第47話 悲しきフローラルの香り
二日後にハルは全快した。
普段から服薬しないせいか、薬の効き目は予想以上に早かった。
「葵様、本当にありがとうございます。わたしは何でお返したらいいのかしら?」
「いいよ。そんなのしなくて」
「そんな訳にはいかないよ。だってこの子はずっと病気がちで、いつも咳込んでばかり……。一生このままかもしれないって、悲観していたのよ。今度だって、熱さえ収まれば万々歳だって思っていたのに、葵様はそれだけじゃなくハルが背負っていた全ての病を治してくれたのよ。このままじゃ罰が当たるわ」
「キミは魔法が使えないぼくに代わって、生活魔法を使ってくれてるじゃないか。それで十分だよ」
水を出したり、火をおこしたり、今までスルーズかハモンドにやってもらっていた事が出来なくて困っていたのだ。
「行ってしまうのね」
エミールの呟きに葵は小さく頷いた。
「今日一日ハルの様子を見たら、明日の朝旅立つよ」
「そうなの…寂しくなるわね。明日からまた、わたしは悪いことして暮らしていくのね」
エミールは溜息を吐いた。
「そうだ。キミ達が独り立ちできるように、一つ仕事を上げるよ」
「仕事? それってどんなこと?」
「一つキミ達も試してみたらいいよ」
そうなのだ。
例によって例の如く、エミールの部屋でミルクティを作って見せた。
その反応は言うまでもないだろう。
「これ、絶対売れるわ」
「うん。ぼくもそう思うよ」
ベッドから起き上がれるようになったハルも喜色を
「キミ達ならきっといい紅茶が作れるよ」
何よりも弟のハルは、風・火・水・土を含む多彩で強力な魔力マナを持っていた。葵の知識では、はっきりした事は言えないが、いずれもA級以上の魔法レベルにあると感じた。
葵よりも時間はかかるが、ハルの魔力とマナを以てすれば、彼一人で紅茶に加工出来る筈だ。
静養がてらハルを連れて、葵とエミールはルマンダの外の山すそを訪れていた。
そこにはエミールが髪に刺しているいい匂いのする白い花が群生していた。
「うわぁ、フローラルの花が一杯! わたしこの花大好きなの」
「フローラルと言うんだね。この花の匂いはキミの匂いだ。とてもいい匂いがするよ」
「ありがとう」
エミールはフローラルの花を一つ摘むと髪に差した。
「ねぇ、これって紅茶に使えない?」
「ああ、そうだね」
それはありだと葵は思った。
何も元居た世界のクラシックメニューに拘る事はないんだ。
この世界のオリジナルメニューを作るのも一興だと思った。
フローラルの群生地を過ぎると、そこは茶の木の自生地だった。
「これがお茶の葉っぱだ。これを加工して紅茶を作るんだ」
その後、山を越えた平地に自生するテンサイもどきの植物の茎を絞って砂糖を採取するコツを教えた。
ミルクは近くの牧場の乳牛の乳を使えばよかった。
茶の葉とテンサイもどきを持ち帰ると、葵のシンクロ魔法のサポートはあったが、ハル一人で紅茶の葉と砂糖を一時間も掛からず作る事に成功した。
試飲してみて、三人は顔を見合わせた。
「同じ味だ!」
三人はハイタッチで喜びを表現した。
「これは門外不出。企業秘密だ。独占販売することでライバル店を作らずに済むからね」
「分かってるわ。絶対に成功させて見せるわ。わたし達の暮らしはきっと良くなるし、わたし達と同じ思いをしている人を雇ったり、力になってあげる事も出来るわ」
葵はエミールのその言葉を聞いて笑みが漏れた。
エミールが心底悪事を働く人間だったら、絶対にそんな事は思わなかった筈だ。
「キミならきっとそういう方向に考えてくれると信じていたよ」
「だってわたしは返しきれない恩を葵様から頂いたのよ。お優しい葵様が喜んでくれるとしたら、人助けしかないと思ったの。違うかったかしら?」
「キミはぼくのこと、善人の塊みたいに思っているんだね。ぼくは聖人君子じゃないけど、みんなが笑顔になれたらいいな…くらいには思っているよ」
夕暮れが染まる頃、葵はエミールとハルを連れて食事に出かけた。
葵が持っていた沢山のロマノフ通貨はゲルマン通貨に換金済みだから、物価の高騰が続くゲルマン王国でも、好きなだけ食べられた。
食事の後葵は、賑やかな食堂でエミールにゲルマン金貨二十枚を与えた。
「当面の生活費と運営資金だ」
「そんなの受け取れませんよ」
「いいんだよ。キミも不遇な人を救おうとしているんだろ? キミを援助することは、そんな彼らを救うことにもなるからね」
エミールは涙を浮かべた。
「何もかも良くしてくれて、ありがとうございます」
葵はエミールとハルの姉弟に訪れる未来が、明るいものだと確信して疑わなかった。
