第2話 唐沢探偵事務所(成立ち)

 その事務所はJR渋谷駅東口を出て左に折れ、宮益坂を15分程歩くと右手、

6階建てのオフィスビル5階にある。およそ7年前に建てられているので、外見は未だ新しさを残している。5階は4つに区切られていてその事務所は宮益坂に面していた。広さはおよそ16坪あり、従業員2人には贅沢過ぎる程だった。


 その従業員の1人が探偵の真似事をしていて、もう1人が秘書の真似事をしている。内装は探偵事務所の真似事のように家具が配置されていた。探偵と言っても大体的に宣伝を行って顧客を得るようなビジネス戦略を取っておらず、仕事の依頼はもっぱら口コミか、知人からの紹介である。ここには就業規則が存在しないが、

決まって2人は9時に出社し6時前に帰宅する。


 いつも通りではなく、事務所の責任者は9時半過ぎに現れた。既に秘書は出社している。

「おはよう。いや〜、今日も暑いね」

 探偵の唐沢つよしが秘書の北野祥子さちこに言った。

「遅いと思ったらどうしたの?そんなに汗かいて」

 祥子は唐沢の汗だくの顔を見て言った。汗をそのままにしていたのには理由がある。

「今日は自転車通勤にした。汗をかくことを覚悟して出かけると、朝から汗をかいても気持ちが良いものだ」

「唐沢さんは気持ちが良いかも知れないけど、朝からボディビル並みの体の輝きなんて見たくないわ」と祥子が応戦した。

 唐沢は祥子の机においてあったハンカチを奪い、遠慮なく額から流れている大粒の汗を拭った。そして、ハンカチを裏返しながら、

「前から思っていたのだけど、ここちょっと広すぎると思わない」と言いながら裏返したハンカチで後頭部から流れる汗を拭き取った。

 祥子は、たっぷり汗を吸い取ったハンカチを見つめながら言った。

「そうは思わないけど」

 祥子はこのゆとりある空間を気に入っていた。唐沢は、挫けずに続けた。

「あの辺りにシャワールームを作るのはどう思う?」と言いながら唐沢は道路に面していない反対側を指差した。

「シャワールームはいい考えかも」

 祥子は出来上がったコーヒーをマグに注ぎながら言った。季節に関係なく唐沢はホットコーヒーを好む。

「本当にそう思う?」

 唐沢は祥子からコーヒーを受け取りながら、そんなにハンカチを使われることが嫌なのだろうかと考えた。ハンカチを借りなくなるとは、保証できない。どうして、今回に限って賛成したのだろうか?これまで、唐沢は幾度となくアイデアを提案したが悉く却下されて来た。

「もちろん、本当よ。今度お見積もりをお願いしようかな?」と言って祥子は手に持っていたコーヒーを飲みながらパソコンに向かった。「あっ、それと」と言って祥子は振り向き言った。

「そのハンカチ洗って返してね」

 唐沢もコーヒーを一口飲んで暑い時は熱いものに限る、と、もう一口飲んで収まりかけた汗をハンカチの乾いた場所を探りながら拭き取った。どうせ、自分で洗わないといけないのである。とことん、使わないと。

「そうそう、昨日のニュース観た?」祥子はパソコンから目を離した。八百長の様な大事件は、『ニュースを観た』、の一言で通じる。

「とんでも無いことになったね。個人的には俺、好きだったのだけとね。彼が出ないとつまらないな」


 昨日のニュースで荒川選手のオールスターゲーム欠場が伝えられた。唐沢は、野球経験はゼロに等しいが、野球中継を観るのは好きである。贔屓にしている球団はないが、個性派の対決や、球団の色、監督の采配、など、自分なりの理論と照らし合わせながらゲームを楽しむ。一般的なファンとは異なる楽しみ方だから、試合を最後まで観ることは年に10試合も満たない。


 事件が発覚して以来、ニュースは収束に向かうどころか、この話題に割かれる地上波の割合は増え続けている。全く進展がないこの状態が楽しいのかも知れない。


 各局、選抜された評論家と名乗る人物を起用し、無責任な解説を並べさせる。情報が少ない分仮説は無数に存在するが、どの局も独自の方向性を持って話を進めている。その方向性がどの様に決められたのかは定かではない。


 数少ない事実から展開されたものもあれば、話の展開に含みを持たせ、選択肢重視、つまり、長期戦に耐えられるかで決められたものもある。評論家としても、この問題が長引く事を心の中で祈っているに違いない。唐沢は、自分のパソコンの電源を入れながら言った。

