第70話 トーマス・ミラー・ロマノフ





「わたしの母上と、キミの母上が、そっくりだと言うことなのか?」

 アナスタシアは恐る恐ると葵に尋ねた。

「そっくり……?」

 いや、そっくりなんて言葉では収まらなかった。まさに母その人だった。

「マリー様。恐らくこの方は、孔明殿の…いや、孔明様の母君でもあらせられる、と思いますのじゃ」

 アナスタシアはビルヘルムの言葉に動じなかった。きっと彼女なりにそう感じる節があったようだ。

 そして、ビルヘルムの言わんとする所は、大筋において葵の理解の範囲でもあった。

「つまりぼくは、異世界転生したトーマス・ミラーなんですね」

 アナスタシアの大きな目が更に見開いた。

「それじゃ、母上は……」

「そう。十一年前、向こうの世界で殺されようとしたぼくの前に、縦となって現れ、そしてぼくの代わりに暴漢の刃の犠牲になったのは、マリーの母上です。ぼくはずっとこの方をお母さんとして記憶に留めていましたが、正確には、前世に置けるぼくのお母さん……トーマス・ミラーの母上だったのですね」

 葵は十一年前の不確かな記憶を探りながら、断片的ではあるがその出来事についてアナスタシア達に話した。

「やはりそう言うことじゃったのか」

 ビルヘルムは納得顔で何度も頷いた。

「アマンダ妃が命を懸けてセントラルハーツに飛び込んだのは、異世界転生したトーマス様を助けるための行いじゃったのだな」

 それだけでは説明不足と感じたのか、ビルヘルムは葵に向けて言葉を続けた。

「セントラルハーツはパンゲア大陸全体の魔法マナを管理統括する膨大なマナを貯蔵したコントロールルームなのじゃよ。セントラルハーツに入ればどのようなマナも極限まで使用できるのじゃ。だからアマンダ妃は、冥府眼で知った転生先のトーマス殿下の危機に際して、自らの犠牲を顧みず、自身を異世界転移させてあなたを守ったのじゃよ」

「母上……」

 アナスタシアは流れ出る涙を隠さなかった。

「母上の気持ちは、わたしには痛いほど分かる……。あの頃、兄上様の戦死の知らせを受けて随分沈んでおられたから……。その場にわたしがいたら身代わりになってあげたのにと、ずっと言っておられた……兄上様を守れなかったご自分をずっと責めていらした……。だから、転生先の兄上様の危機を知った時、居ても立ってもいられず、母上はセントラルハーツに飛び込んだのでしょう……」

 アナスタシアは泣き濡れた瞳で葵を見上げた。

「何が何でも、今度こそ兄上様を助けたい、守りたいと……その一心の思いで………」

 アナスタシアは縋る様に葵の体に抱きついて号泣した。

「兄上様……戻って来られたのですね、このマリーの下へ……」

 葵は泣きじゃくるアナスタシアの黒髪を優しく撫ぜた。

「マリ―。ぼくはね、最初にキミと出会った時、何となく何処かで出会った気がしたんだ」

「わたしもです。あなたを初めてみた時から兄上様のようだと感じていました」

「ぼくたちの出会いは偶然なんかじゃなかったんだ」

「はい」

「とは言っても、ぼくにはトーマス・ミラーの記憶が全くないから、兄妹の実感はあまり感じないんだけどね。それでも、マリーを愛する気持ちは更に深まった気がするよ」

「わたしもです」

 そう言いつつも、アナスタシアはうれいた顔を見せた。

「わたし達が兄妹なら、結婚は出来ないのでしょうか?」


「心配ご無用じゃ」

 ビルヘルムが可笑しそうな顔をした。

「魂の問題じゃから、近親婚の心配はせずともよろしい。それより……」

 ビルヘルムはクックックッと声を殺して笑った。

「男言葉のマリ―様も、少女になられる時もあるのじゃな。そんなマリー様を見るのは八年振りかのぉ」

「酷いぞ、ビルヘルム! 恥ずかしいではないか」

 アナスタシアは顔を真っ赤にすると、葵の胸に顔を隠した。

「マリ―。孔明」

 ずっと黙っていたニコラスが葵達の傍に寄り添った。

「わたしとて、まだ半信半疑だ。だから孔明をこの部屋に招いたのだ。セントラルハーツを無事に出入りできるのは黒髪・黒瞳を持った皇族者だけだと聞くが、転生したトーマスの魂を持つキミならセントラルハーツに認めてもらえると、わたしは感じているのだ。それを確かめたかったのだ」

