第5話 プロテスト(準備編)
唐沢は自宅から事務所まで走って通う事にした。距離にして6キロ程度である。通常事務所までの工程は手段であるが、この場合は目的である。
これまで気に留めていなかったが、東京の街をジョギングしている人は意外と多い。目的はそれぞれだろうがプロ野球を目指して走っている者はいないと断言出来る。もう一つ断言出来る事は、この暑さの中走っている者は狂っている。
体力さえ伴えば、人間が投げるボールなら打てる。ただ、2週間でどこまで体を仕上げる事が出来るかはやってみるしかない。プロテストを目指す訳だからそれなりのリスクと犠牲を覚悟しなければならない。唐沢は、宮野には悪いが自分の体が音を上げて挫折しても構わないと思っていた。肉体が金魚すくいの華奢な糸の様になっても最後まで切れずに持ち堪えられる事を期待していた。自転車と違い事務所に到着する時にはすっかり汗は引いていた。体内の水分を出切り極限まで干からびると、華奢な糸でも切れずに持ち堪える事が出来る。
祥子は唐沢が出社した事には気付かず、事務所にシャワールームを設ける手配を急いで進めていた。こんな目的でシャワールームを使う事になるとは予想していなかった。昨日、祥子は宮野の帰り際経費で落ちないか交渉していたが、宮野は即決出来ないので後日連絡するとの事だった様に記憶している。もともと、この案件が来る前からこの計画が存在していた事はもちろん宮野には伝えていない。
唐沢はこの一件が片付くまで新たな依頼は入れないように祥子に言った。併せて事務所を一時的に閉じようかと相談したが、祥子はあくまで事務所を拠点にしたいと主張した。
唐沢はふらふらしながら祥子の目線に現れ、机に置いてあるハンカチを手に取った。
「唐沢さんどうしたのその格好は?それに今にも倒れそうよ」祥子はハンカチの事は咎めなかった。唐沢はとりあえず冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して喉を鳴らしてから言った。
「自転車を止めたらこうなった」
「どうせ走るならジムにしたら?色んな器具も揃っているし私も付き合うわよ」
「ダメダメ。俺にとってジムで走るのはモルモットだけ。色んな意味で心身共に浄化しないと」
「そうかな。熱中症の心配もいらないし。どうも方向性がおかしいような」祥子は心配になってきた。
「古いけどロッキーってボクシング映画観たことあるかな?スタローンの?」と言いながら唐沢は右腕の力こぶを見せたが祥子は無反応である。
「確かロッキー3だったかな。相手が近代的な機械で体を鍛えていて綺麗な体に仕上げていた。それに対してロッキーは、丸太だったり、奥さんを持ち上げたり。映画を観ている誰もがロッキーのやり方を支持したんだ」
「私はロッキーを支持しませんし、持ち上げられたくないわ」
「そう言う意味で言っているわけではなくて、ジムのマシンは持ちやすい様に出来ている。丁度良い太さで滑らないように。そんなやり方じゃあ勝負には勝てないってこと。特に競ったときの最後の馬鹿力が出ないんだよ。分かる?体は繋がっているから」
「それって火事場の馬鹿力の事?」
「俺の話ちゃんと聞いていた?」
「聞いてはいましたけど、唐沢さんはボクシングをする訳じゃないわよね。そもそも、映画の話だし、古過ぎてなにもかも付いていけません」
唐沢も言ってはみたものの、納得を得られるとは思ってもいなかった。
「そんなことより、この辺りにバッティングセンターが無いか調べてくれ?」
「どんなことよりですかね」と嫌みを挟んで続けた。「これから練習に行くの?」
「プロテストを2週間後に控えているからボールを打つ感覚をつかんでおかないと」