「ああ言った怖い世界には関わりたくないね」

 ある局の軸は、荒川選手が裏の世界と繋がっていた可能性を示唆している。

「本当に裏社会が関係しているのかな?」祥子は第3者的立場から言った。この事務所で取り扱う案件からは除外されている。

「俺たちには関わりが無いけど、相当根が深いと思うよ。ブラジルまでは到達していないだろうけど」


 祥子は目をパソコンに戻し、先日、調査を終えた、報告書の最終確認をしようと、気を取り直した。と、同時に久しぶりに事務所の電話が鳴った。

「はい、唐沢探偵事務所です」

『あっ、さっちゃん。誰だか分かる』

 電話の声は弾んでいる。これは、いつもの調子である。

「分かりません!」

 祥子はガッカリ感を声のトーンで示し、電話を唐沢に転送した。このやりとりは、何度と無く繰り返されており、唐沢は電話の主を特定できた。

「やあ、宮野どうした。何か良い話でもあるのか?」祥子と違い宮野からの電話を唐沢は歓迎していた。

『さっちゃん俺の事嫌っているのか?』

「好きか、嫌いかで言えば、好きなんじゃないかな」この様に云うと、宮野は黙った。祥子は相変わらず、仕事を続けている。唐沢は続けた。

「それで、どうしたの?」

『相談したいことがあるのだが。今日、昼でも取りながら。そっちに行くから』宮野は要件だけを伝えた。

「こっちは問題ないけど」

『誰にも聞かれたくないから、出前でも頼んでくれないかな。多分、12時過ぎには着くと思うから』

「出前もいいけど、この間、旨そうな寿司屋を見つけたんだが、そこじゃ駄目か?」

『駄目に決まっているだろう』

唐沢には、そんな決まりはない。

「・・・分かったよ。それだったら、鰻でも取ろうかな」

『おいおい、鰻はないだろ・・・・俺はお前の・・・』

 宮野の言葉は祥子の『やった!鰻だ!』に掻き消された。

「まあ、いいじゃないか。しがない事務所を食わせるのも記者の務めだと思うよ。それで、何て言った?」唐沢は宮野に聞き返した。

『・・・いや、何でもない』宮野は、電話口から漏れ聞いた声で、鰻を却下することを諦めた。経費で落ちなくても良いか。


 電話を切った唐沢は祥子に伝えようとしたがその必要はないようだ。

「お昼は鰻でしょ。出前は12時ね。でも、宮野さん遅れてくるかな~冷えちゃうと美味しくないから・・・どうしよう・・・急用そうだから遅れずに来るわね」

 唐沢はただ祥子を見て微笑むだけだった。

「宮野さん出前なんて珍しいわね。鰻だから文句はないけど。でも、よく承知したわね。唐沢さんがこと言ったからかな」祥子は、宮野から取りやめの電話が入る前に、電話番号を探しながら言った。

「あの感じだと厄介な話かも知れない。鰻でも割に合わないかも」

 唐沢は空になったコーヒーのマグを満たしながら言った。宮野の声がいつになく焦っていた。


 唐沢と宮野は学生時代からの友人である。宮野は唐沢と会うと記事には載っていない裏話を教えてくれる。唐沢はそれを聞くたび新聞や雑誌を何処まで信用して良いか分からなくなるのだった。学生時代、友人と呼べるのは宮野くらいであった。宮野は、社交的で沢山の友人がいた。内気な性格ではないが、いつもひとりでいる唐沢に宮野が興味を抱き近づいて来たのだ。唐沢はそのことについて宮野には伝えていないが感謝していた。ひとりでいるのは寂しいものである。


 唐沢事務所に先にやって来たのは鰻の出前だった。

「すいません。3つお待たせしました」

「はい。ありがとうございます。ここにおいて下さい」と言って祥子は応接用のテーブルを指した。

「お会計は1万4400円になります」

 値段を承知していた祥子は特に驚く様子も無く、事務所の金庫から1万円札と5000円札を渡した。

「ありがとうございます。こちらが領収書になります。終わりましたら外に出しておいて下さい」

「はい。ご苦労様でした」祥子は嬉しそうに言った。「お茶の準備をしないと。やっぱり鰻には熱いお茶よね」と言いながら祥子は鰻に付いていたお吸い物の分も含め、目分量で薬缶に水を注ぎ、ガスコンロに掛けた。祥子は年の割に古風なところがある。これは唐沢がアシスタントを採用する為の、面接では気付かなかった嬉しい誤算である。