「つまりじゃ、黒髪・黒瞳の孔明様がトーマス殿下の生まれ変わりであるなら、セントラルハーツを制御する資格があると言うことじゃ」

「ちょっと待て欲しい!」

 葵の胸に顔を預けていたアナスタシアが、二人を振り返った。

「陛下、ご自分が何を申しているのかお解りならないのですか? 万が一セントラルハーツに拒絶されるようなことがあったら、兄上様は再び帰らぬ人となるのですよ」

「セントラルハーツに拒絶されるかどうかは、そこに入ってみなければ分からないことだ」

「何てことを仰るのですか!」

 アナスタシアは葵を後ろに庇うようにして両手を広げた。

「そんな博打のようなこと、わたしには認められない!」

「マリー様は、確かまだこの中に入られたことはなかったですな」

 落ち着き払ったビルヘルムの言葉に、戸惑いながらもアナスタシアは小さく頷いた。

「中に入られたことのあるお方は、この中ではニコラス陛下だけですが、トーマス様は入られたことがありますじゃ」

「兄上が入られたのか?」

「さよう」

「では、どのようなことを申していた?」

「わしには何も話してくれませなんだ」

 ビルヘルムはそう言ってニコラスに視線を向けた。

 彼の意図をんだアナスタシアがニコラスに向き返った。

「お父様、お話しください」

「お父様か……わたしがその言葉に弱いことを知っておいて……ずるいぞ、マリー」

 顔をしかめながらもニコラスの眼差まなざしは穏やかだった。

 しかしそれも一瞬だけだった。

 何かを話す決意を示した時、ニコラスは顔色を変えた。

「ゲルマン王国がバルキュリアを使って攻勢を強めてきた時、レブリトールでは下級貴族達が動揺して逃げ出す者さえいたのだ。それだけならまだいい。敵の調略に乗ろうとする者さえ出始めたのだ。この大鏡が映し出す離反の動きに、わたしもさすがに肝を冷やしたよ」

 一度体勢が崩れた隊を立て直すのは至難の業だ。

「崩れかけた陣形を立て直すにはそれなりの旗印が必要となって来る」

「兄上をレブリトールに向かわせた理由が、そこにあったのですね」

「そう言うことだ。七人いるすべてのS級シュバリエをトーマスの護衛に加えて安全を確保したつもりでいたのだが……」

 スルーズの記憶では、ゲルマン軍総帥の陽動作戦が功を奏して、七人のS級シュバリエを分断させ、その隙を突く形でトーマスを討ち取ったのだ。

 討ち取ったのがスルーズの姉のエリーナ・ゼルなのは何度も述べた。

「トーマス・ミラーがセントラルハーツに入ったのは、レブリトール出立しゅったつ直前だったという訳ですね」

 と葵が聞いた。

「そうだ」

「そんな切羽詰まった状況の中でセントラルハーツに入ると言うことは、何か理由があった筈です。違いますか?」

 問い詰めるような葵の質問にニコラスは少し眉をひそめた。

 アナスタシアが葵の腕を引いた。

 ニコラスの機嫌の変化に神経を尖らせているようだった。

 アナスタシアのそんな様子に気付いたニコラスは作り笑顔を浮かべた。

「ともかく、わたしの説明を聞くより、セントラルハーツに語り掛けた方が、理解は早いと思うがな」

「分かりました」

 葵はメテオラ鉱石の扉の取っ手を握った。

「まて、葵」

 アナスタシアが止めたが、葵は笑って首を横に振った。

「ぼくは運と勘はいいんだよ。ぼくの勘が、大丈夫と言っているんだ」

「葵…」

「だからマリーは、ぼくを信じてここで待っていて欲しい」

「なら、わたしも一緒に入る」

 アナスタシアはもう片方の扉の取っ手を掴んだ。

「葵が行くならわたしも行く」

 いつものアナスタシアに戻っていた。

 葵は微笑んだ。

「分かった。一緒に行こう」

 葵の言葉を合図に二人は取っ手を引いた。

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