「そうね。それは賛成よ。私もこの目でどんな悲惨なテストになるか心の準備をしないと、ね。唐沢選手」色んな思いを込めて言った。
変な理論に付き合っていても仕方ないので祥子は早速バッティングセンターを調べた。直ぐにプリンターから近くにあるバッティングセンターの情報が出された。一番近くに在ったのは神宮バッティングドームである。バーチャル式でプロのピッチャーが大型画面に映され、そのピッチャーの投球動作に合わせてボールが出てくる実践向けの施設である。このタイプの方が打つタイミングが取りやすい。
「唐沢さん、良いところがあったわ」祥子は印刷した神宮の情報を見ながら「だけど、球速が時速70~130キロだから十分じゃないわよね」
唐沢は少し考えた。
「そうでもないな。丁度良いかも。まあ、130キロも必要ないけど」
「唐沢さん、ネットに出ていたけど、プロのピッチャーって150キロを超えるボールを投げるのよ」
「だから丁度良いんだよ」
「唐沢さん。ちょっと聞いても良い?」
「何でもどうぞ」唐沢は汗を拭きながら言った。スポーツドリンクの効果で汗の成分が復活した。
「本当は野球の経験はあるのよね?」
「何度か球場に足を運んだことはある。ビールを飲みながら熱狂的な応援を見るのは楽しいよ」
祥子は呆れていた。
「これでプロテストをパスしたら私は神様を恨むわ」
「神様はいつだって不公平だよ」と言いながら唐沢は持ってきた新しいスポーツウエアに着替え始めた。
「えっ、今から行くの?」
「遊びに行くわけじゃないから。これはれっきとした仕事だから」
それを見ていた祥子も慌てて鞄からスポーツウエアを取り出した。
「何やっているの?」
「私も行くわ。どうせここに居てもしかたないし」と言って給湯室で着替えを始めた。唐沢は思った。一応、女性だな、と。
「唐沢さん、さっき宮野さんから電話があって、シャワールームOKですって」
「えっ。なに」
「条件があって唐沢さんがテストに合格したらですって」
「それはラッキーだな。工事費が浮いた」
「その自信はどこから来るのかしら」
「他に何か言っていなかった?」
「特になにも」
「少しはこっちを気に掛けろ」
祥子は着替えを終え、唐沢の前に現れた。唐沢以上にスポーツウエアが似合っていた。どちらが主役なのか分からない程に。
平日のバッティングセンターは空いていた。家族連れは来るはずがないし、野球少年も勉学に励んでいる。唐沢は念入りにストレッチを行った。この状況で一番やってはいけないことは、怪我をする事である。祥子は既に両替を済ませていた。唐沢は、バッティングゲージの前に立て掛けてあるバットを2,3本手に取り、一番しっくりきた銀色の金属バットを手にした。手始めに時速70キロのスピードから試した。打つことよりも体を反応させる必要がある。何年振りだろう。唐沢は思い出せない。自分の持っている能力のお陰で野球を諦めた。その能力のせいで今度は野球を始めている。皮肉なものだ。
唐沢は時速70キロのボールを簡単に打ち返した。唐沢は、次のボールも簡単に打ち返した。そして、残りのボールも全て綺麗にバットに当てて見せ得意げな顔をしてゲージから出てきた。
「久しぶりにしては、上々だな」
「唐沢さん、何か特殊な能力を使ったの?」
祥子は、唐沢が喜んでいる理由が分からない。祥子も野球経験は無いが運動神経には自信があり、この程度のボールなら打てる気がする。
「確かに不安材料もあるな。もう握力が疲れて来た。まあ、これは想定内だけど」と言って唐沢は両手の平を手洗い後の様に振った。
「まあ、初日からあまり口を出したくないけど、その楽観的な思考はどこから来るのかしら」
「楽観ついでに言うけど、これじゃ、あまり練習にならないな。バットをボールに当てる事は問題ない。後は筋力アップだ。ボールをバットに当てても