                  *****


 事務所を開いた当時、人件費を削る為に、お手伝いとして親戚の叔母に事務関係を任せていた。唐沢は事務処理が苦手であった。と言うより、やりたがらない。しかし、その叔母が2年程前から体調を壊した。叔母の体調が回復するまで唐沢は、1人で事務所をやりくりしていた。叔母の療養が長期化すると分かり、新たにアシスタントを採用する事にした。採用と言っても事務所のホームページに募集した程度だった。どれ程の人間がこの事務所のホームページを観ているのか不安であったが、応募者は予想を上回った。将来性があるわけでもなく、社内恋愛なんて期待できないこの事務所に、これだけの応募があるのは、昨今の女性雇用の問題と、募集要項に何の資格も要求しなかったからだろう。

 ホームページには記載していなかったが、採用に際して次の項目を条件としていた。

 ① 一般常識があること

 ② 明るいこと

 ③ 芯が強いこと

 ④ さっぱりとしていて若いこと

 一般常識については必要最低限の要求だった。これがないと事務所のアシスタントは務まらない。明るさを求めたのは2人で仕事をする為に、暗い人だと息が詰まってしまう。芯が強いことは職業柄、一生知らなくてもよい事まで知るはめになる。最後の条件は純粋に唐沢の好みで、叔母の反動と言えば、罰が当たる。


 実際に唐沢が面接をしたのは26名。中卒が6名、高卒が10名、大卒が4名だった。唐沢は学歴については採用の条件に考えてはいなかったが、最低限手書きの履歴書は提出させた。これは、ホームページの募集概要にも記載していた。

 26名の内、6名が履歴書を持参しなかったため、何も聞かずに帰した。そのうち4名は文句を言ったが、その他は対照的に何も言わなかった。だから唐沢はその6名の学歴は知らない。


 20名の面接を終えた唐沢は疲れていた。たった1人採用するのも疲れる。質問すると、質問で返されるし、採用にプラスにならない情報を永遠と熱弁する人もいた。一番聞いていて辛いのは探偵経験を売りにする候補者である。まあ、1人だけ採用するから余計に疲れるのかもしれない。結局、1人でやって行った方が楽かな~と諦めの想いが周りの空気密度を高め、次第に周りを吸収し重さを得た絶望が肩にのしかかった。この重たい感覚から逃げるように事務所を後にした。


 唐沢は近くにある行きつけのバーに縋った。そしていつものカウンター席を選んだ。そこはいつもと変わらぬ雰囲気に包まれていた。そう、唐沢が期待したもの。異様な空気の塊は重厚な入り口のドアで遮断され追っては来ない。唐沢はマティーニを注文した。このバーの大半は1人客が占めている。それゆえ店内の雰囲気に、大きな偏りは存在しない。だから、1人の時間を何者にも犯されることが無いのだ。このバーでは唐沢は誰にも話しかけることはしない。もともと、社交的ではないのだが。言葉を発する相手はバーテンダーただ1人。バーテンダーと話すことも他愛の無い事象、ドリンクの注文、そして勘定の時くらいだった。殆どの場合、唐沢から口を動かした。稀にバーテンダーから話をするが、それは決まって唐沢がそれを欲している時だった。歩き疲れ、偶然見つけるベンチのようなタイミングで、バーテンダーは口を開くのだった。この場所の居心地の良さの源である。


 唐沢はいつものように1人の時間を楽しんでいた。正確に伝えると、楽しいとさえ感じさせない、心地よさに浸っていた。面接の事は、努めて考えないようにした。時間を使ってもその対価は得られないのだから。


 そんな時、静寂な水面が乱され、波が唐沢を撫でた。その柔らかな波を唐沢は感じとった。その根源は、波長を縮め、唐沢の2つ隣の席に着いた。いつもならそこは空席のままである。ここに居る誰もが裸なのに、この女性だけ服を纏っている。


外見はおよそ20代前半。年齢がまずこの場にそぐわない。その女性はリクルートスーツを身に纏っていた。女性はきちっと留められていた第1ボタンを外し、続けて第2ボタンも外した。第2ボタンを外しても女性の下着は覗かないが、羽織っていた偽りのオーラが解かれ、元来の彼女が現れたようだった。唐沢にとってその動作が波の振幅を和らげたように思えた。


