。暦で示される自然の移り変わりは、本来、人間の感覚と相関しているはずだ。いつの頃からこれ程の開きが生じたのか。


 宮野がここへ来た目的は警視庁の生活安全課に勤務している片山茂夫に会うためである。この時間を指定したのは、片山である。宮野に決定件はない。片山が指定したのは、時間のみで8時過ぎなら会えると。宮野は当然お酒と食事の両方を満たす別の場所を確保していたが、片山は会う前にあまり時間が取れないと言い、食事は済ませて来ると宮野に告げた。宮野も何も食べずにこの時間まで過ごせず、ここへ来る途中軽く済ませていた。宮野がこの場所を選んだ理由は、急であったので選択肢が少なかったのと、店には失礼だが、客が少ないからである。


 店内は予想通りの空き具合であり、座ろうと決めていた席で宮野は片山を待った。片山は、時間通りに現れた。いつもなら遅れてくるのだが。入り口のドアは開かれるたびに音を鳴らすから、必要最低限の従業員しかこの店にはいない。


 宮野の席からは入り口は見えないが、音は聞こえる。音がなり時計を見ると8時5分であった。片山ではないと宮野は思いながら入り口の方向を見ていると本人が現れた。宮野は驚いた表情を見せながら、片山に微笑んだ。

「宮野さん、わるかったな。土壇場で場所かえちゃって」片山は会うなり宮野に謝ったが表情は言葉ほど罪悪感を示さない、ただの挨拶替わりである。思えば片山は宮野に会うと必ず一言目は謝罪から入る。いつもなら、遅れて済まない、と。


「気にしないでください。それよりすいませんね。お忙しい所お呼びだてして」

「気にせんで、よいよい。嫌なら来んから。まあ、あんたには貸しがたまっとるしの」

宮野は、照れ笑いを浮かべながら軽くお辞儀をした。

「本当に、食事はいらないですか?」

片山は、食べてきたと告げたため、宮野はコーヒーをふたつ注文した。

「早速ですが何か分かりましたか?」宮野は、クラウンの照会を頼んでいたのだ。

「俺も驚いたわさ。何が掛かったと思う」

片山は、焦らせた。その価値はあるようだ。

「全く検討つきませんよ」

宮野は内心苛ついたが表情には表さなかった。後輩なら許さないところである。


「あれは、捜査一課のもんだったわ。最初から分かっとったら引き受けんかったわい。お前さんに一杯食わされた」

片山はじっと宮野を睨んだ。

「片山さん。勘弁してくださいよ。警察の車両だなんてこれっぽちも思っていませんでしたよ」

片山は宮野を信用した訳ではないが少し微笑んだ。宮野は、顔を片山に寄せた。近くには誰も居なかったが。

「それでどう言うことですか?警察が何の為に私たちを?」

「3ヶ月ほど前になるかな。荒川の自宅の隣には老夫婦が2人で住んどった。名前は植田と言うんやが、そこの主人が何者かに殺害されよった。今んとこ、ろくすっぽ捜査は何も進んどらん。えらいピリピリしとるわ」


 宮野自身、その事件の事は覚えていた。事件発生時は、住所が荒川選手の近くだったため、驚いた記憶が残っていたのだ。『ちょっと待って・・・』忘れていた殺人事件が突然飛び出して来て宮野は驚いた。

「その事件なら覚えていますよ。でも、その殺人事件と我々がどう関わっているのですか?」

「そこまでは分からんよ。そやけど、捜査一課がマークしとるのはどうやら荒川やわ」

「何ですって!捜査一課は荒川選手を容疑者と思っているのですか?」

「ちゃうちゃう、容疑者とまでは思っとらんよ。まあ、事件に何らかの関係性があると睨んどる」

「片山さん、その殺人事件ってどういったものですか?」


 宮野は、詳細までは覚えていなかった。片山は、内ポケットから手帳を取り出し、捜査会議さながらに宮野に伝えた。

「さっきも言ったが、殺害されたんは植田優夫69歳。死亡推定時刻は、えっと、4月17日21時半頃やな。凶器はナイフと思われる鋭利な物。死因はその凶器で喉を切られ出血によるショック死やて。現場には家族以外の指紋は検出されんかった。妻の一恵によれば家からは何も盗まれておらん。優夫は妻の一恵と2人暮らし。これはさっき言ったか」片山はニヤッとして続けた。


「聞き込みの結果、目撃者はなし。状況から推測するに盗みが目的やなく、怨恨の線を睨んどる。そやけど怨恨やったら、相手を痛め付けてから殺害する。でもな、今回は違うわ。殺害する事が目的みたいや。犯人の足跡と見られるものが残っとったが、手掛かりはそれだけや」

