第13話 首位決戦
8月4日(火)、2位のシェパーズはホームに首位のジャイアンツを迎える。今日から首位攻防戦の3連戦がスタートする。観客は異様に興奮していた。その理由はペナントレースのトップを走るジャイアンツに対してゲーム差1でシェパーズが追いかけている。この時期の混戦はファンにとってはたまらない。
シェパーズは今シーズン中盤で一度ゲーム差1までジャイアンツに迫ったが、並ぶ事をジャイアンツは許さなかった。数字以上にシェパーズとジャイアンツには実力の差が有ることは解説者を含め、この球場にいる誰もが認めていた。
ジャイアンツは現在ペナントレースを3連覇中である。ただ、この試合でシェパーズが勝てば首位に並ぶ事も事実である。2軍では勝利に対する拘りを感じられなかったが、今唐沢がいるベンチでは勝利への執念がヒシヒシと感じられた。監督の唐沢へ対する期待もかなり高いように映るが先発メンバーには唐沢の名前は無かった。
この様な試合はシーズン143試合中数試合もない。万年最下位のチームはこのような経験はできない。この試合で勝つ事、打つ事、抑える事は、ファンの記憶に擦り込まれる。
ファンは試合前から既に同化している。通常の試合はプレイボールから徐々にファンの感情は揺さぶられ、ようやく終盤になると海馬が刺激される。勝負を決めるプレーをするとそれは海馬を通り大脳新皮質へと長期保存されるのだ。この試合は、既に海馬が活性している。
シェパーズのホームゲームなので先にジャイアンツが攻撃を行う。シェパーズの先発杉浦は最高の立ち上がりを見せた。杉浦は、シェパーズ先発陣の中で一番経験がある。この様な試合でも平常心でピッチングが出来る。先頭の二村をライトフライに打ち取ると2番の岡村を三振、そして3番の高橋も三球三振に切って取った。いつも冷静な杉浦には珍しくマウンド上でガッツポーズが飛び出す。それもその筈、ワンアウトを取るごとに球場が沸きあがるのだ。
一方ジャイアンツの先発の原下もインコースを厳しく付く強気の攻めでシェパーズの攻撃を三者凡退で切って捨てた。唐沢は本来の目的を忘れてベンチからの野球観戦を楽しんでいたが、同時に体が武者震いするほどに気持ちが高ぶっている。唐沢はベンチ裏に下がり鏡の前で素振りをして膨らむ高ぶりを発散した。
『何て事だ。こんなに興奮して。お前の目的は八百長調査のはずだろう。試合に勝つ事ではない』とシェパーズのユニフォームを身に纏った自分自身に言い聞かせた。ここへ来てようやくプロ野球選手である意義が少し分かったような気がした。
五回を終わって両チーム無得点と投手戦の様相を呈していた。シェパーズが放ったヒットは3本、これに対してジャイアンツの放ったヒットは2本とほぼ互角。唐沢は五回表の攻撃終了時に行われるグランド整備中に、ベンチから球場に出て一塁側の観客席を覗いた。祥子と宮野が観戦している。生意気の様だが唐沢は今日のチケットを球団に二枚頼んでいた。唐沢は自分に手を振っている一人の女性に目を留めた。唐沢の後ろに人気選手が立っていたら別の話だが、唐沢にファンが手を振る事はない。唐沢は祥子に軽く手を挙げた。祥子の隣に宮野も見える。唐沢はベンチに戻り自分の出番を待った。
試合は八回まで進み依然として両チーム無得点。先発の杉浦は九回表のジャイアンツの攻撃を気迫で無得点に封じ込んだ。ベンチに帰ってきた杉浦は肩で大きく息をしていた。精根尽きている。次のイニングを投げる力は残ってはいない。チームの士気は杉浦の熱投で頂点に達していた。そしてその思いはベンチにいる全ての選手にも伝わっていた。それを受け取れない、人間はこの場所にいらない。例外なく唐沢にも感じ取れた。
シェパーズの攻撃は運よく1番の木下から。打撃コーチの池田は木下に死球でも何でもいいから必ず塁に出ろ、と指示した。自分に近いボールは避けるな、と言う事だ。チーム全員、いや場内全ての観客の期待が木下に集まる。一流と二流の違いは足が震える場面に晒された時に結果を出せるかによる。こんな状況で結果を出すためには、体が勝手に反応する必要がある。努力に裏付けされたものだ。
脳からの指令では遅すぎるし、緊張によってちゃんと伝達されない。体に覚え込ませる必要がある。記憶に残るプレーこそがファンの間で語り継がれる。全てのヒット、ホームランは記録として永遠にデータを管理するサーバーに残る。しかし、人間の脳に刻まれるには場面と言う条件が必要なのだ。