『私の所へようこそ』とバーの精が呟く。


 バーテンダーは隔たり無く注文を訊ねた。髪の毛を掻き揚げ女性は唐沢を見た。しかし、直ぐにバーテンダーに目を戻し、唐沢と同じマティーニを注文した。女性はマティーニを待つ間、両肘をカウンターに付いて顎置きを作り、その上に顎を乗せ、何かを考え込んでいるポーズをとった。

「どうぞ」

「ありがとう」と言って女性はマティーニを一気に飲み干した。「もう一杯お願い」女性は空いたクラスをバーテンダーに渡した。

「かしこまりました」バーテンダーは優しい笑みを浮かべた。そして、唐沢に向かって軽く頷いた。


 女性は再び唐沢を見た。今回は唐沢と目が合ったことが、はっきり分かった。女性の目には『マティーニって美味しい』と書いてあると唐沢には読めた。何故だろうかそれはとても純粋な文字である。それが唐沢の掟を破らせた。この違反によってこの場所には戻れなくなる。ここに変わる場所を探さないといけない。大きな犠牲を伴う事を唐沢は承知していた。


唐沢は席を立ち、そして女性との間にあった空席を埋めた。

「僕も、もう一杯」唐沢もお替わりをした。

 女性はバーテンダーがドライ・ベルモットをミキシング・グラスに注ぐ動作を見ながら言った。

「私と競ってどうするの?」

「競う積もりはない。だって俺たちは敵じゃないだろう」唐沢もバーテンダーを見ていた。バーテンダーは唐沢の違反には立腹した様子を見せていない。表情に出さない時ほど内側が熱いこともあるが。

「何それ。私を口説いているの?」

「口説いてはいない。対戦相手ではなくチームメイトだと言いたかっただけ」

「チームメイト、か」と言って女性は唐沢を見た。そして続けた。

「それは何のチーム?」

 その答えにはもう少し時間が必要だった。

「さあ、何のチームだろう」

 女性は特に唐沢の答えに期待をしていなかったのか、ガックリした表情を見せることなく、

「じゃあ、こう言うのはどう?」


『お待たせしました』バーテンダーは2人にマティーニを渡した。


「つまり、私のこれから始まる社会生活を応援するのはどうかしら」

 唐沢は、『応援が必要なんだ』と、言って、そのささやかな提案に賛成した。

「じゃ、チーム結成に乾杯しようか」

 今回は一口飲んで女性はグラスを置いた。それを見て唐沢は言った。

「それで、このチームはどの球団を応援するの?」

 女性はグラスの淵を人差し指でなぞりながら言った。

「某大手銀行・・・」

 唐沢は思った。大手銀行に合格しているのなら一般常識は問題ないだろうと。

①の条件は難なくクリアーした。

「それは応援の甲斐があるな」

「それは逆でしょ。弱いチームを応援するから意味があるのよ」大手からの内定を不満に思っているのか。

「なるほど」と唐沢は頷きながら、ちょっと採点は甘いが“③の条件の芯が強い”に及第点を付けた。そして続けた。「だったらどうして大手企業に就職したの?」

 女性はマティーニで口を湿らせて言った。

「これから銀行も大変だから。私にも何か出来そうな気がして」

 短い言葉に決心の様なものを唐沢は感じた。

「本気でそんなこと考えているの?」

「いけない?」

 女性は、先ほどの純粋な眼差しを、限界まで凝縮させ唐沢の目を見た。唐沢は、“③の条件”に与えた及第点を引き上げてから、言った。

「いいや。素晴らしいと思うよ。だったらやっぱり応援団は必要だな」

「そうね。必要になるかも・・・」

 唐沢は、この際、②の条件の明るい事は、取りやめにすることにした。なぜなら、評価方法が難しい。

「でもどうして1人で祝いに来たの?」今時、若者は1人で祝うのか。

「祝い、ね。本当なら良いことだよね・・・」女性は再びマティーニを少し飲んで続けた。

「就職が決まってしまうと、本当にこれで良かったのか迷っちゃって。私だって馬鹿じゃないわ。女の私が銀行で何か出来るかなんて思ってもいないわ。でも、昔よりは、可能性があると思うの」

 言葉とは裏腹に、女性は初めて寂しそうな目をした。

「確かに、可能性は誰にでもあると思う」

 無責任だと思いつつも唐沢は吐いていた。募集を掛けて履歴書をもらい、他人の人生を左右する事に背を向けた罪悪感が言わせたのかも知れない。女性は見透かした様に、唐沢の思考をなぞった。