宮野は、片山をずっと見ていたが話が終わると目を閉じて少し考えた。そして口を開いた。


「どうも分かりません。その殺害された植田と荒川さんの接点は住んでいるのが隣同士。それだけですよね。なぜ、荒川さんが疑われるのか分かりません」

片山は運ばれて来たコーヒーにゆっくりと手を伸ばし、二口啜って言った。

「この事件を担当しとるのが、捜査一課の大村や。実際に捜査しとるんは部下の吹石や。宮野、お前はホンマに知らんのか?」


 片山は一転して鋭い目を宮野に向けた。実は宮野自身嫌な記憶が脳裏を走った。荒川の近辺を聞き込みした時、佐百合から荒川の車がレッカーで運ばれている所を目撃したと聞いていた。そして、吹石よりも先に佐百合に会って事情を聞いていたのだ。どのように植田殺人事件と荒川が繋がっているのかはっきりしないが、宮野はその可能性を払拭出来なかった。片山は知っている事を全て話すと、これから行く所があると言って勘定を払わずに店を出た。宮野から、あれこれ質問されてもこれ以上の事実は持ち合わせていない。宮野も突然の展開に的確な質問が出来なかった。


 宮野は、喫茶店のエアコンの設定が強い事にようやく気付いた。入店したときから設定は変更されていない。荒川の八百長疑惑に殺人が関わっているとは予想外であった。既に、唐沢はこの件に足を踏み入れている。片足どころか両足でガッチリ踏み込んでいる。祥子も同様である。そして、宮野は思った。荒川はこの植田殺人事件について何かを知っているのではないかと。


 喫茶店で放送されていたテレビから速報を知らせるアラームがピッピッと鳴った。それまでテレビの存在には気づいていなかった。画面にはテロップが流れた。荒川選手が正式に引退を発表した、と。宮野は目を疑った。早まった事を、と同時に、とうとうこの日が来たのかと言う思いが交錯した。荒川が球場を去った時に宮野は悟っていた。荒川の中で引退を決意していると。だから、唐沢に今回の事を頼んだのだ。


「ついに引退か?」

見知らぬ男が宮野の前に座った。先ほどまで片山が座っていた席である。いかにエアコンの設定温度が低くとも片山の温もりは少し残っているであろう。

「どこかでお会いしました?」

仕事柄宮野はどんな場面であろうと取り乱す事はないが、男の振る舞いも取り乱す必要性を宮野に与えない。髪は短く、片山ほど恰幅は良くない。ただ、2人が争えば目の前の男に分がありそうだ。年は、宮野と片山の中間あたりの45歳前後。


「いや、初めてだと思う」

男も宮野同様冷静である。宮野は周りの席を見回し空いている事を確認する。宮野は目の前の男に同類の匂いを嗅いだ。

「大事な話でしょうね」と宮野は言った。

男は手を挙げて店員を呼んだ。コーヒーを頼んで言った。

「ご名答」

「それだったら平等な立場になりましょう。貴方は私の事を知っている。私は貴方の事を知らない。目の前の壁を取っ払いましょう」

男は笑みを浮かべた。

「捜査一課の大村だ」

宮野は笑った。

「なるほど。片山さんですね。こんな演出をするのは」

「気に入ってもらったのなら伝えておく」


 店員は、コーヒーを大村の前に置いて行った。

「それには及びません。それで、今日は?」

「他に無いだろう。こんなところで見知らぬ男に会う理由は」

「まさか私を逮捕する訳じゃないでしょう?」

「もちろん、逮捕するよ。犯人を。。。荒川は引退したようだな」

大村は宮野をじっと見た。

「貴方にも興味はありますか?」

「そりゃそうだろう。日本中が興味を持っていたよ。荒川の去就には、な」

「荒川の去就に興味を持っているやつなんてほんの一握りですよ。他の連中はどうでもいい」

「手厳しいね。何を企んでいる。荒川の敵を打つのか?」

「何のことですかね?」

「唐沢だよ。関係があるのだろう。荒川の八百長疑惑と唐沢のプロ野球デビューは?」


 宮野は隠すつもりは無かった。大村は宮野にとって敵ではない。計画を知られても邪魔はされない。法を犯している訳ではないのだから。

「お察しの通りですよ。今度は私からも聞かせてください」

大村は、頷きながらコーヒーを啜った。

「大村さんは植田殺人事件を追っていますよね。荒川さんとの関係はどうなっているのですか?」

「ストレートやね。俺も回りくどいのは好まないからいいけど。その質問にはまだ答えられない」

宮野は素直に受け取った。

「だから今日ここへ来た訳ですね」

大村はコーヒーを飲みながら頷いた。

「大村さんのお考えの通りですよ。私は荒川選手の仇を打ちたい。ただそれだけですよ」

「それで、どこまで分かっている?」

「まだ、何も分かってはいませんよ。ようやく準備が整ったところです。唐沢が荒川選手、いや、もう選手と言うのは違っていますよね。とにかく、唐沢が活躍すれば、何かが始まると思っています」

「つまり、こう言うことか。唐沢も荒川同様に妨害されると?」

「ええ。それを待っているのです」

「それで、その犯人が植田殺害に関係している可能性があると」

「そこまでは分かりません。でも、可能性は出てきました。荒川選手が八百長をやるには相当な理由があるはずです。嫌がらせくらいで八百長なんてしませんよ」

「なるほどな」

「大村さん。犯人は私たちが誘き出します。その後は、お任せしますから」

大村は黙ってコーヒーを飲み干した。

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