「えっ! もう帰るの! まだ、こんなに小銭があるのに」
「明日も来るから心配ない」
「小銭の心配はしていません!それより、硬球って?」
「そっか。そんな事も知らないのか。マネージャー失格だな。正式には硬式球と言ってプロ野球で使用しているボールは堅いんだよ。草野球で使うのは
「でも、なんか変よね。子供に危険だったら、アメリカのご婦人方の方が反対しそうだけど」
「何て言うかな」と言いながら唐沢はゲージから出て歩き始めた。「欧米はその辺合理性を取るからな。プロで硬球を使っているなら同じものを小さい頃から使った方が慣れる事ができる」
「なるほど・・・でも、日本には、可愛い子には旅をさせろ、ってことわざがありますけど・・・」と考えている間に当事者はもう帰路に就いていた。「ちょっと待って。本当にもう帰るの?」
「ああ。バットに当たることは分かったし、いきなりやり過ぎても体がもたない」
祥子は、本当にこんなので良いのかと思った。どんなに寛大な神様でも限界がある。
2人はバッティングセンターを出てタクシーを拾った。祥子は走って帰る事を提案したが、唐沢にはもう体力が残っていなかった。折角着替えたウエアに申し訳なく思えた。タクシーの中で唐沢は祥子に聞いた。
「俺が打撃練習をしている時メモを取っていたよね。あれは何をメモっていたの?」
祥子はメモをリュックから取り出した。
「今日の練習メニューを書いていたの。唐沢さんは丁度2回分、つまり40球打ちました。以上!」
唐沢は横目で祥子のノートを見た。几帳面に唐沢が行ったメニューが書かれていた。と言っても行ったメニューが少なすぎて数行で終わっていた。祥子自身精一杯のサポートをしてくれている。期待を裏切る訳にはいかないが唐沢にもちゃんとした計画があった。不安要素をひとつずつ潰して行く事である。
翌日も唐沢は事務所まで走って来た。祥子は、既にスポーツウエアに着替えていた。手には唐沢が昨日購入した木製のバットが握られていた。
「これ買ったのね?領収書はちゃんと取っておいてね」
祥子はそう言いながらバットを振って見せた。いつも置かれていた筈の椅子やテーブルそれに備品を入れていた棚の位置が変わっていた。
「ああ、あそこには木製のバットがなかったから」
「確か、高校野球は、金属バットよね。だから、高校からプロに行くと木製バットに馴染めずに最初は苦労するのよね。選手によってはそのまま引退することもあるらしいわ」祥子は得意げに言った。
「その豆知識はどうしたの?」唐沢は汗を拭きながら言った。
「これくらいは、当たり前よ。分からないことがあったら何でも聞いてくれていいわよ」
昨日、唐沢は確かに祥子を事務所で見送った。それからスポーツ用具店にバットを買いに行き、そして事務所に戻った。その時には家具の配置は変わっていなかった。祥子の足下にはスポーツジムでよく目にするマットが敷かれていた。誰も経験した事のない挑戦を前に考えられる全ての事を、限られた時間で、祥子はやっている。最初に会った時に感じた確かな意思の強さを思い出し再び唐沢の胸を締め付けた。
「随分と早起きしたんだ」
「そうでもないわよ」と言って祥子はふらつきながら再びバットを振って見せた。唐沢は、心の中で『それは俺の役目だよ』と呟いていた。
「時間外手当は出ないよ」
「そんなの期待していないわよ」
「じゃあ、今日も行こうか?」
予想通りバッティングセンターは空いていた。唐沢は迷わず再び70キロのゲージに入った。1球目を振った瞬間バットの抵抗感を覚えた。素振りでは感じなかった木製バットの重みである。感覚と実際のバットの軌道にボール半分程度の遅れが生じた。その結果、右打ちの唐沢には思ったよりもライト寄り(右側)に打球が飛んだ。明らかに木製バットを操るだけの筋力が不足している。