そしてそれは、食堂を出た瞬間の出来事だった。
「ああああぁ…!!」
突然、隣にいたエミールが悲鳴を上げて倒れた。
周囲の女たちが悲鳴を上げた。
「エミール?」
「お姉ちゃん!!」
エミールの背中にナイフが深々刺さっていた。
「ざまぁみろ…へへへ。これが貴様の報いだ…」
見ると、体に返り血を浴びた三十歳くらいの男が立っていた。
「エミール! しっかりするんだ! あんた! 何てことするんだ!」
葵はエミールを抱き上げながら男に大声を上げた。
「何怒ってんだ! おれはお前を助けてやったんだぞ!」
「何を言ってるんだ! おまえ、人を刺したんだぞ! この子が何したって言うんだ! 」
「おれはコイツに全財産を奪われたんだよ。店の運営資金にするつもりの金貨をすべて奪われたおれは、妻と子供には逃げられ、店はつぶれたんだよ! すべてコイツのせいなんだ! おまえもさっき店で金貨二十枚をだまし取られていたんだぞ! 気付かないからおれが教えてやったんだ!」
「違う!」
葵は自分でも信じられない程、怒りと興奮に心が包まれていた。
「エミールはこれから真っ当な人生を歩もうとしていたんだぞ! それなのに……! おまえだけは許せない!! 」
「待って……葵様」
剣を抜こうとする葵の手をエミールが強く握った。
「その男の人……覚えているの……間違いなく…わたしが…騙した人よ」
「エミール! しっかりするんだ」
「葵様……これは、その人の言う通り……報いだわ。その人だけじゃない……わたしは多くの人を騙して……不幸にしたわ。だからね…こうなっても…仕方ないの」
「お姉ちゃん……イヤだよ。死んじゃイヤだよ」
命の灯が尽きようとしているのにエミールは信じられないくらい穏やかな顔をしていた。
「ゴメンね、ハル。お姉ちゃん……悪い事したから…天罰なの…これ…」
視点の定まらなくなった目が、泳ぎながら葵を見定めた。
「葵様の顔が…ぼんやりしてきた……」
「エミール……。やっと、これからなんだよ。幸せになるはずじゃなかったのか?」
エミールは力なく笑った。
「葵様……お願い…」
「何だい?」
「ハルのこと……頼めますか?」
「分かった。ハルはぼくが面倒みる。ハルだけじゃない、キミも一緒に面倒見てやる。だから…」
エミールの手が葵の頬に触れた。
「もういいのよ。わたしね…今まで不幸だと思っていた……でもね…最期の…この瞬間だけは……幸せよ……。だって…葵様の腕の中で……眠れるんだから……葵様……ありがとう……ございま……し…」
葵の頬を触っていたエミールの手がダラリと垂れ下がった。
「エミール!!」
葵はエミールの体を揺すった。
だが何の反応も示さなかった。
「お姉ちゃん……!」
ハルは物を言わなくなった姉の体を抱きしめて号泣した。
「おれは悪くない! おれはコイツに騙されて全財産を失ったんだからな!」
言い訳する男は、駆けつけた保安官に拘束され連れて行かれた。
葵は目を閉じるエミールとハルの二人を抱きしめながら、涙が零れない自分に嫌悪した。
(ぼくは…こんなに心がないのか!?)
心は悲しく泣いていた。しかし体が反応しないのだ。表情にも出ない。
隔離施設でもそうだ。
古くは両親が殺された時も、葬儀の時も涙が出なかった。
涙が出ない分、溜まった心が張り裂けそうだった。
エミールの葬儀は葵とハルだけで執り行われた。
墓石にカップに入ったミルクティを捧げながら、葵は命の
「ハル」
葵はエミールによく似た少年の名を呼んだ。
「……はい」
ハルは泣き濡れた眼差しで葵を見上げた。
「ほくはこれから、人を探して旅に出なきゃいけないんだ。エミールにはキミの事頼むと言われたが、キミはどうしたい?」
「兄さんは、ぼくが邪魔になりませんか?」
「いいや、そんなことないよ。兄さんって呼ばれて…何だか弟が出来たみたいで、嬉しいと言うのが本音かな」
「じゃあぼく、兄さんについて行きたい」
「分かったよ、ハル。今日からキミはぼくの弟だ」
「はい。兄さん、よろしくお願いします」
そう言って深々と頭を下げるハルを見た後、葵はエミールの墓石に目をやった。
(エミール。これでいいよね)
風が吹いた。
ふと、エミールの香りがした。フローラルの花の匂いだ。
『葵様。ハルのこと、お願いします』
幻聴だろうか。葵の耳元にエミールの声が聞こえた。
葵はもう一度エミールの墓石を振り返った。
何処からか飛んで来たのだろう。フローラルの花びらがエミールの墓石に引っ付いていた。
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