第4話 植田殺人事件(1)
八百長報道が流れた時、宮野同様世間とは異なる意味で釘付けにされた男がもう一人いた。吹石
吹石が警視庁に入庁したのは、22歳の時である。国立大学を卒業し迷うこと無く警視庁を選んだ。身内には誰も警察関係者はいなかったが、家にあった『西部警察』のDVDを子供の頃観て刑事になると心に決めていた。
成長するにつれて、刑事になったとしても、発砲すること無く退職する者が殆どであることを知る。相手が凶悪犯であれ、銃を使用すると世間は警察を叩き謝罪会見を要請する。暴走族を追いかけ輩が運転の未熟さで転倒し、怪我をさせると警察が槍玉に挙げられる。この様な理不尽な扱いを受ける事を吹石は悟るが、描いた夢を諦めさせるまでには至らなかった。
犯罪者を逮捕する方法に拘りは無かった。たとえ、銃を使わなくとも、刑事コロンボの様に頭を使って犯人を逮捕する事も出来るし、この方が日本的である。コロンボが一度たりとも銃を使ったのを観たことがない。確か、銃を携帯していなかったと思う。
吹石は、西部警察も刑事コロンボも現実離れしている事は、承知だったので、そんな刑事生活を期待していなかった。自分なりのやり方で逮捕に至ればよい。大人になって銃撃戦をやれるほど勇気もなければ、コロンボの様に砂漠に埋もれたダイヤを見つけるほど自分には洞察力が無い事も知っている。野心が無いわけでもないが、歯車でも良いと割り切っていた。もの凄く、油が乗った歯車であれば、摩擦も無く良く転がるし、回り続ける事が出来る。その様な歯車であれば良いと思っていた。この時の吹石の思考は植田殺人事件で占領されていた。吹石には一つの事件を思い続ける熱意がある。
吹石は、警視庁で十年程過ごしていた。その間、様々な事件に関わり、自分の得た情報が事件解決にどの程度貢献出来たのか、定量的には到底計れない時期が続いた。自分が得た些細な情報が実は貴重な意味を持っていて犯人逮捕に繋がった経験もした。だから、得た情報の価値判断には自分の裁量だけでは公平に下せないと己を説得し、ありのままを捜査会議で報告するように努めた。植田殺人事件が起きたのは吹石が自分の存在意義に疑問を持ち始めた頃と重なった。課長の大村哲也はその事には気付いていたが、そんな吹石の思いとは裏腹に大村は吹石の丁寧な聞き込みや捜査に対する態度を高く評価していた。
植田
植田を刺した凶器は見つかってはいない。恐らく犯行は単独犯との見方であった。植田への暴行は左頬と腹の刺し傷のみで、特に背後からの暴行が認められなかった。植田の服装は部屋着だったので近所に何かしらの用事で家を出たと思われた。妻の
『私たちはリビングでテレビを観ていました。毎週楽しみにしているドラマです。途中で夫が少し出てくると言って出掛けたのです。たまに、煙草を切らせて買いに行く事がありましたから、今回もそうかな、と思って気に留めませんでした。TVに夢中でしたから。今思えばドラマの途中で出掛けるのって変だと。でも、見逃した所は後で夫に話せば良いかと。私がもっと気をつけていればこんな事にはならなかった・・・』泣き崩れた一恵の姿は吹石には忘れられない。
捜査は連日五十人体制で行われたが犯人に結び付く情報は全く得られていない。閑静な住宅街での犯行であったため、監視カメラも設置されていなかった。数少ない可能性が次々と打ち消された。
生前付き合いのあった者から事情を聞いたが、植田について悪く言う人物は一人も現れなかった。日本人全員が植田の様な人物なら吹石は職を失うだろう。その証拠に植田の葬儀は混じりっけのない悲しみ一色に染まった。何の進展もないまま時間だけが過ぎ、既に2ヶ月以上が経っていた。
出口の無い迷路の中で藻掻いていた時、BGMとしてつけておいたテレビからあのニュースが流れた。吹石は範疇にない八百長には然程興味を示さなかったが、八百長をしたとされる選手に強い違和感を抱いた。プロ野球中継は父親の影響から自然と観る習慣が付いていた。贔屓の球団は幼少期に過ごした東京を拠点としたジャイアンツであった為、入団当初から打ちまくった荒川には幾度となく悔しい思いをさせられた。
事件当時、吹石は荒川にも事情を聞いていた。あの時は、形式的な聴取のみで、植田に変わった事が無かったか、恨みを持つような人物に心辺りはないか、など。その後接触はしていない。