木下は期待通り粘った。ストライクとボールの判定が付かない球はファールで凌いだ。カウントはツーストライクスリーボール。あとボールひとつで四球である。
ジャイアンツの原下は渾身のストレートをアウトコース一杯に投げ込んだ。審判の右手はピクリとした。直感の判断はストライクを宣告したのだ。しかし、右手は挙がる事はなかった。最終判断はボールだった。木下は命拾いした。ボールだと思って見逃したのではなく、手が出なかったのだ。ベンチで見ていた唐沢の判定はストライク。唐沢が審判だったら誤審はなくなるだろう。マウンド上で原下は何やら審判に対して叫んでいたがベンチにいる唐沢には聞こえない。球場の声援がそれを阻んだ。ジャイアンツ側のベンチもかなり興奮している。ジャイアンツベンチからも審判に対して罵声が飛んでいた。
2番の上田には送りバントの指示が出された。同時に三枚堂監督は唐沢に準備をするように指示を出した。上田は初球の変化球を見逃した。しかし、判定はストライク。三枚堂監督は帽子を取ってベンチに叩き付けた。『あいつは何をやっとるんや!』確かに投球はストライクだったがこの状況で初球の変化球をバントするのは難しい。
そして二球目、上田はバントした。高めのストレートだったが上手く三塁側へ死んだゴロを転がした。
上田はナイン全員にハイタッチで迎えられた。上田の表情は数日経過した風船の様であった。唐沢はこの場にはいない。奥で代打の準備をしている。ここで打席に入るのは3番の浜田である。浜田にはサインは無く、どんな状況でも打つだけ。その為に高い年俸を貰っている。浜田は初球のストレートを打った。芯で捕らえた強いゴロがライト側へ飛んだ。セカンドの二村が飛びつき、グラブの先にボールは引っ掛った。二村は瞬時に態勢を整え一塁に送球。判定はアウト。しかし、この間に二塁にいた木下は三塁に進塁した。この木下がホームに帰れば劇的なサヨナラ勝ちとなりジャイアンツと並び念願の首位となる。
三塁側から監督自らマウンドに歩み寄り、傘が閉じる様にジャイアンツの内野陣がマウンドに揃った。唐沢はこの光景をテレビで観るたびに何を話しているのか気になっていた。まさか試合後行くキャバクラの相談をしているのではないかと。話が纏まったのか原監督はピッチャーの原下のお尻を叩きベンチに小走りで下がった。マウンドに向かう時はゆっくりと歩いていたのに。唐沢は原下の表情をモニター越しに見た。そして唐沢は原下に謝った。『もし、俺が代打で出ると必ずヒットを打つ。君には恨みは無いが仕方が無い事』
ジャイアンツの選手は守備位置に着いた。そしてアナウンスは4番のバレトンを紹介した。バレトンの顔は恐ろしく怒っているように見えた。アウトカウントはツーアウト。バレトンは打席に入り足元を成らした。そしてバットを刀の様に立てて刻印されたマークを胸の前で確認した。そして構えに入った。と同時にキャッチャーの安部は立ち上がった。敬遠である。これは最善策である。一塁と二塁が空いている。守りやすい満塁にした方が良い。この状況で一点失おうが二点失おうが関係が無い。それに4番と勝負するより5番も歩かせて6番の森と勝負した方が押さえられる可能性が高い。
4番のバレトンと5番の工藤は敬遠で歩かされた。場面はツーアウト満塁、九回裏、得点は0対0の同点。こんなシビレル場面はシーズンを通して限りなく少ない。下位に甘んじている球団に所属していては一生経験出来ない。プロの選手である以上、この場面で打席が回る事に感謝しなければならない。
三枚堂監督は、唐沢を呼んだ。
「お前行けるか?」三枚堂の目は大きく見開かれていた。
「もちろん」唐沢は答えた。この場面に呼ばれても唐沢は冷静でいた。試合開始からこの回の攻撃まではかなり興奮していたのだが。
「俺はおかしな監督なのかも知れないな」
三枚堂は代打に唐沢を使おうとしている自分に吐いた。
「僕が監督でも同じ事をしたと思いますよ」
唐沢は監督が下そうとしている判断に寸分の狂いもない事を告げた。
「よし!」と言って三枚堂はベンチをゆっくり出た。そして打席に向かおうとしている森を呼んだ。森は何かアドバイスを監督自ら伝えに来たのだと思い監督に歩み寄った。