「無責任な事を言うのね。それとも、本当にそう思ったの?」

「確かに、無責任だった。俺には、君の人生に責任はもてないから」

女性は、マティーニが重力にあらがえるのかを確かめる様に、グラスをゆっくりと少し傾けた。結局、自分も会社の示す方向にしか、歩けない事は分かっていた。

「誰だって他人の人生に責任なんて持てないし、持つ必要もないわ」


唐沢は、感じ始めていた。女性は、唐沢が『無責任』と言った言葉が引っかかっているのではないと。どんな言葉をいっても関係がないのだと。会ったばかりの女性に表面的な事以外触れる事はできないが、そこは既に答えが存在している。だから尖ったもので掘り下げ様と試みると、女性が傷つくような気がした。華奢な背中に背負ってきたダムが決壊しそうなのだ。決壊したら修復する必要がある。それには時間が掛かるし、その間、水が溢れ続ける。それを受け止めるにはその人をある程度理解していて、かつ信頼関係が必要になる。


「じゃあ。応援させてくれないかな?」

女性は、持っていたグラスをゆっくりとテーブルに戻して言った。

「それは、歓迎するわ」

「ありがとう」

唐沢は、少なくなったマティーニを飲み干して言った。

「俺は、真逆の事で応援が必要なんだ」

女性は、考える素振りを見せた。

「真逆って?」

「実は社員を募集しているんだけど、これがなかなか大変で」

「へえ〜。人を採用するのってそんなに大変なんだ。色んな人と会えるのだから楽しくないの? それに選ぶ方なんだから」

「それは、違うな。受ける側が楽かも知れない。だって駄目でも他にチャレンジすればいい」

「それって、おかしくない。採用する方は、気に入らなければ、サヨナラすればいいわけでしょう。だって、代わりが来るもの」

ふたりは思わず笑った。唐沢の中で可笑しさが落ち着くのを待って言った。


「ようやく、を見つけた」


唐沢は、彼女の目の前で、主人を待っているマティーニを観た。彼女もそれを見つめていた。そして、彼女の肘と手首を繋いだ細い線と同等の箇所を持ち、マティーニを飲み干した。彼女は、親指と人差し指で器用にグラスを回しながら言った。


「これって面接だったの。お酒を飲みながら。。。。そして私は採用された」

「でもその格好なら面接でも可笑しくないと思うけど。場所はともかく」

 女性は開いたブラウスに目を落とし、唐沢はその横顔を見つめていた。それから2人はマティーニを何杯かお変わりした。その間、女性は、唐沢のオファーには答えなかった。唐沢も答えを聞かなかった。


「そろそろ帰ろうかな」唐沢は言った。既に、23時を回っていた。

「それじゃ、私も」

 唐沢は名刺を1枚取り出し彼女に渡した。

「良かったら電話して。ところでお名前は?」

「祥子と言います。北野祥子」

 唐沢は2人分の勘定を払い、このバーのルールを破った証を残した。

「ご馳走様」

「とんでもない。楽しく飲めたよ」


 2人がバーを出ると雨が降っていた。唐沢は傘を持っていなかった。女性も傘を持って来ていないようだった。駅までこの雨の中歩くには辛いし、永く降り続ける感じもしない。もう1度バーに戻って時間を潰すことも出来たが、唐沢は違う事を提案した。ルールを破った手前、ほとぼりが冷めないと戻れない。

「うちの事務所は直ぐそこにあるから雨宿りがてらコーヒーでもどう?」

 祥子は空を見上げた。ニュートンが見た様なりんごの大粒が地上目掛けて落ちていた。

「コーヒーはこの雨粒より美味しいの?」

「それは保証するよ。少し濃いめだけど」

「でも、面接の続きはごめんよ」

 2人は、小走りで事務所へ向かった。直ぐに着いたが2人はそれなりに濡れていた。

「丁度良かった。事務所の下見になるから」

 唐沢は本当にそう思っていた。少しでも心が揺らいでいるなら、事務所を見ておいた方が不安要素は減るし、働くイメージも湧く。2人はエレベータに乗り、5階に着くと唐沢は事務所の鍵を開けた。


