第55話 スルーズとアナスタシア





(傷の治りが遅すぎる)

 スルーズは右胸の下の、中々塞がらない傷口を見下ろした。

 これ程の深手を負ったのは初めてだから、治癒に時間が掛かるのかも知れないとも考えた。

 一つ上の姉、エリーナ・ゼルがロマノフ帝国との攻防戦で、ヒルーデ・アイ・レーニエ男爵に深手を負わされた事があった。

 スルーズの刺し傷とは少し異なるが、かなりの深手にも関わらず、三日で戦線復帰した事を思えば、やはり遅いと思った。

 あの時、ハモンドによって肩口から胸元までの深い刀傷を負ったポーラはすでに回復していた。

 それに加えて気になる事もあった。

 スルーズの魔力が弱まっているのだ。

 特にそれは葵との読心魔法に顕著に表れていた。

 葵のシンクロ魔法の成長で、自身が読心魔法を発動しなくても、勝手にみずからの心に入り込んで来る葵の無意識の念に怯え、それがスルーズの出奔の原因にもなった。

 だが今は、葵に触れていないと念を通しての会話は出来ない。

 つまり、葵と初めてシンクロした頃のレベルにまで後退しているのだ。

 葵はそれをまだ知らない。

 治癒能力の低下とそれがどう結びつくのかは分からないが、スルーズの全ての魔力が著しく低下しているのは確かだった。

 スルーズなりに思い当たる物は二つあった。

 一つは魔法封じの亜麻色の髪である。

 あの髪は装着している時だけ魔力を抑えるのではなく、外した後も根本的な能力まで奪っているのかもしれないとスルーズは推測した。

 もう一つは、アナスタシアの刺し傷だ。

 アナスタシアの刺し傷は相当深かった。それゆえ、スルーズの魔力に影響を与える体の部分に損傷を与えたのかもしれない。

 いずれにしても憶測の域を超えていなかった。

 スルーズの能力が低下すると、葵のシンクロの力も弱まるようだ。

 それはスルーズにとって、ある意味有難い事でもあった。

(葵様に心を覗かれないで済むわ)

 スルーズは葵には知られたくない事があった。

 アナスタシアに胸を貫かれたあの件もそうだ。

 確かにアナスタシアの剣捌きは鋭かったが、それを自らの剣を以てかわせないスルーズではなかった。

 だがスルーズは、敢えてそれを体で受け止めた。

 怪我をすれば葵は自分を放っては置かないだろう。

(きっとわたしの傍にいてくれる)

 あの一瞬の出来事の間に思い付いた命がけの悪巧みだった。

 案の定、葵はスルーズの傍に寄り添ってくれた。

 だけどそれは、スルーズには却って辛い結果をもたらすものでしかなかった。

 時折見せる寂しげなその横顔や、視点の定まらない目で物思いにふける葵の姿は、見るに忍び難かった。

(それにあのことも、葵様には話していない)

 ロマノフ帝国が代々受け継いでいる、黒髪・黒瞳の血統だ。

 葵は身分の違いから、アナスタシアはいつかは忘れなければならないひとと考えているようだが、実際にはニコラスの眼鏡にも叶い、何よりもアナスタシアの心をも掴んでいた。

(わたしが教えてあげれば、葵様の苦悩は解決する…)

 それは分かっている。

 だけどそれだけは口にしたくなかった。

 葵はアナスタシアと同じくらいスルーズの事を大切なひとだと言ってくれている。兄妹のように……。

 でも妹と恋人では全く想いが違うのだ。

(葵様は手放したくない)

 その思いは強い。決してアナスタシアには負けない。

 このままここで暮らして行けたならどんなにいいだろう。

 だけど、ここは葵にとって心地よい居場所とは言えなかった。

 仲間のバルキュリアを四人も殺されたのだ。

 葵は少なくとも敵方の人間と言う受け止め方をされていて、スルーズが間に立っている事で、辛うじて危害を加えられないで済んでいると言った所だ。

(わたしが少しでも目を離したら危険だわ)

 そんな思いもあって常に葵にまとわりついていた。


「ルマンダにいるようだ。ハルを連れて来る。ロゼの傷を治すにはハルの力が必要だ」

 スルーズの傷の治りが遅い事を危惧した葵は、昨日の早朝そう言って王立保養所跡を飛び出した。

 ハルは恐らくS級レベルであろう通信魔力を持っていた。そのハルから葵の持つ黄色の通信魔石に連絡が入ったと言うのだ。

(そのまま帰って来ないのかもしれない)