吹石は事件当夜の事を思い出していた。あの日、試合を終えた荒川が車で帰宅するのを待ち伏せした。荒川が吹石に気付いた時の異常に驚いた表情が炙り絵の様に脳裏に浮かんできた。あの時は、その事について深く考えなかった。今思えば、あれだけの有名人だから見知らぬ人間が待ち伏せすることもあり、突然の訪問者には慣れているはずだ。しかし、試合直後は、プロの選手は異常な緊張感から普段とは違った精神状態にあるかも知れない。得に、荒川の様な特殊な選手なら。
もともと荒川には容疑が掛けられていなかった。荒川には完璧なアリバイがあったからだ。荒川のプレーを球場で目にしていた3万人近い観衆とテレビで観ていた何百万人と言う視聴者。荒川が犯行を行う事は不可能である。途中退場することなく試合開始から終了までプレーしていた事は事実なのだ。それ以降、事件関係者から荒川は綺麗さっぱり削除されていた。
吹石は最後の望みを世紀のニュースに掛けた。無の状態から捜査が一気に進展したと錯覚さえ覚えた。ゼロから有限になる事は数学的にも驚異的な進歩である。八百長疑惑は捜査一課で扱う案件ではない。吹石が荒川を調査する目的はあくまで植田殺人事件に何らかの関係があると睨んでいるからだ。吹石は荒川の八百長に関するあらゆる情報を
吹石は、捜査課長の大村哲也に自分の考えをまとめたレポートを提出した。要点は以下の通りである。
一.植田が殺害される動機が全く浮かび上がらない
二.殺害現場は住民以外あまり使用されない
三.付近の住民を徹底的に調べたが怪しい人物は浮かび上がらない
四.極めて希な事件である
五.八百長も極めて希な犯罪である
六.植田が殺害された日が八百長が起きたとされる前日である
七.植田宅が荒川宅の隣である
「大村課長。観て頂いた通り現時点では荒川の八百長事件と植田殺人事件に関連があるかは分かりません。ですから、関係が無い事を証明させてください」
「荒川の八百長か。組対も一時はピリピリしとったからの。調べても何も出てこんし、世間の注目は高いし。被害者もおらんから荒川に事情聴取する根拠がないわ。こんな事で税金使えんわって愚痴っとった。吹石、お前の意見は分かった。組対には俺から話しとくわ。田村、ちょっと来い」
2人の会話に聞き耳を立てていた田村が呼ばれた。
「田村、吹石と一緒に捜査に当たれ」
「承知っす」
「課長、ありがとうございます。田村、よろしく頼む」
田村
吹石はこれまでベテラン刑事と行動を共にしていたので、後輩と組むのは初めての経験となる。本流となる捜査方針は課長が決めるが、分流に付いては吹石が舵を取り本流へ注ぐ。当初は、分流も数多く存在していたが、現在では減少し、本流の勢いは分流のそれと大差が無くなってきていた。
吹石は手始めに、自分に見落としがないか田村とこれまでの捜査資料の読み合わせを行った。最初に目を通したのは、植田の妻である一恵の証言である。証言の後、一恵が泣き崩れた光景を吹石は忘れられない。夫が殺害されて変わり果てた姿と病院で再開したのだから想像するに余りある。刑事とは人の死に対峙する事が仕事である。そして、その殆どが他人の死である。コンビニの店員が商品をバーコードで読み取る作業に似ていて機械的な作業であり、マニュアルに沿って処理し余計な感情は挟まない方が良い。
本来ならドラマを観終わったあと、次回の展開について話は尽きなかったはずである。夫が引退し2人には夢が有ったに違いない。その夢は2人が揃って初めて成り立つ。若者の夢が破れたとしてもやり直す事が出来る。若者の夢は築くところから始まるのだから。築く過程が夢に含まれている。過程そのものが夢なのかもしれない。一恵にとって優夫を失う事は夢が足下から崩れさり、一恵には残骸と絶望しか残らない。それほど、一恵と優夫は仲が良かったのだ。吹石にはそんな記憶が今も鮮明に残っており、刑事としては失格なのかも知れない。
植田の所持品からは、財布は見つかっておらず、煙草を買いに出掛けたのかも断定出来なかった。無論、犯人が金銭目的で持ち去った可能性はあるが、これらの可能性は直ぐに無くなった。一恵によると、煙草を買いに行く時は、普段小銭入れを持っていたが、財布も小銭入れも自宅で見つかり、煙草は書斎にストックが置いてあった。
