3,012,725,010分の遅刻

権俵権助(ごんだわら ごんすけ)

3,012,725,010分の遅刻

 ドン!という衝突音を号令に、大勢の野次馬たちが現場へ駆けて行った。その中に、人波に流されることなく、じっと立ち尽くす女性がいた。


 彼女はその時やっと思い出した。だが、今回も遅すぎたのだ。


※ ※ ※


「先輩。明日、何か予定ありますか?」


 男が尋ねると、白衣の彼女はチャームポイントのポニーテールを揺らして振り返り、あっけらかんと笑った。


「もう、分かってるでしょ! 私は毎日この研究室に閉じこもってるのが楽しいの。それ以外に予定なんて無いよ」


「そ、それじゃあ……ちょっとだけ息抜きに、食事でも行きませんか?」


 彼女は少し考えて。


「うん、それくらいなら別にいいけど……。あっ、でも! 私を口説こうなんて思ってもダメだからね」


「えっ?」


「キミ、忘年会の時に酔っぱらった勢いで私のこと好きだって言ってたでしょ」


「ええっ? 俺、そんなこと言いましたっけ……」


「言ったよお。私、記憶力はいいの」


 彼女はコホン、とひとつ咳払いをして。


「とにかく、私は死ぬまで研究一筋なんだから、相手が誰であろうと、たとえ百万回誘われたってお断り!」


 彼女は冗談めかして言ったが、男は引き下がらなかった。


「そっ、それでもいいです! じゃあ明日、夕方6時に向かいの公園で……!」


※ ※ ※


「はあ、はあ……!」


 男は走りながら腕時計に目をやった。6時5分。まずい、非常にまずい。


 ところで。


 男は生まれながらに「予知」ができた。人生の岐路が訪れると、その時に選ぶべき「正解」が見えるのだ。それゆえに、彼はこれまで失敗らしい失敗をしないで生きてきた。


 しかし今度は違った。今日の告白が成功するかどうか、あるいはどうすれば成功するのか。その答えがまるで見えてこないのだ。理由は分からないが、一つ言えるのは、これが彼にとって本当の意味で初めての「挑戦」だということだ。そして、その挑戦が遅刻でいきなり失敗しそうになっているのだから、彼が焦るのも無理はなかった。


「くそっ、こうなるって予知で分かってたから早く家を出たのに……!」


 遅刻の原因は突然の腹痛であった。いくら事前に予知できていたところで、急な体調変化だけはいかんともしがたい。


「わっ、もう来てる……!」


 広い道路の向こう、公園の入口に彼女が立っているのが見えた。


 どうやって謝ろうかと考えて気が散っていたせいもあるだろう。道路に一歩踏み出した瞬間、右手から信号無視のトラックが突っ込んでくるのに気付くのが一瞬遅れた。


 間に合わない。


 普通なら。


 だが、彼は間一髪のところで足を引き、トラックを躱した。「予感」がしたのだ。予知というほどハッキリしたものではない。かすかに頭に浮かんだ嫌な予感……その程度のものだった。しかし、結果的にそれが彼の命を救ったことになる。


「あっぶ……!」


 反射的に胸に手を当てる。心臓の鼓動が早い。それにしても、なんという危険運転だ。去りゆくトラックに文句の一つでも言ってやろうかと睨みつけようとして、男はさらに鼓動を早めた。


「なっ……」


 トラックが、まだ目の前にいた。


「そんなバカな……」


 あり得ない。ブレーキの音なんて聞こえなかった。いや……それ以前に、ゆうに時速60kmは出ていたはずだ。すぐにブレーキをかけたところで制動距離がこんなに短いはずはない。


 だが、異変はその程度では済まなかった。男は木々から舞い落ちる葉を見て、自分の置かれている異常な状況に気が付いた。


「どうなってるんだ、これは……」


 男はゆっくりと手を伸ばして、空中で一枚の葉っぱを掴んだ。ヒラヒラと風を受けて舞い落ちる葉を掴むなど、本来ならそれなりの反射神経がなければできない芸当である。だが、葉が空中にピタリと静止しているのであれば話は別だ。


「こんなことって……」


 落ちる葉も、走る車も、吹く風も、そして道路の向こうで待つ彼女も、見渡すすべてが静止していた。


「悪いけど、ちょっと時間止めさせてもろたで」


 いつの間にそこに現れたのか。男の目の前には浮かんでいた。人の顔ほどの大きさ。大福のような丸くて白いボディの真ん中に、大きくてつぶらな瞳。頭には電波塔の形をしたアンテナらしきものが生えている。どこから見ても……売れないゆるキャラだ。