「上着はそこに掛けて」と言いながら唐沢は台所に向かい、パボーニに電源を入れた。祥子は唐沢の背中が消えたのを見て、ソファーに腰を下ろした。

「本当に採用しているのね?」

 テーブルには履歴書の山があった。

「えっ?」と言って、唐沢は履歴書を持っている祥子を見た。

「ああ、そうだよ。なかなか難しくて」唐沢は、ミルに豆を入れながらは言った。

「これだけあるのに決まっていないのね」

 祥子はテーブルにある全ての履歴書に目を通している。先日までの立場が逆転していた。

「この人良さそうじゃない。可愛いし」

 唐沢は、豆を挽きながら祥子の前に座った。

「どれどれ」と言って祥子が『良さそう』と言った履歴書を受け取った。そして、その人との面接を回想した。

「これね・・・」と言って履歴書を机に置いた。

「履歴書をこれだけ見ると分かったけど、あまり意味がないね。提出を求めてからこんなこと言うと怒られるけど。大手企業みたいに大量に人を雇うなら有効かな」

 ミルは手動でも大分作業を終えた。ミルからコーヒーの香りが仄かに漂った。

「でもこうやって履歴書を並べると面白いわ」と言いながら祥子はテーブル一杯に履歴書を綺麗に並べた。

「それぞれに個性が現れている。写真では想像出来ないでしょ。その人がどんな字を書くのかなんて。この人の、観て。見た目は今風だけど字は綺麗ね」

 の祥子はその履歴書を手に取り、自分の顔の横に並べ綺麗な字を指さし微笑んだ。唐沢は、祥子のあどけない仕草に笑みを浮かべた。そして、テーブルに目を戻した。

「確かにこんな風に見たことは無かったな。なるほど。この方が選びやすいな」まるでスーパーでレタスを選ぶような気持ちで唐沢は履歴書を見ていた。

「どれが美味しそうに見えるの」

「今はお腹がいっぱい。そろそろ良いかな」と言って、唐沢はパボーニの圧力計を見にキッチンに向かった。圧力計の針は、緑のエリアで準備が出来た事を示していた。挽き立ての豆をセットして、レバーを上げてゆっくりと戻した。パボーニから押し出された蒸気がコーヒーをろ過し、エスプレッソ用の小さなマグに注がれた。そして手に2つマグを持って戻ってきた。1つを祥子に手渡して再び祥子の前に座った。テーブルの上を見ると新しい履歴書が置いてあった。確かに、それは、唐沢が事務所を出る時には無かった。

「私にはもう必要ないから」

 と言って祥子は窓の外を眺めていた。唐沢は1番上に置かれた祥子の履歴書と他のものと見比べようともしなかった。ただ、それをしばらく眺めていた。


「コーヒー美味しかったわ」

「濃すぎたかな」

「ううん。」

 雨は目的を終えたかのように止んでいた。

「まだ最終には間に合うわね」と言って祥子は事務所の壁に掛かっている時計を見た。

 唐沢はコーヒーに付き合ってくれたお礼と言ってタクシー代を彼女に渡そうとした。

「頂く理由がないし、コーヒーのお礼をするのは私の方よ」と言って祥子は受け取らなかった。

「それじゃ、駅まで送るよ」

「子供じゃないし、大丈夫」

 唐沢は、事務所の前で祥子と別れた。もう少し事務所で時間を過ごしたかった。

 雨に濡れたアスファルトから乾いた夏が匂う中を、駅に向かう祥子の姿をずっと見送っていた。

 

 翌日、唐沢はいつもより早く事務所に来た。そして書類の準備を始めた。無駄な書類を作るのは、環境に良くはないが可能性はある。初めての作業なので思ったより時間が掛かった。書類が完成したのは9時ジャスト。天気予報だって降水確率が10%でも雨は降る。これだけ宇宙に飛行物体を飛ばしても外れることはある。時計が9時30分を指した時、事務所のドアがノックされた。もし、宮野が立っていたら彼を招き入れる前にドアを閉めるだろう。開けると祥子が立っていた。昨日と違ってジーンズとTシャツ姿で祥子は現れた。条件④もクリアーした。

「遅刻かしら?」

「ああ。30分」

「そこに座って」と言って昨日と同じ椅子を勧めた。そして準備していた書類を祥子に渡した。「これが条件。何か不満があったら言って」エスプレッソ用ではなく、普通のコーヒーマグを祥子に渡した。

「それで条件はどう?」

「そうね。悪くはない、かな。でも、有給休暇はあるの?」

 唐沢はすっかり休みの事を忘れていた。

「それは任せるよ。ただ、無断欠勤は給料から天引きだから」

 祥子は、暫く目を閉じた。Tシャツとジーンズの方がよっぽど似合っていた。

「チーム結成ね。それでいつから働くの?」

「早速今日からお願い出来るかな?」

「いいわ」

祥子は、大学を卒業するまで、出来るだけ出勤した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る