「森。代打を使わせてくれ」
森は次に控えている唐沢をみて、監督に攻撃の目を向けたが三枚堂監督の眼光はきっちりと跳ね返した。森は呼吸を止めた様な顔で頷きベンチの方へ歩いて行った。この場面で代打を送られるほどの屈辱はない。それも新人に。三枚堂監督は主審に代打を告げた。
「代打唐沢!」
主審は聞き取れたが公式にアナウンスする前にもう一度監督に確認した。
「唐沢ですか?」
「そうだ!」と三枚堂は叫んだ。
主審はバックネット裏にある公式判定委員に代打(唐沢)と告げた。三枚堂監督がベンチに戻ると森は血相を変えて監督に詰め寄った。どうにも我慢出来ない。
「どうして僕の代打が唐沢ですか!」
「監督の俺に意見などするな!」と監督の三枚堂は一括した。森はベンチ裏に下がりロッカーを思い切り蹴り飛ばし、唐沢が凡退することを願った。その音はベンチまで響いた。チームメイトは皆森に同情した。もし、ここで唐沢が凡退に終わればシェパーズは優勝出来ないだろう。大袈裟かも知れないが三枚堂は監督を辞める覚悟で今回の決断を下したのだ。結果が伴わなければ三枚堂の采配は非難の的になる。荒川が抜けた今、優勝には何かがこのチームに足りないと三枚堂は思っていた。確かにこれまで頼り切っていた荒川が抜けた事でチームは結束した。雰囲気も優勝に向けて盛り上がってきている。しかし、ジャイアンツを追い越すには起爆剤が必要だと三枚堂は睨んでいた。三枚堂は、プロテスト時の唐沢の打撃が脳裏から離れなかった。そして、その足りないものとは、あの時の衝撃だと三枚堂は信じていた。打撃コーチの池田は監督に近寄った。
「監督、これは大きな賭けですよ」
三枚堂は何も言わなかった。言われなくても分かっている。池田が本当に言いたかったのは何故唐沢を、何の実績も無い唐沢を、使うのか。三枚堂は自分の手が震えている事に気付いた。それを隠す為に腕組みをし、拳を握り締めた。汗の粒が掌で潰れるのが感じ取れた。
興奮がピークにある場内にアナウンスが流れた。『6番ライト森に代わり代打唐沢』。沸騰中の鍋に冷水を入れたかのように場内はシーンとした。シェパーズのファンからもブーイングが湧き出した。『ゲームを捨てるきか!』『森を出せー!』色んな罵声が飛び交ったが全て同じ意味だった。この代打を好意に受け取っているものも多くいた。ジャイアンツのファンだったりジャイアンツのベンチだったり、そして一番歓迎したのは、ピッチャーの原下だった。
ジャイアンツの監督原は延長が確定した事を受けて、継投の方針をブルペンに伝える様に投手コーチに告げた。三枚堂の代打宣告に慚愧を投げつける一塁側の声に埋もれて、唐沢に声援を送る声が混じっていた。球場全体の注目を唐沢が浴びていたが、唐沢を声援する祥子も周りから注目されていた。唐沢にはその声の主を強い目で見た。そして、誓った。貴方の周りにいる、貴方を不思議の眼差しで見ている輩を俺が思い知らせてやる、と。他のファン達の視線はどうでも良い。
唐沢はウエイティングサークルでバットに滑り止めのスプレーを振った。冷静な唐沢でも身体は正直で手には大分汗が滲んでいたのだ。唐沢はスプレーを捨ててバッターボックスへ向かった。依然として球場はおかしな空気が充満している。唐沢はピッチャーの原下を見た。原下はこの絶体絶命のピンチにも関わらず余裕の表情を浮かべている。唐沢の負けず嫌いの性格に拍車を掛けた。唐沢は原下に笑いかけた。原下はランナーがいたが振り被った。そして初球を投げ込んだ。原下の投じたボールはベースのど真ん中を通過した。原下はストレートをど真ん中に投げ込んだのだ。原下が唐沢を最大限に見下したボールだった。唐沢はそんなボールを見逃した。球場が大騒ぎになった。もはや雑音は唐沢には届かない。
「唐沢さんどう言うつもりなの?今の球は真ん中でしょ!緊張しちゃって動けないのかしら」祥子は唐沢がどうして今のボールを打たなかったのか分からなかった。
「あれが唐沢なのだよ。あいつは今の状況を楽しんでいる」
「本当に唐沢さんにそんな余裕があるの?」祥子は宮野の言葉を信じられない。
「まあ、観ていて」宮野は自信たっぷりに言ったが手に持っていたビール缶はぺしゃんこだった。