「吹石さん、これらの資料からすると、目撃者も怪しい人物も挙がっていないってことっすか?」
一通り資料に目を通し終えた田村が確認した。
「そう言うことだ。仮に金銭目的で揉めたとしても殺害するとは思えない」
「確かにそうっすね」
「家を出る直前に電話があった訳でもないから呼び出されたとも考えられない」
「報告書には、携帯は自宅に置いたままとなってます、誰かと待ち合わせをしていたとも思えんっすね」田村は、眉間に皺を寄せ思案する表情をみせて続けた。
「なるほどっす。確かに動機っちゅうか、犯人像が見えないっす」
田村は、捜査が進展しないことを理解した。
「よし。もう一度、植田の妻に会うぞ」
吹石は一恵を1ヶ月前に訪ねている。あの時は、線香を上げる事と捜査に何の進展が無い事を謝る為であった。今回の訪問も前回同様、何の報告もない。重い気持ちが九割九分占めているが残りの一分が前回と異なる。この一分が吹石の背中を押した。
吹石が植田の家に到着すると未だに荒川の自宅の前に屯するハイエナが目に入った。吹石は、ハイエナの目に入らないようにインターホンを押した。しばらくすると一恵が答えた。吹石が聞きたいことがあると伝えると一恵は快く吹石達を中へ入れた。一恵は、一向に進まない捜査であっても吹石の事を憎めなかった。吹石は誠実であり、懸命に捜査している事を一恵は知っていた。遺族にとっては捜査の進展と同じくらい捜査にあたる姿勢が重要である。吹石は、田村を紹介し、いつもと同じ行動を取った。優夫に線香を供える事である。
「植田さん、これから一緒に捜査に当たる田村です」
「新しい刑事さんですか。ありがとうございます」一恵の声に感謝の意はあったが、期待感は同居していなかった。吹石は言葉を絞り出した。
「今日も良い知らせを持って来た訳ではありません」
一恵は承知していた。もし、その様な知らせがあるなら電話で一報入るはずだ。
「そんな簡単に犯人が捕まるとは思っていません。これまで必死で捜査に当たって頂いてありがたく思っています」
一恵の言葉には、敗北感が伺えた。もう、犯人はどこか遠くへ行ってしまっている、と。三ヶ月程度何の進展もないのだから仕方がない。
「植田さん、私は諦めていません。絶対に犯人を捕まえます」
この言葉を吹石が一恵に言ったのは二度目である。一度目は、最初に一恵に会った時、優夫が殺害された日である。どちらの言葉が重いのか吹石にも判断が付かないが。
「吹石さん、今日はどうされたのですか?」
一恵にはいつもとは違う吹石の覇気のある態度の理由が分からない。
「ちょっとお聞きしたいことがありまして」吹石は続けた。
「事件当日私が事情をお聞きした時、この様におっしゃっていました。隣に住んでいる荒川さん宅に誰かが悪戯をしたと」
一恵は、驚いた表情を見せた。期待していた質問と全く異なっていたからだ。
「そんな事を言いましたか・・・何をお話ししたのか何も覚えていません」
一恵はどうして吹石がこんな事を言い出すのか理由を探すのに意識が集中して、何故、そんな事を言ったのか記憶を辿る事をしなかった。吹石は言い方を変えた。
「今の所、ご主人の事件との関連は分かりません。これは、私の感です。不確かなのにこんな事を聞いて申し訳ありません。でも、可能性が低くともゼロで無い限りとことん調べたいのです」
吹石の気持ちが伝わったのか一恵は口を開いた。
「もう一度言ってください。私は何と証言しましたか?」
「荒川さん宅が誰かに悪戯をされたと。どんな悪戯なのかはわかりませんがその様に言われました」
一恵は、少し間を置いて言った。
「私が言ったのかは思い出せませんが、悪戯の事なら覚えています。夫が亡くなる前の話です。何ヶ月も前ですから。荒川さんの家の窓が割られる音を聞きました。主人も一緒にいました」
「その時、荒川さんはどの様な感じでしたか?何か言っていましたか?」
「いいえ。会う事はありませんでした。声を掛けようと思いましたが、主人がそっとしておいた方が良いと言いましから。今度お会いするときにそれとなく聞いておくから、と。荒川さんはご存知の通りプロの選手でしょう。こちらからはあまりね」
「他にはどんな事があったか覚えていませんか?」