「…………っ!」


 驚く男を無視して、浮かんだ大福は話を続けた。


「あのなあ、そういうことされたら困るんやわ。キミはここでトラックに轢かれて死ぬ! ルールをちゃんと守ってもらわへんと、みんなに迷惑かかるんやからね」


「なっ……なんだお前は! っていうか、この状況はなんだよ! お前がやったのか!? なんで時間が止まってるんだよ! お前はなんなんだ!?」


「あーもう、うっさいな。混乱して質問がループしとるで。ワシはな、この世界の管理人や。……まあ、そやな。どうせ後で無かったことになるんやし、教えたってもええか」


 果たして、この異常事態をどうやって説明できるというのだ。真剣に耳を傾けた男に、大福は斜め上の言葉を発した。


「お前、人間は死んだらどうなると思う?」


「………………………」


「……おい、なんやねん。その警戒心むき出しの顔は?」


「あ、怪しい新興宗教に入信させようったって、そうはいかんぞ」


「ちゃうわ! むしろその逆や! ……あのな、人は死んだら、時間を遡ってまた自分に生まれ変わる。そしてまた同じ人生を繰り返すんや」


「……自分に生まれ変わる?」


「そうや。人間は皆、何回も同じ人生を繰り返しとるんや。せやから、よく『ワシは〇〇の生まれ変わりだ〜!』言うとる怪しい教祖おるやろ。あれは例外なく嘘つきや。なにしろ、自分は自分にしか生まれ変わられへんのやからな」

 

 いきなり話が壮大になってしまい、男はますます混乱したが、なんとか頭の中で整理をする。


「……じゃあ、これは何度目だ?」


「ほう、なかなか理解が早いやないか」


 大福は男の質問に感心した。男がここでトラックに轢かれて死ぬ……既にその運命が決まっているということは、つまり、今の人生は最低でも2周目以降なのだ。


「今回で602,545,001回目や」


「ろっ……!」


 6億回。想像していた以上の回数だ。それだけあのトラックに轢かれ続けたのかと思うと、男はなんだか余計に腹が立ってきた。


「しかし今回、俺はトラックを避けたぞ」


「せや。それが問題なんや。そんなことしたら何が起きると思う?」


「何がって、俺がこの先も生き続けられるに決まってるだろ。一体、それのどこが問題なんだ。いいことじゃないか」


「そら、お前にとってはな。けど、世界はそんなに単純やない。お前が生き続けることによって、世界にゴッツい影響が出るんや」


「そんな大げさな。俺なんてしがない大学生の一人だろ」


 大福は首を……いや、首は無いので全身を横に振った。


「……例えばやで。お前が今後の人生のどこかで財布を拾ったとする。どうする?」


「そりゃあ、警察に届けるさ」


「届けたことで、本来は失くしてしまうはずだった財布が落とし主に戻る。そして、落とし主はその金を元手に始めたギャンブルで多額の借金を背負い、ついに首を吊ることに……」


「お、おい! 勝手な妄想するな」


「勝手な妄想やなんて、なんで言い切れる?」


「それは……」


「ホンマは死んでたはずのお前が生き続ければ、それだけで多くの人間に影響を与えてしまうんや。良くも悪くもな。お前にその責任がとれるんか?」


「………………」


 明らかな詭弁である。選んだ行動の責任はその人間にある。結果、何が起ころうとも、それが選んだ者の生き様なのだ。


「ちゅうわけで話を戻すと。そもそも、なんでお前がトラックを避けられたのか。それを調べたところ『記憶のキャッシュ』が原因やと分かった」


「キャッシュ? 現金のことか?」


「ちゃう、パソコン用語や。まあ、正確には違うとこもあるんやが……分かりやすく言うたら、生まれ変わった後も、前世で特に印象の強かった記憶が抹消しきれずに残ってしもてる、いうこっちゃ」


 その説明で男はピンときた。これまで「予知」で見えていたものは未来の景色ではなく、むしろ過去。6億回以上繰り返してきた前世の記憶のかけらだったのだ。そう考えれば、してもいない告白の結果が見えなかったのにも合点がいく。


 そして、事故を回避した「予感」にも説明がつく。あのスピードのトラックに轢かれたのならほとんど即死だろう。それゆえ事故の記憶は一瞬しか残らず、それをわずかなとして認識できるまでに6億回以上の記憶の積み重ねが必要だったということだ。