原下はキャッチャーからのボールを受け取った。その表情は一球目を投げる時とは明らかに違っていた。初球の挨拶ボールを唐沢が微動だにせずに見逃した事に原下は頭に来ていた。本来ならこんな生意気な新人には頭を目掛けて投げる所なのだが、ツーアウト満塁だから万が一当ててしまうと、押し出しでサヨナラ負けになってしまう。
『本当に俺も舐められたものだな。こんな新人を代打に出されるとは』原下はそう呟きながらキャッチャーのサインを読んだ。そしてそれに頷き再び振り被った。二球目も渾身のストレートを投げ込んだ。その球は一球目とは明らかに違っていた。原下の投じたストレートはキャッチャーの構えたインコースに真っ直ぐに向かってきた。ボールはインコースギリギリのストライクゾーンだ。キャッチャーは『よしっ』と叫んだ。ボールはベースの角を掠め、キャッチャーはミットを閉じ始めた。しかし、ボールはキャッチャーミットまで届かず、ミットに入る寸前にバットの真芯で捕らえられた。唐沢は思いっきり引っ叩いた。
「そんな馬鹿な!」キャッチャーは叫んだ。「どうしてあのタイミングでバットに当てられるのだ」
原下は何が起こったのか一瞬分からなかった。原下は完璧なコースに投げ込んだ。信じられない様子で打球の行方を追った。打球はサードの頭上を越えてカーブが掛かりファールグランドに落ちた。原下はマウンド上で呆然としていた。唐沢の打球を見ていたシェパーズのファンは大騒ぎだった。まるで先程のカオスが整理整頓されたように。キャッチャーは慌ててタイムを要求した。シェパーズ側のベンチもナインが全員前に乗り出してきた。唐沢もバッターボックスを外してウエイティングサークルで滑り止めスプレーを再びバットに振りかけた。興奮のあまり力が入り過ぎた。次の打者の盛岡が唐沢に声を掛けた。
「知っていると思うけど、原下の勝負球はホークだから。やつのホークはかなり切れるから注意しろよ」盛岡も唐沢に期待し始めていた。
「それじゃ、そのホークを打ってやるかな」唐沢はそう言ってゆっくりとバッターボックスに向かった。
マウンド上ではキャッチャーの安部が原下に言った。
「あいつお前のストレートを完璧に打ち返した。それもインコースギリギリの球を」
「そんな事は分かっているよ」原下は苛立っていた。
「勝負玉はホークで行こう。ワンバウンドになっても止めてやるから思いっきり投げろ」と安部は原下に言った。ホークボールは指に挟んで投げる為に、指に引っかかり過ぎて暴投になることがある。ランナーがいない場合は暴投でも問題ないが、この場面では致命的だ。しかし、原下のホークは一流打者でもバットに当てる事は難しい。
キャッチャーの安部は原下のお尻を叩いて気合を注入し、ホームベースに戻った。当の原下は尻を叩かれた感覚はない。新人相手にする会話ではない。安部のアドバイスが原下をさらに激高させた。審判はプレー再開を告げた。原下は安部のサインを見た。安部はインコース高目のストレートを要求した。しかし、今回はストライクゾーンではなく唐沢の顔ギリギリを要求。勝負球への布石である。原下は頷いた。再び振り被りサイン通り投げ込んだ。
「頭に当たるな」原下の投じたボールを見て宮野は言った。祥子は思わず目を覆いそうになったが途中で手を止めた。最後までちゃんと見ないといけない。唐沢は原下が投じた瞬間ボールは自分の顔に向かって来るのが分かった。唐沢はボールをぎゅっと睨んだ。ボールは段々大きさを増してきた。全ての感覚を閉じ込めボールだけを睨んだ。潜っていたふたつの目が浮かびあがりボールの縫い目までが鮮明に見えた。右目からは父親の目。そして左目からは母親の目が・・・。ボールは唐沢の顔を掠めてキャッチャーミットに収まった。唐沢は全く避けなかった。祥子はもういてもたってもいられなかった。
「もう本当に何を考えているの!なぜ避けないのよ!」祥子は本気で怒っていた。
「しかし、原下は流石だな。唐沢は避けなかった。原下は、唐沢の顔ギリギリをねらった。そして、数センチの誤差もなくこの極限状態で投げきった。これがジャイアンツのエースなのか」
宮野は更に続けた。
「さっちゃん、最近こんなに興奮した事ある?」宮野は冷静に尋ねた。
「こんな事何度も起こる訳無いでしょ。もう体が持たないわ」