一恵は考え込んだ。急にそう言われても思い出せない。しばらく一恵が黙っていたので吹石が口を開いた。
「荒川さんとはお付き合いがありましたか?」
思案していた一恵は救われたかの様に口を開いた。
「親しいとまで行きませんが、普通のお隣様と同じように接して下さっていました。夫が生きていた時までは。夫は野球が好きでしたから。それに、趣味が同じでした。荒川さんとうちの主人とは。主人の子供の頃の夢はキシになることだったの」
「キシって?」
「将棋の棋士よ」
一恵の表情が少し明るくなったように見えた。
「荒川さんも将棋を指されるのです。シーズン中は誘われませんでした。主人から誘うことはほとんどありませんでした。いつも荒川さんからの誘いを楽しみにしていました。シーズン中は諦めていましたから、シーズンが終わると最初の誘をいつも心待ちにしていました。荒川さんにしてみればシーズンの終わりでしたが、主人にとっては開幕の様な気分だったと思います。オフになると決まって荒川さんから連絡があり、主人が出掛ける事が殆どでした」
吹石は驚いた。植田と荒川が近所以上の付き合いがあったとは。
「その時は奥様もご一緒されるのですか?」
「とんでもない。一度将棋に行くと夜中まで帰って来ません。ですから、将棋の時は主人を待たずに先に寝ていました。主人は、こっそりと帰ってくるのです。寝ている私を起こさないように。何年一緒に居ると思っているのかしら。私を起こさずに寝室に入る事など出来ないのに・・・。大抵の場合、夕食もご馳走になっていました。食事くらいは戻って食べて、と主人にいっても途中で抜ける事なんて出来ないよ、と言って一度も私のお願いを聞き入れてくれた事はありませんでした。ご存じですか、封じ手と言う言葉を」
田村は吹石に目をやった。吹石も子供の頃は将棋を指していたので、封じ手の事は知っていたが、田村は初めて耳にするようだった。一恵は、田村に向けて説明を始めた。吹石も自分が説明するより、一恵に任せた方が良いと判断した。
「将棋の対局には二日に渡る棋戦があるの。私も知らなかったわ。公平さを保つ為ですって。将棋の対決が途中で中断するから一日目の最後に指した人が不利になるでしょう。だって、相手の棋士は次の日まで作戦を立てる事ができる。だから、封じ手って初日に最後に指す事になった棋士がこっそり紙に次の手を書いて置く事なの。これだと、相手は何を指したのか分からないし、指した方も作戦を変える事が出来ないからですって」
まるで、優夫が説明しているかのような錯覚を吹石は覚えた。今夜床に就いた一恵が静かに寝室に入ってくる優夫を期待するのでは無いかと吹石は案じた。吹石は、次の言葉を発するのに時間を要した。そっと一恵の心に舞い落ちたダウンの羽を吹石の息で吹き飛ばす思いがした。吹石は、繊細な羽を気遣い言った。
「ご主人、何か言っておられませんでしたか?」
想像通り羽はとても繊細であり、現実が一恵の気持ちを落胆させた。それは弱い言葉に現れた。
「何か、と言いますと・・・」
「例えば、そうですね。悪戯について・・・」
「すみません。主人は何も言っていませんでした。少し野球の話はするようでしたが、荒川さんも野球から離れていたいと思っていたでしょうし、主人もそれを分かっていましたから」
吹石は納得した。
「では、最後にひとつだけお願いします。窓ガラス以外はどのような悪戯があったかご存知ですか?」
一恵は再び考え込んだ。少し、声のトーンが戻ったように言った。
「そう言えば。これは、私が見た訳ではありません。近所の方と立ち話をしている時に聞いた話です。荒川さんのお車がレッカー車で運ばれる所を見たと言っていました」
「車がどうかされたのですか?」
「詳しい事は知りません。すみません。あまりお役に立てずに」
「いいえ。ありがとうございます。この辺で失礼します。大変助かりました」
一恵は、少し不安な表情を浮かべ吹石達を見送った。
植田宅を後にした2人は停めていた車へと歩を進めた。2人は沈黙を伴っている。これを破るには自分だと田村は思った。
「吹石さん、絶対に犯人を挙げるしかないっす」田村は吹石の真横を歩いている。
「ああ、何としても捕まえてやる」吹石は田村の前へ出た。
「収穫はあったっす」田村は嬉しそうに言った。この無邪気と表現してよいか分からない田村の姿勢が吹石には救いだった。