唐沢は、200球を超えても打ち続けた。バットを振ることでしか得る事の出来ない筋力を付ける必要がある。200球に到達したことを唐沢に教えてくれたのは、祥子である。そして、祥子が400球と言った時点で唐沢の体は振る動作の記憶を始めていたが、バットを握った手にねっとりとした何とも表現出来ない違和感を覚えた。それは気持ち悪い感覚だった。左手の掌を見ると小指の付け根が赤に染まっており、手の皮がペロンと笑っていた。それを見て初めて痛みを感じた。
唐沢は祥子にダメのサインと共に左手を見せながらゲージから出て来た。祥子はリュックから絆創膏を取り出した。ドラえもんのポケットの様に。
「それってまだ続けろ、ってこと?」
唐沢はそう言いながら絆創膏を手に貼った。そして、再びゲージに戻った。手の皮は血を出すことで限界を告げ、握力はスイングと同時に手からバットが飛んでいきそうな感覚で限界を教えてくれた。800球を超えたと言う祥子の合図と同時に唐沢は練習を打ち上げた。
「こんなにやって大丈夫なの。極端なのよ。昨日言った小銭の事を根に持っていないわよね?」祥子はもたつきながらゲージから出てきた唐沢に言った。
「これくらいやらないと間に合わない。筋肉を起こさないと。それに絆創膏を渡したの祥子だろ」唐沢は赤く染まったバットを見ながら言った。
翌朝、梅雨時の日本列島の様に唐沢の体は筋肉痛と言う雨マークが全域を覆った。ただし、頭だけは大丈夫だった。北海道の梅雨入りはまだの様だ。気持ちはと言えば、不思議と晴れ渡っていたので体の痛みに対抗しベッドから出る事が出来た。いつも通りシャワーを浴びたが出血した左手が滲みて、いじめ抜いた証を再認識しその痛みは心地よく思え気持ちを奮い立たせた。
3日目のジョギングは過去2日よりきつかった。目的地への道のりが明確になり、現在進行中の苦しみに加え、先に待ち構える長い行程に具体性を見出したからだ。
耐えられなくて唐沢は何度か途中で歩いた。だから、事務所に到着したのは予定より30分程度遅れたが、笑顔で祥子が迎えてくれた。
「もう諦めたのかと思ったわ」
昨日と同じように祥子は素振りをしていた。まるで自分が挑戦しているかのように。でも、彼女自身も何かに挑戦しているのは分かる。バットを振った後ふらつかなくなっていた。努力をすると誰でもある程度進化する。対戦相手がいない場合それはより顕著に現れる。
「そう言えばこの事務所のモットーを話していなかったよね」唐沢は、汗を拭きながら言った。
「この事務所にモットーなんてあるの?」
「言わなかっただけで、もちろんある」
「何それ!言わないモットーなんて聞いたことないわ」
「・・・・・・・」確かに、と唐沢は思いながら、「この事務所のモットーは、依頼を引き受けたらどんな事があっても最後までやり遂げる事」
祥子は素振りに戻った。唐沢が自分のデスクを見るとスポーツ店の袋が置いてあるのに気付いた。
「あっ、それ開けてみて。唐沢さん疲れていたから買いに行けないと思って」
唐沢は中身を取り出した。バッティング用の手袋だった。
「これはありがたい」
「サイズは大丈夫だと思うけど・・・」
唐沢は、袋を開け試してみた。掌を包み込む革の感触がなんとも言えない安心感を与えた。それは潰れたマメを覆った安心感のみならず、贈り物のみが与える事の出来る特別のものだ。リストバンドをギュッと締めると疲れていた筈の気持ちまで引き締められた様に思えた。ぴったりと言いながら唐沢は祥子からバットを奪った。
「さすが、俺が見込んだだけのことはある」
「私にも同じ事を言わせてね」
唐沢は、ジョギング、バッティング、筋力トレーニングを繰り返す日々を続けた。バッティングセンターでは、相変わらず70キロのみを練習した。祥子からは、どうして一番早い球を打たないのか聞かれたが、これは戦略だ、とだけ伝えた。
