第67話 マリーとの婚約
葵とアナスタシアは、皇帝執務室ではなく、皇帝ニコライの自室に招かれた。
侍女が飲み物を用意しようとしたので葵はそれを制して、自ら紅茶を用意した。ミルクは持参してなかったのでハーブティを淹れた。
「ほぉ…。これは素晴らしい味と香りだ」
ニコラスは王冠を外して、継承皇帝の証である黒髪を見せていた。
「これがマリータウンで話題の紅茶というものだな」
「お父様ったら……!」
マリータウンと言われてアナスタシアは頬を赤くした。
ニコラスは柔和な表情を見せた。
「お父様かぁ……マリーがそう呼んでくれるのは子供の時以来だな」
言いいながらティカップをテーブルに置いた。
「何かいいことでもあったのかな? 心なしかマリーの表情が柔らかくなった気がするのだがね」
ニコラスは視線を葵に向けた。
「アナスタシア様…いえ、マリー様からお話は聞きました。黒髪の皇位継承のお話を」
葵がマリーと言い直した時、ニコラスの眉が少し動いた。
「そうか…話したのか」
ニコラスは至って穏やかだった。
「マリーは孔明のことを、つまり…どのような気持ちで…その…」
ニコラスは言葉を探しながら、それでいて探しきれない、もどかしさを表情に見せた。
だがアナスタシアの目は真っ直ぐニコラスを見ていた。
「わたしは孔明を愛しています」
ニコラスは目を丸くして動きを止めた。
そして小さく笑みを浮かべると再び葵を見た。
「ぼくもです。恐れ多くもぼくはマリー様のことを愛してしまいました」
娘の父親への挨拶として適切だったかどうか葵には分からなかった。だが、正直な今の気持ちは伝わったと思っている。
「相思相愛と言うことかね?」
葵はアナスタシアと目を合わせてしっかりと頷き合った。
そして、
「はい」
と二人揃ってに返事をした。
「皇帝陛下」
とアナスタシアは襟を正してニコラスを見つめた。
「わたくしアナスタシア・マリー・ロマノフは、如何なる時にも皇帝陛下とロマノフ帝国のために粉骨砕身することを誓います。されど一つだけお願いしたき儀がございます」
「話すがいい」
「孔明は正式に我が夫として迎い入れたく存じます」
「まさか、孔明に皇帝の座を…」
ニコラスの顔色が変わった。
「違います。禅譲は孔明も望むところではございません」
とアナスタシアは力強い口調で言った。
「帝位継承はわたしが責任を以て引き継ぎ、安定した皇位継承を次世代に繋いで行く所存にございます。ですが、わたしも自身の幸せを孔明と共に
「なるほど」
「皇帝とは別の所で、わたしは一人の女でありたいのです。彼の妻となって、子を産み、温かい家庭を作りたいのです」
アナスタシアは愛しむ眼差しで葵を見つめた。
「傍にいて、共に生き、一緒に老いて行く……。それがわたしの願いなのです」
アナスタシアはニコラスをもう一度見た。
「公務に支障はきたしません。わたしのこの思い、お許し願えないでしょうか」
ニコラスは腕を組み、瞼を閉じてう~んと考えを巡らしている風だった。
「確認しておきたい」
「はい」
「皇帝を継承するのは飽くまでマリーだ」
「はい」
「マリーが譲位する相手は孔明とマリーの間に生まれた子供である事。もちろん黒髪黒瞳の子供だ」
「はい」
「以上に相違ないな」
「はい。相違ございません」
ニコラスはアナスタシアの真っ直ぐな目を見た後、葵に視線を移した。
「軍師孔明。マリーの夫となるキミは如何なる地位を望むか?」
「爵位や官位は望みません。むしろ平民街での暮らしを望みます」
それが癖なのか、ニコラスはう~んと唸りながら腕を組んだ。
しばらくしてニコラスは言った。
「孔明。欲がないことは、必ずしもいいこととは限らないぞ」
「ぼくもそう思います」
「では何故それを口にした?」
「今申し上げたことは、ぼくの思いに他なりません。思いは飽くまで思いです。現実とは別物なんです」
「なるほど。では、キミの言うところの現実を聞かせてくれたまえ」
「マリー様の夫に相応しい名誉職だけ頂きたいと存じます」
「それは如何なる思いか?」
「皇帝陛下の夫が平民では、皇帝の権威が損なわれ、国民に侮られてしまうでしょう。かといって、上流貴族の称号を与えられて、所領を得れば、ぼくにその気がなくとも、ぼくを男王に押し上げてマリー様と対抗する勢力に祭り上げられる可能性だってあります。どちらの懸念にも考慮した結果、地位はあるけど権力は持たない名誉職と言う考えに行きついたわけです」
「では、キミが至ったその名誉職とはいかなるものだ?」
「現状維持です」
「つまり、ロマノフ帝国の軍事総帥ではなく、アナスタシア・マリーの軍師のままでいいと言うのだな」
「はい。ぼくの行動は常にマリー様の監視下で行われると言うことです」
「待て。わたしはキミを監視なんてしないぞ。わたしはキミを疑うようなことはしない」
「分かっていますよ、マリー様」
懸命に訴えるアナスタシアを、相変わらず真っ直ぐな人だと葵は思った。
「対外的な話ですよ、これは。ぼくがマリー殿下の家臣であることを皆に示す必要があると言うことです。ぼくとあなたとの信頼関係とは全く別物とお考え下さい」
「そういうことなら承知した」
懸命なアナスタシアは小さく頷いた。
「マリーと孔明の考えは、よく分かった」
ニコラスは自分の膝を叩いた。
「マリーの望む形で伴侶を見つけたのであれば、わたしとしても喜ばしい限りだ。今日の日を以て、二人の婚約を正式な物にしたいと思う。それでよいな?」
「はい。皇帝陛下、異存はございません。ですが婚約発表はもう少し後にして頂きたいのです」
「………?」
アナスタシアの要求にニコラスは首を傾げた。
「今はまだ敵国の脅威に備えなければならない時にございます。わたし達の婚約の儀で、緩んだ空気を国民に与えてしまっては、敵国にその隙を突かれるやもしれません。もう少し情勢の安定を図った
「成程。さすがは我が娘だ」
ニコラスはその日一番の笑みを見せた。
「浮かれそうになる中、冷静な状況判断が出来るようになったのだな。マリー、おまえの意を酌んで国民にはしばらく伏せて置くことにするよ」
「ありがとうございます」
葵が笑みを向けると、アナスタシアも笑みで返した。
葵には分かっていた。アナスタシアが、スルーズの気持ちに配慮して、婚約の発表を控えた事を。
(ありがとう。マリー)
葵はアナスタシアに巡り合わせてくれたこの世界に心より感謝した。
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