時計を睨むと14時15分を指していた。車は植田宅から歩いて20分程度離れた場所に停めていたので2人は急いだ。
荒川宅にハイエナが居る事は分かっていた。あの手の人間は2人の職業を言い当てる能力を保持している。一恵にこれ以上負担を掛けたくない。2人は車に乗り込んだ。ハンドルは田村が握り、高木佐百合に会う為にエンジンを掛けた。
「吹石さん、急ぎまっせ」
佐百合は一恵に荒川の車がレッカーで運ばれる所を目撃したと話した人物である。佐百合の自宅へは植田宅を出て荒川宅の前を進めば近道であったが、ハイエナを避ける為に遠回りを選んだ。田村の運転は見かけによらず丁寧かつ無駄がなかった。一恵が云っていた通り高木宅の周りには、中が見えないようにレンガで覆われいたので直ぐに分かった。田村は塀の前に2台分の駐車スペースがある事を確認し、後からもう一つの場所に駐車されても出やすい様に車を停めた。
「どこも家がデカいですね!」田村は、辺りを見回しながら言った。
「まあ、この辺りはそれなりの人が住んでいるから」
「こんな所で殺人が起きるとはどうしちゃったんすかね」田村は再び周りを見渡した。どこからか容疑者でも現れないかと期待して。そして続けた。
「なんか変な感じがしたんですが。なんっすかね・・・この辺り、電線がないっすね」
「日本語がおかしくないか。変じゃないだろう。良いことだろう」
「俺にとっちゃあ変です。なんか場違っす」
「それは、俺も同じだよ」
田村は躊躇なくインターホンを押した。直に返事があった。それは、とても軽い女性の声だった。どんな声を想像していた訳でもないが、違和感は無かった。
「どちら様!」
田村は警察の者であり、少し話が聞きたいと告げると、高木はどうぞと言ってインターホンを切った。田村がドアをノックする前に高木は2人を迎えた。家の外観と住人の服の嗜好は一致するようでる。2人は内ポケットから身分証を取り出し高木に見せようとしたが、高木は確認する事無く言った。
「荒川さんのことよね?」
2人は自分達のペースで話した。警視庁の吹石と申します。同じく田村です。と言い、吹石は続けた。
「高木佐百合さんでしょうか?」
佐百合は腰を折られたのかトーンを下げて言った。
「そうですが。何かしら?」
「ちょっと聞きたい事がありまして。今、少しよろしいでしょうか?」
「ええ。どうぞ」
2人の固い態度がそうさせたのか佐百合は無表情になり2人を中へ招いた。
だだっ広い玄関に敷き詰められた御影石の上に立ち、凧揚げが出来そうな吹き抜けの玄関は、田村には居心地が悪かった。佐百合は可愛らしいスリッパを勧めた。小さめのスーツ姿の田村が履くと滑稽に映るのは容易に想像出来たが、玄関にある全身が映る鏡を見て田村の歩が早くなった様に思われた。2人は佐百合の後を着いて行った。
案内されたのは所謂応接間である。佐百合は慣れた動作でソファーに腰を下ろし、向かいの革張りのソファーを2人に勧めた。2人は遠慮なくソファーに腰を下ろした。田村がインターホンを押して案内されるまで数分の出来事である。吹石は目の前に並んだ黒いストッキングに覆われた膝がスカートから出ている事に気づいた。年の頃は吹石より一回りは上であるが女優業をやっていると言われても疑わないだろう。
インターホンを鳴らしてから、完璧な化粧を施し、着るのに時間が掛かりそうな白のブラウスとふわふわしたピンクのスカートを穿くには時間が短すぎる。普段着なのか確かめたい衝動を堪えた。
程なくしてお手伝い風の中年女性が2人にお茶を出して、これも慣れたスピードで部屋を出て行った。今までの行動からは佐百合が家事をしている所を想像できないがじっとしていられない性格なのか2人の応接は佐百合が行った。インターフォンから聞こえた声は間違いなく佐百合である。そんな事を吹石が考えているのを見透かしたかの様に佐百合を声を出した。
「あの・・・こんな事言うと失礼になるのかしら。お名刺って頂ける?」
小百合は言葉とは裏腹な態度で言った。これは失礼しましたと言いながら2人はテーブルに名刺を置いた。小百合の置かれている環境が自然に要求させたのだろう。小百合は2人の名刺に目をやりながら言った。
「荒川さんの事じゃないとすると・・・」
