第54話 想い





 スルーズの怪我は予想以上に深かった。

 五日も経つが、彼女まだベッドに横たわっていた。

 皮肉にもそれは、彼女が殺害した前国王・リーデルフ・ハイネンのキングサイズのベッドだった。

 心臓に損傷はないようだが、通常の人間なら助からなかっただろう。

 ハルにリュックを預けたが、それでも必要最小限の傷薬は手元に取ってあった。

 葵には一つの誤算があった。

 ほんの少しでも治癒魔法を使える者さえいれば、葵とシンクロする事で、劇的な回復を見込めるはずだった。

 しかし、スルーズの仲間たちのアジトである元・王立保養所には、バルキュリアを支持する二百人程の人間が共同生活をしていたが、治癒魔法を使える者はいなかったのだ。

 葵はスルーズに付きっ切りの看病をしていた。

 破傷風予防の注射はしてあるから細菌に侵される事はないだろう。

 傷は内部から徐々に塞がっては来ているが、表面の傷を治癒するには至っていなかった。

「アナスタシア様の剣の鋭さが……うかがえますわ」

 葵は、上半身をさらしたスルーズの豊満な乳房の右下の深い刀傷にワセリンを塗り込んで、食品用ラップで体に巻き付ける手立てしか知らなかった。

 時々手の甲に当たるスルーズの乳房に、葵は戸惑ってしまう。

「気になるのでしたら、触って頂いて結構ですよ」

 そう言って微笑むスルーズの目に、葵はサキュバスの魔性を感じた。

(でも、ロゼは男と交わったことはないんだ……)

 そんなことを少しでも思ったりしたものなら、

《それじゃ、葵様がお相手してくれますか?》

 とからかって来る。

〈ほくをからかうんだったら、明日からメリッサに頼もうかな?〉

《ごめんなさい。……でもね、本気なんですよ、わたし》

〈それじゃ明日から…〉

《ごめんなさい。もういいませんから》

 甘えたように葵を見上げるスルーズは、やはり憎めなかった。

 少しでも傍を離れようとすると、スルーズの手が葵を掴んだ。

「傍にいて欲しいの」

 女の顔を見せたかと思うと、小さな女の子にも似た仕草をする。

(寂しいんだね)

 スルーズの心が伝わってくる。

 近づけばそれだけ互いの心の中が知られてしまう。

 スルーズが魔力封じの亜麻色の髪を付ければ済む事だが、今それは出来なかった。

 スルーズの治癒能力も封じる事になるからだ。


 葵は一人になりたいと思う時があった。

 そんな時訪れるのが、建物のすぐ傍にある圧巻のヘイラ―瀑布だった。

 壮観な水の流れと、身を切る様な水しぶきの冷たさが、葵の苦悩を洗い流してくれる気がした。

 しかし、ここに来てもアナスタシアの姿が心から離れる事はなかった。

 アナスタシアが近くにいる時はスルーズの事ばかり気になってしかたなかったのに、アナスタシアから離れた今は、彼女の事がばかリ考えてしまう。

 葵が抱く愛情のカテゴリーは、決して同じではなかったが、大切に思う気持ちに上下の差はなかった。

(ぼくはどうすればいいんだろ?)

 葵は今まで生きた人生に悩みを抱える事が殆どなかった。

 そもそも悩む前に全て諦め、受け入れて生きていたのだ。

 でも今は違った。

 スルーズと出会い、シンクロして、そしてスルーズの心を、無くした葵の感情こころに上書きしたのだ。

 それがなかったらシャルルとの友情も、最貧困層の救済も、そしてアナスタシアに恋する事もなかった。

「葵様」

 背後にスルーズがいた。

「ロゼ、歩いて大丈夫なのか?」

「ええ。ゆっくり歩くだけなら問題ありません」

「それならいいんだけどね」

「やはり、後悔されているのですか? わたしに出会ったこと?」

 葵は首を横に振った。

「それだけは、絶対ないよ。キミとの出会いは、ぼくにとって人生を変える大いなる転機だった。今ではそう確信しているよ。キミとの出会いは運命だったんだ」

 スルーズはそっと葵の背中を抱きしめた。

「ただ、そのことでキミを苦しめているのは事実だ。それだけがぼくは辛い」

「アナスタシア様を想う葵様のお心は、誰にも止められませんわ。それと同じように、葵様をお慕いするわたしの心も……」

「ぼくは残念な男なんだろな。そう言ったことの解決方法を全く知らないんだ……。今まで人を避けて生きていた、ツケが回って来たんだろうね」

「葵様……」

「どの道、アナスタシア様に恋したって、ぼくの想いは報われないって分かっているよ。だからと言ってロゼをその代わりに、なんてことはしたくないんだ。だってキミは誰かの代わりに出来る、そんな女性じゃないんだから。ロゼとアナスタシア様には、いい加減な付き合い方はしたくないんだ。どちらもぼくにとって大切な人だから」

「嬉しい……。でもね、女は欲張りなんですよ。わたしだけを見つめて欲しいと思うものなの」

「男だって、同じだよ」

 スルーズには悪いが、その想いの先にいるはスルーズではなくアナスタシアだった。



 葵は、大学で目に触れた光景が、ふと脳裏をよぎった。

 あるカップルが通りかかった時、前を歩く男子のグループがこぼした。

「あいつ他にも何人か彼女いるんだぜ。しっかりリア充してるよな」

「リア充ってか? 三股・四股のゲス野郎じゃないか」

「吠えるなよ。モテない男の負け犬の遠吠えって言われるぜ」

「でもアイツは性悪だよ。先月まで一緒にいた彼女が、リストカットしたんだぜ。お腹に子供がいたって言うし」

「マジかよ」

「死にはしなかったけど、退院と同時に大学辞めたって聞くぜ」

「遊びで付き合ってたってわけだな」

「そうだろうな。相手の女の子はゾッコンだったようだけど」

「ひでぇ話だな」


 その時の一連の会話が頭をもたげたのだ。

 あの時は、心に蓋をしていた葵には何も感じなかった。

 だが今は違う。

(何故その子を、大切にしてやれなかったんだ?)

 と今更ながら咎めてしまう。

 そして今は自分に問い掛けていた。

(ぼくのしていることは、あの時のゲス野郎と同じなんだろうか?)

 寂しい顔で、葵の肩に頬を当てるスルーズが傍にいてもなお、離れ離れになったアナスタシアに思いを寄せる葵がいた。

 アナスタシアへの恋心は本物だ。

 しかしスルーズを家族のように大切に思う気持ちもまた、本物だった。

 アナスタシアもスルーズも共にいたいと願った。

(ぼくのしていることはアイツと同じなのか?)

 もう一度自分に問い掛けてみるが、答えは空白のままだった。 

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