「それが唐沢の狙いだよ」と言って続けた。「プロなのだから見ているファンを楽しませないと。」と宮野は言った。その言葉を聞いた祥子は少し落ち着いた。すると球場の雰囲気が異様な盛り上がりを見せていたことに気が付いた。通常レフト側とライト側が(静)と(動)を交互に繰り返す。ホームのシェパーズが攻撃中はライト側が(動)、逆にシェパーズが守備の場合はレフト側が(動)となるのだ。唐沢が代打のアナウンスされた時はライト側とレフト側のファンはそれぞれが(静)だった。同調しないものが同調した瞬間だった。今は球場のファン皆が(動)で同調し、打者の唐沢に注目している。規則正しいブラスバンド応援も存在していない。
安部のキャッチャーミットを持つ手が震えていた。サインを出す手も震えているのが分かり、その震えを押さえる為に、股間で挟んだ。そして決め球のサインを出した。原下の考えは安部とは違っていた。原下には唐沢が緊張で動こうにも動けなかったのだ。あの球を避けずにじっとしていられる筈が無いから。
しかし、原下は安部のサインに首を縦に振った。安部は外角へストライクからボールになるホークを要求した。あの顔スレスレのボールを見せられたのだから外角へ逃げるホークを打つことは不可能である。恐らくバットに当てる事すら出来ない。
「さっちゃん、見逃すな。次の球で決まるから」と宮野は言った。祥子はただ頷くだけだった。
原下は指にボールをしっかりと挟んだ。そして振り被り、腕を思い切り振った。腕の振りが鋭い程、打者はタイミングを外される。ボールは原下の指の間から抜けて行った。ボールには少ししか回転がなく重力によりベース直前に急降下する。ボールは原下が狙った通りの軌道を描く。唐沢はボールが『ゆっくり』と落ちていくのをじっくりと見た。ボールは段々唐沢から遠ざかって行った。ホークボールは原下の得意とする球。この球を打たないと原下に先ほどのお礼が出来ない。唐沢はボールをじっとみた。集中力はピークに達し再び両目の動体視力が無限に肥大した。ボールはベースの手前で急に勢いを落とした。唐沢は打ちに行った。ボールは前進をやめベースに向かって落ちて来た。遠すぎる。唐沢は寸前でバットを止めた。ボールはベース手前で地面に当たり『バン』と大きく跳ねた。安部はボールを後逸した。ボールは転々とバックネットに転がって行った。サードランナーがホームに向かって突進してきた。唐沢はバッターボックスから飛び出し倒れ込んだ。原下はマウンドからホームに走り込んで来た。安部はボールを掴み原下目掛けて投げたが、既に三塁ランナーは次の打者と抱き合っていた。一塁側のベンチから選手が飛び出してきた。唐沢をチームメイトが受け入れた瞬間だった。
宮野は立ち上がっていた。そしてシェパーズファンと一緒に手を叩いている。祥子は何が起こったのか状況が飲み込めずボーっとしていた。勝利したのは選手の喜んでいるのを見れば分かる。でも、祥子は心の片隅で唐沢がヒットを打って一塁ベース付近で手荒い歓迎を受ける劇的な場面を期待していた。こんな幕切れだったら何の為にあれだけ唐沢の為にドキドキしたのか分からない。
「シェパーズが勝ったのよね?」祥子は宮野に尋ねた。
「いや、素晴らしい幕切れだった」宮野はまだ興奮していた。
「これが素晴らしいの?」祥子はどうもスッキリしなかった。頭の中が不完全燃焼で残った燃えカスで一杯なのだ。
「久しぶりにスッキリしたよ。今日のゲームは記憶に残るよ」と言いながら宮野は球場で巻き起こっている唐沢コールを一緒に歌っていた。「気の早い話だがもし今年シェパーズが優勝する様な事になれば、この試合がターニングポイントだと思うよ」と今日の試合を褒め称えた。
「ねえ、どうして今日の試合がそんな良かったの?」祥子は尋ねた。
「それは簡単だ。何もせずに勝ったのだから」と宮野は簡単に答えた。祥子はこの答えも良く理解出来なかった。
「つまり。普通の打者ならあのホークを空振りする。絶対に。しかし、唐沢は振らなかった。空振りなら三振になり、打者は一塁まで走る必要がある。あの場面で原下のホークを見逃せる選手はまずいない。強いて言うなら荒川選手くらいだ。いや、荒川選手でも分からない」
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