「せやから、溜まったキャッシュを削除した上で、いっぺんリセットせなアカン。ワシはそのために来たんや」


「……つまり、俺に記憶のキャッシュを消して、もう一度人生をやり直せと?」


「せや。もしイヤや言うたら、少々手荒いこともせなアカン。どや、素直に従ってくれるか?」


 男は考えた。


 キャッシュの削除をするかどうか、ではない。今までの自分の生き方について考えたのだ。


 受験、恋愛、友人関係……。彼は人生の重要な場面において、いつも予知……つまり過去の記憶に頼って生きてきた。だが、その成功の記憶はあくまでも過去の自分が辿り着いたものであって、今の自分はそれをなぞったに過ぎない。


 選んだ行動の責任はその人間にある。結果、何が起ころうとも、それが選んだ者の生き様なのだ。だが、今の自分は「選択」すらしていなかった。


 過去の自分と、今の自分。


 どちらも先輩に想いを伝えようとしていた。だが、どちらが彼女に相応しいのかは明らかだった。


「……キャッシュ、消していいぞ」


「おっ、ホンマに素直やな!」


「その前に、一つだけ」


 言うと、男は時間の止まった世界を歩き、公園で待つ彼女の前に立った。


「……先輩。俺、あなたに相応しい男になって、また告白しに戻ってきます。だから、待っててください」


 過去の記憶をすべて消し、自分の力だけでもう一度ここへ戻ってくる。


 男はそう誓った。


※ ※ ※


 再び歩む人生は苦労の連続だった。


 何億回も過去の記憶に頼って生きていた間に、過去の自分と比べて判断力は鈍り、努力への耐性も失われていた。


 代わりに残されていたのは、消されたキャッシュの後に生まれた小さな使命感。それが何かは思い出せなかった。だが、目指す場所に迷いは無かった。


 男は必死にもがいた。人一倍考えて、人一倍しんどい思いをした。そうやってボロボロになりなら、彼女へと続く「正解」の道を自分の力だけで見つけ出し、歩いていった。


 だが、運命は避けられないから運命なのだ。


 再び、あの日が訪れた。


※ ※ ※


「はあ、はあ……!」


 男は走りながら腕時計に目をやった。6時5分。まずい、非常にまずい。


 突然の腹痛のせいで、彼女との待ち合わせ時間を過ぎてしまった。


 どうやって謝ろうかと考えて気が散っていたせいもあるだろう。道路に一歩踏み出した瞬間、右手から信号無視のトラックが突っ込んでくるのに気付くのが一瞬遅れた。


 次の瞬間、男の体は吹っ飛ばされ……道路の手前に倒れ込んだ。


「ま、間に合ったぁ……」


 飛び出す直前、全力の体当たりで男を突き飛ばした女性がホッと息をついた。


「せっ……先輩!?」


 公園で待っているはずの彼女が、そこにいた。


「もう、待たせすぎだよ」


「待たせすぎって、まだ5分しか……」


「3,012,725,010分だよ」


「さ、3……えっ?」


「602,545,002かける5分。だから、待たせすぎ」


 キャッシュを失くした男には、彼女が何を言っているのか分からなかった。


「言ったでしょ。私、記憶力はいいの」


 目の前で命が散る瞬間。それは彼女にとって生涯で最も忘れられない記憶となった。その記憶は人生を周回するたびに彼女のキャッシュへと積もり続け、ついに「予知」として発現したのだ。


「あ、あの……」


 男は立ち上がり、全身の砂埃をはたいて、彼女に正式に向き合った。


「先輩は、その……誰ともお付き合いをするつもりがない……それは分かってます。でも……気持ちだけは伝えさせてください。……好きです」


「うん。それじゃ、ご飯食べたら来週のデートどこ行くか決めよっか」


「はい! …………えっ? それ、どういう……」


「ふふっ」


 彼女は戸惑う彼の手を引いて走り出した。


 百万回どころか、何億回もアタックしてきた男は、後にも先にも彼だけだろうから。


※ ※ ※


「あー、もうメチャクチャや」


 大福が上空から二人の様子を眺めて諦めの声を上げた。もはや彼らを止めたところでどうしようもなかった。なぜなら今、世界中で連鎖的に彼らのように異なる人生が動き始めていたからだ。


 男の人生は、一見するとかつての自分が通った道をなぞっているだけのように見えた。だが、その道を選んだのは他の誰でもなく「彼」だった。この世に二つと無いその新たな人生が、彼に関わった人々にも新しい影響を与え、そこから連鎖が始まった。


 世界はこの時、ようやく自分の意志で動き始めたのだ。


-おわり-

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