2週目からは身体は慣れては来たが怠さが精神面を襲ってきた。これまで、体育会系の生活を送った事がない。一方、祥子には疲れはおろか、焦りからかやる気が加速していた。
時間が余り無いのに唐沢は呑気に70キロのボールを打って浮かれているように見える。しかし、祥子からのプレッシャーのお陰で唐沢はバットを振る為の最低限の筋力を獲得した。そして、本番4日前に球速を130キロに上げた。
「唐沢さん、ようやく130キロを練習するのね。遅すぎる気がするけど」
「大丈夫。200キロを超えるボールを投げる人間はいないから。これは本番を想定してのことだよ」
『私もよ』と祥子は小声で言ったが、唐沢は既にゲージに入り素振りを繰り返していた。
「よーし、祥子、初めてくれ」
祥子はコインを入れた。画面にはジャイアンツの菅野が現れた。迫力ある投球ホームから速球が繰り出された。これまでのスピードとは全く違う。しかし、唐沢はいとも簡単に打ち返した。ついに唐沢は、封印を解いた。
「凄い!菅野からヒットよ!」祥子は驚いた。更に祥子は興奮した。唐沢は立て続けに菅野からヒットを打ったのだ。70キロの時と全く同じ様にバットに当てた。ピッチャーの投げる球速が速い分、唐沢の打球には鋭さが加わっていた。祥子は唐沢の奇跡とも言える打撃を見ながら何かをメモしていた。唐沢は全ての球を打ち終えるとゲージから出てきて言った。
「体力も問題ない」
その夜ベッドに横たわった唐沢に強烈な反動が襲って来た。久しぶりの再会である。体中の血液を構成している赤血球、白血球、血小板が加速を始め血管内部で摩擦を起こし体温の上昇が始まる。過去、体温が44度まで上昇した記録があるが、今夜は体温を測る気力がない。実際、この体の異常を定量的に認識してしまうと、肉体的苦痛に精神的苦痛が加わり弱気になる。
30分程で体温の上昇が頂点に達し、行き場を失った血液が引き金となった唐沢の両目に集まってきた。唐沢は両目がソフトボール程度まで膨張した様な感覚に襲われた。鏡を見ていないので本当の大きさは分からないが。同時に体に痺れを感じ始めるとそこから体温は徐々に下がってくる。ここから、再び30分掛けて普通に戻る。いつもの事である。
普通から頂点に達する時間と、頂点から普通に戻る時間はいつも等しい。しかし、今回の場合、これまで経験していた時よりも頂点に達するまでの時間とそこから戻るまでの時間が短いように思えた。実際に時計を見ると、半分の時間であった。体が普通に戻ると思考力も同時に復活した。唐沢は、ベッドに横たわったまま眠りに落ちながら最後にこの感覚を味わった時の事を思い出していた。
*****
高校に上がった時、同級生達は何らかの部活を始めた。唐沢も友人達に誘われた。人気どころでは野球、サッカー、テニスなど。マイナーどころでは、卓球、バレーボール、弓道、奏楽部など。
唐沢は、どれにも所属しなかった。唯一入部まで心が動いたのが、剣道であった。団体競技よりも個人競技の方が自分にあっていると思っていた。
剣道をやればかなりの所まで到達出来る自信はあった。逆に、何処までも登りつめて仕舞う事を恐れていた。ただ、それが嫌になれば試合で負ければよい。
ある日、友人の1人が唐沢に人数が足りないから試合に出てくれないかと頼んで来た。人数合わせなので負けてくれれば良いと。唐沢は断ろうと思ったが、若さ故の欲が首を縦に振らせた。
剣道部の女子に唐沢の気になる人がいたのだ。遠目から彼女の立ち姿を見るのが好きだった。背筋がピンとしていて、シルエットがとても素敵だった。彼女は無口な人だった。何かに取り付かれたかの様に剣道に没頭していたその子は、普通に笑顔を見せれば人気者になれたに違いない。