 だが、それは杞憂だった。

 今日の夕刻に葵はハルを伴って戻ってきた。


 大広間にはほぼ全員が集まっていた。

 ハルには事情を説明してあったようだ。ソファーでスルーズが横たわると、ハルは傷口の辺りに手をかざした。

 葵はハルの背後から、ハルの小さな肩に手を置いた。

「うっ…」

 少し痛みが走った。

 急速に皮膚が塞がって行くのがスルーズには分かった。

 そして数分の内にスルーズの表面の傷も消えた。スルーズは妙な気怠さを覚え、ソファーにうつ伏せたままだった。

「さすがですね。兄さんのアシストがあると深い傷もすぐに治ります」

「いや、ハルの治癒魔法あってのものだよ。ありがとう」

「お礼なんて止めてください。ぼくは兄さんの役に立てたのなら、それが嬉しいんですよ」

「そうだ、ハル。みんなに紅茶を出してくれないか?」

「はい」

 ハルはその場でお茶の用意を始めた。

「ねぇねぇ、紅茶って、この前飲ませてくれたヤツ?」

 目をキラキラさせてメリッサがハルの隣りに座った。

「はい」

「ねぇ、コーヒーってやつも作れる?」

「大丈夫ですよ」 

「わたしそれお願いね」

 メリッサだけは親し気にハルに話しかけているが、他の者は遠巻きに好意的でない眼差しを向けていた。

 ハルもそれは感じているようだ。少しおどおどしながらも笑顔を絶やさなかった。

「ハル。ありがとう」

 と体を起こしたスルーズが声を掛けた。

「わたしは葵様のサーバントだけど、妹でもあるのよ。だからあなたはわたしの弟ね」

 ハルとの出会いは葵から聞いていた。

 スルーズは集まったみんなに聞こえるよう言い放つ事で、ハルに無体な仕打ちが出来ない形を取ったのだ。

 葵の細い手がスルーズの頭を撫ぜた。

「治ったんだね。よかった…」

 葵のホッとする顔がスルーズは嬉しかった。

「葵様、子ども扱いなさらないでと言ってるじゃないですか」

「だったね」

 そう言った葵の笑顔がとても自然に感じた。

 一瞬素直に喜んだが、何故か説明できない違和感を覚えた。

(葵様の心が浮き浮きしている)

 読心魔法はいまだ不調だが、スルーズの女の感が葵の想いに気付かせてくれた。

 きっとアナスタシアに会ったのだ。

 ハルを連れて来たのは確かにスルーズのためになったが、真の狙いはアナスタシアに会うためだったのではないのか。

「アナスタシア様に、お会いになられたのですね?」

 黙っていようと思ったが、心に蓋する前に、スルーズの口から出ていた。

「うん」

 葵は短く素直に頷いた。

 隠す素振りを見せなかったのが救いだった。

「お元気でしたか?」

「ああ。キミに会って詫びたいと言っていたよ」

「あれは仕方のないことです」

「ロゼ……」

 と葵が珍しく真面目な顔を向けた。

「ぼくたちは一緒にはいられないのかい?」

 スルーズは答えられなかった。

「ぼくはゲス野郎かもしれない。キミとアナスタシア様のどちらがいなくても寂しいんだ。アナスタシア様の傍にいるとキミが今どうしているか気になるし、キミの傍にいるとアナスタシア様のことを考えてしまう。二人が傍にいる時はそんなこと考えもしなかったのに……何て言うのかな……ぼくの心が落ち着かないんだよ、今のままでは」

「そんなこと言われても……」

 スルーズは俯く事しか出来なかった。

 葵も困った顔をした。少し前までは見せなかった表情だ。

 何か話しかけないといけないと思いつつも、いい言葉が見当たらなかった。

「兄さん。スルーズ様。紅茶が入りましたよ」

 いいタイミングでハルが割って入った。

 葵にはコーヒーを、スルーズにはミルクティを、ソファー前のテーブルに置いた。

 葵はコーヒーを一口飲み、テーブルに置いた。

「勝手なことして申し訳ないけど、読心魔法のことをアナスタシア様にだけ話したよ」

「……そうなんですか」

「怒ってる?」

 スルーズは軽く首を横に振った。

 それを打ち明けなければならない流れにあったのだろう。

 とすると、葵はきっとロマノフ王朝が代々受け継いできた、黒髪・黒瞳の血統の存続について聞かされたに違いない。

 スルーズは亜麻色の髪を装着して、葵の黒い瞳を見つめた。

 読心魔法が勝手に発動するのが怖かったからだ。

 葵もスルーズを見つめた。

「ぼくは一月に一度だけアナスタシア様に会いに行くと約束したんだ。それ以外はキミの傍にいる。キミがぼくとアナスタシア様と三人でいられる環境が出来るまで、ぼくはロゼの傍にいることにした」

「よろしいのですか?」

「ロゼが幸せになる方法を見つけたいんだ」

 葵の真っ直ぐに見つめる瞳はまるでアナスタシアそのものだと思った。




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