佐百合は荒川の事を話したいのだろうか、それ以外心当たりはないようだ。確かに2人が聞きたい事は荒川の事である。
「お聞きしたい事は、荒川さんの事です」
佐百合の表情は一点して晴れ渡った。
「やっぱりそうよね。それで、思っていた通り関係していたのね。どうもおかしいと思ったのよ。主人も言っていたの」
主人と言ったところで佐百合は口を押さえた。
「今日お邪魔したのは、八百長には関係ありません」
佐百合の出鼻を吹石は挫くように言った。
「じゃあ・・・」佐百合は先にお茶に手を出して続けた。「ひょっとして、荒川さんの車のこと?」
吹石は心を揺さぶられた。思った以上に佐百合は勘が鋭い。
「察しが良いですね」
「だってこの間もその事を話したの」
佐百合はうんざりとした表情をあからさまに、足を組んだ。
「それはいつの事ですか?」
「だからこの間よ」と言って佐百合は吹石を見たが、吹石の表情はそれだけでは許してくれそうも無かったのでもう少し考えた。
「そうね。一ヶ月ほどになるかな・・・」
佐百合がこの間と言ったので吹石はてっきり数日前だと思っていた。吹石は一ヶ月も前にここを訪ねてきた人物がいたとは想像していなかった。佐百合は、黙ったままで考え込んでいる吹石に言った。これを言わないと先に進めないと思えたからだ。
「確か、その人から名刺をもらったから差し上げましょうか?」
「それは、助かります」
佐百合は組んでいた足を綺麗に解き部屋を出た。田村はテーブルに置かれたコーヒーに手を伸ばし1口飲んで、これ美味しいっす、と言いながらもう1口飲んだ。コーヒーは程よい温かさだったので2口目で残りが半分以下まで減った。
「どう言うことっすかね?」
「俺にも分からん」
吹石は応接間から覗く、手入れの行き届いた庭を見ていた。佐百合は思ったよりも早く手に一枚の名刺を持って入ってきた。この短時間で目的の名刺を見つける事が、この家の主人が佐百合を妻に選んだ理由の一つではないかと吹石は思った。
「はい、どうぞ」と言って佐百合は、2人の真ん中に名刺を置いた。
「それでこの男は何の用で来たんすっか?」
「荒川さんの事よ。何でもいいから気が付いた事はないかとか、色んな事を聞いて来たわ。でも、何も答えられなかったわ」
この男の意図は分からないが、自分と同じ方向に向かっているのだろうと吹石は思った。
「この男は具体的に何を尋ねたんすっか?」田村は名刺を手に持って言った。
「だから、細かい事は覚えていません。だって、退屈な事ばかり聞いてくるのよ」
「分かりました。我々も退屈な事を聞きますが大切な事なのでご協力ください」
吹石は突然訪ねてきた事も加えて謝罪し続けた。
「あなたは荒川さんの車がレッカーされる所を目撃された?そうですよね?」吹石は無意識に身体が前屈みになった。
「そんな大袈裟なことじゃないわ。目撃だなんて。まるで私が悪者じゃない」
「気を悪くしたらすみません。でも、見た事には変わりはないですよね」
「ええ、見たわよ。それがどうかしたの?」
2人は驚きを隠せなかった。
「それはいつっすか?」
「そんなことより八百長の事を教えてよ。その方がよっぽど面白いじゃない」
「八百長に関しては管轄外ですので」
吹石はきっぱり答えた。
「あっそ。そうね・・・一度目は確か、三月の終わりか、いや、四月になっていたような・・・そうそう、開幕の翌日よ」
「開幕って野球のですか?」
「そうそう。あれは開幕翌日だったわ。その事を主人に話した事を覚えているの。主人が相手チームのファンの仕業じゃないかって。確か開幕戦から打ちまくっていたらしいから・・・でも、そこまでやると思う?」
吹石はその問いには答えなかった。
「では、この前訪ねて来た男には他に何か話ましたか?」
「いいえ。日付の事も話していないわ。だって今思い出したもの。そうだ。その方に会ったら教えてあげて」
2人は絶句した。質問がこれ以上無い事を察したのか佐百合は自分の番が回って来たと思った。吹石はしつこく八百長について聞きたがる佐百合を振り切る様に、室温まで下がったコーヒーを飲みきった。田村も吹石に続いた。そして、2人は高木家を後にした。
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