でも、その子は人気者である事より、剣道で強くなる事を選んだ。だから、ほとんど笑った所を唐沢は見た事がない。恐らく、家族か本当に親しい友人以外見た事がないと断言出来た。
唐沢は、試合で勝ちまくった。全ての相手を
唐沢はあの子の反応がなにより気がかりだった。試合に勝つ度に、必ずあの子を面越しに見たがとても険しい表情をしていた事を忘れられない。唐沢が勝ち進むにつれて、その表情は寂しさに変わっていった様に思えた。唐沢が個人戦で優勝を果たした時にはその子の姿は無かった。
後日、唐沢は、廊下ですれ違った時に堪らず声を掛けた。あの時の事は一生忘れる事は出来ない。その子は唐沢にこう言った。
『唐沢君の人生って虚しいわね』
こんな言葉を待っていたのでは無い。具体的にどんな言葉を期待していた訳ではないが、こんな言葉は想定していた枠から大きく外れていた。それは、当然の事である。
彼女がどの様な過程を経てここまで辿り着いたのかなど、考えてもみなかった。それを考える事に意味があったのだろうか。あの時以来、唐沢は公には能力封印してきた。能力を使わずして、汗をかいた事がない唐沢が剣道の試合で勝てるはずがない。積み上げる事でしか到達出来ない領域がある。それは、俗に言う勝利である。勝利を得る課程には段階がある。土俵に立つ機会を得る事。そして、その土俵で成功すること。舞台に上がる資格がないにも関わらず鳶の様に勝利と印字された油揚げを
あの時はそんな事に気が付かず、少し浮かれて声を掛けた。だって、スポーツ自体公平だとは思っていなかった。バスケットボール部に凄い1年生が現れたと話題になっていたが、理由は簡単だった。身長がずば抜けて高かった。この新入部員が他の同級生より、実力差以上に練習をしているとは思えない。
彼女からこの様な言葉を浴びると前もって分かっていたとしたら唐沢の行動は違っていたのだろうか。唐沢が当時出した結論は『不可能』だった。舞台に上がる資格を得る努力をしたものでないとその答えは出ないのだから。
唐沢はその資格を得る為に能力を封印し剣道を始める事を決意した。翌日、唐沢が道場に行くとその子の姿は無く、退部していた。この事は長らく忘れていた。まさか夢に現れるとは思ってもみなかった。能力を使うと犠牲が伴う。次の犠牲者は誰なのか、無意識の中で意識をしていたのかも知れない。
******
プロテスト前日はオールスターゲーム第一戦と重なった。祥子の提案でこの日は休暇とした。宮野が最終打ち合わせを提案し3人は夕食を兼ねて事務所に集まった。宮野の提案で鰻の出前を祥子は頼んだ。今回はマキシムドパリのケーキは無かった。
「こっちは全て予定通りだからな。唐沢準備は整ったか?」宮野は言った。
「ああ。完璧さ。勝負は時の運、と言うが今回は神頼みも運任せもなく、実力を見せつける」と唐沢は言い放った。
祥子には明日の展開が全く読めなかった。ただ、この2週間2人の間には後悔の2文字は存在しない。
「唐沢さんには申し訳ないけど、これをもらってきたの」と言って祥子は唐沢にお守りを手渡した。祥子は唐沢が素直に受け取ってくれるか半信半疑であったが。
「実を言うと俺も頼りたいと思っていたよ」
TVはオールスターゲームを放送していたが、当初の発表通り、荒川選手の姿は無かった。エベレスト並に空気が薄くなろうとも実況、解説、野球関係者全てから荒川は過去に追いやられていた。
人間はこれまで色んな事を達成してきたが時間を戻す事は神の領域である。唐沢達3人は明日挑戦の第一歩を踏み出す。そして空気の濃度を上げる事の出来る新たなスターを迎える為に。
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